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・・・いる!

職場で働いている人の中に、とんでもなく様子のおかしい人が、(まあ何人かはいるのだけれど・・・)飛び抜けて様子のおかしい人がいて、その日はもうどうしようもなくおかしなことになってしまった。

いいのよ。気にしないで。(いつものことなの・・・)
と、私はその直後に計3人もの人達にそのような励ましをいただき、そのおかげで、なんとか今は平常心でいることができている。
本当にいつも支えていただき感謝の気持ちでいっぱいだ。

もちろん、職場の飛び抜けておかしな人にとっては、私のこれが、まったくもって面白くない状況なのだろう。だよね。
でもさ、それは私じゃどうすることもできなくて。

私にできることは、仕事をこなすことは言わずもがなとして・・・自分の気持ちを切り替えること。ゆっくり身体を休ませること。自分をいたわること。
そんな感じかな。
私が仕事をすればするほど、私の職場の飛び抜けておかしな人はより極端に、卑屈になっていく。こればっかりはもうどうすることもできなくないか。
変に情けをかけてしまえば、余計に深みにはまっていってしまう。
心を鬼にして、というと語弊があるかもしれない。
この言葉には「気の毒に思いながら・・・」という意味があるそうなので、これでは完全に自分が上の立場にいってしまっているみたいじゃないか。
上とか下とかじゃないのだし、自分が上とかいう困ったまやかしを自分が持ってしまったら最後、更なるおそろしい結末が待ち受けていることだろう。
これ予言かな。書いててそう思ってしまった。

自分が一番可愛いみたいな気持ちを抱いてしまうことはしょうがない。というかあっていいことだと私としては思っているし、その気持ちを抱くことを封じられた人間がいるという話を聞くたび、私は胸を痛めてしまったりする。まあ若干自分にも封印気味かも知れなかった心当たりがないとも言えない。
こういうのは(私の色々と胸を痛めがちなところは)、私のいいところなのだろう。
まだ記憶に新しいのでそう思えるのだが、いいところだよって、客観的に見てそう言ってくれた人がいる。
なんでもなかった仕事関係の人がそう言ってくれた事実が今、私を支えている。ありがたい。

当たり前すぎて何って感じだが、人はみな、それぞれの人生をそれぞれ生きている。
それぞれの人生なのだから、かなり極端に言ってしまえば、同情されることを徹底的に嫌って、人に八つ当たりをして、周囲を苦しめたがる悲しきモンスターにだってきっと、生き方ってものがある。
職場の飛び抜けておかしな人がどう生きているのかまでは存じ上げないが、というか知らない人ということこそ重要で、すべてを感知しようとしたって普通に無理な話であると今の私としては思う。
つまり、初めて来店した人から「いつもの!」とか言われるくらい無謀なことをされたら、店員にとっては知らないよ、である。
そして気を利かせた店員が、「わかりました(なんだろう・・・)」とか「というと・・・?〇〇でしょうか?」などと聞いても、相手に不機嫌の限りを尽くされてだんまりなぞを決め込まれたら、それはもうどうしようもないこと一直線なのだ。
例えるならそんな理不尽のような。凄腕店員なら、私では到底考えの及ばない何かスペシャルな接客をお見舞いするのかもしれないし、すべてにおいて理不尽だと言うつもりは私にはない。
だからこれはまあ、"私にとっては"、普通に無理な話なのである。

スペシャルな技能があるなら私は知りたいよ。思うだけなら大丈夫だろうし。伝授してもらえるかどうかは別として。
とりあえず、「いつもの」ってなんだろう?相手のニーズを知っていることでこの先もその人に優しくできるようになるかな、みたいに思う、そんな私の姿勢自体がとんでもなく気に食わない人だっているのだろう。
(優しくされるのが本当に嫌いで、ブチ切れる人って、多分かなり普通にいる。むしろメジャーなくらいいるように、それは自分が気に留めておく必要があることとして、そう思う)
そういう場合には、ドライでいるという優しさもあるのかもしれない。
優しさの時点でうとましく思われることもあるのかも知れないが・・・それはその人のためにそうするとかしないとかいうことが言いたいのではなくて、純粋に自分を守るためにそう感じるに至ったことだ。
自分にはどうしようもない。というドライさ。なのだ。(ちょっと悲しいことのように思える。何だかな…。)

同時に、自分(こちら)のことを何も知らない人が、なんか言っているとき。もしかしなくてもこのパターンの方がよくあることなのかも知れない。
何も知らない人が、故意にこちらを傷つけるようなことを言ってきたり、不機嫌をまき散らした時は、なるべく自分が傷つかないように包帯なんぞを纏いたいと思う。いやよく考えたらそれはちょっとうっとうしかったわ。
自分で傷口を広げないようにしたいということだ。
私はちゃんと真に受けるけど、それは根拠のあることだけでいいんだと思う。
何にも知らない人から、理不尽なことをされた(言われた)とき。それは真実ではない。断言させていただきたいくらいだ。
誰でもいいから人に当たる人だっているそうなのだから。
憂さ晴らしのような要素が含まれたとき。
真実は、自分のことを何にも知らない人の口から飛び出してくることは(おそらく)ない。
断言したいという気持ちだけでも、汲んでもらえたらありがたいと思う。

以上のことから、何も知らない人に言われている、という点こそが重要な判断材料になると思えた次第である。
そう思えたのも、「自分のことを何にも知らない、この先ずっと付き合っていく宿命でも何でもない人に、何か言われても落ち込むことなんかない(そういう人は誰彼構わずやっている)」と、過去のつらい経験を開示してくれた人の口から聞けたのがとても大きかった。
そうだった。その通りだった。ありがたい。
落ち込まないで、楽しいことを考えるようにしたいと思えた。

とてもいい機会だったのだろう。そう思うしかないみたいな感じでしかないけれど。
私はこれを書けてよかったと思う。そう思うために書いたようなものだ。そのために経験したということに(今から)するのだ。
ならびに、私のこのような話をここまで読んでいただいた方がもしいたとしたら。
ここに感謝を書き記しておくことにする。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

ちなみに記事タイトルの「・・・いる!」は、1998年に発売されたゲームソフトを(内容は何もかすってないですが)そのまま意識させていただいた。そのまんますぎてちょっと心配になる。
主観視点でポリゴンが懐かしいホラーゲームだ。
前回の私の記事タイトルが「寝る!」だったことも相まって、こんなタイトルをつけるに至った。

それと年齢制限がネックだが、「夜が来る!」という2001年に発売されたPCゲームがあるそうで、「A night comes」という主題歌が、以前から私にとってはとても好きな曲だ。とても好きな曲なんだ。(だから何さ)
自分にとって楽しいことを考えようってことなのさ。
本当に偶然で自分でもビックリしているのだけれど、

マジか!!
今、調べて知った。2024年にリマスター版が発売されていた。
なんか嬉しかった。

世の中のゲームに今、私は目を向けているのだ。
また、今回の私の記事の見出し画像は、長年遊ばせていただいた「デレステ」というスマホのリズムゲームからである。
楽しいことを考えようとして起動してみたら、ちょうどこんなことになった。ゲームの中でアイテムをもらえたからとかじゃなくて、変な話だが、なんとなく今までゲームをプレイした自分にありがとうと思った。長いことやってきた自分からの自分へのプレゼントみたいな、なんだか不思議な感覚になった。(私はこんなに長くいたんだな・・・と実感した)

私は今、ぼちぼち新しくゲームを買う計画を立てている。
これもまた偶然知ったことだったが、来年には私の大好きなポケモンXYの後(ミアレシティ)のゲームが出ることが発表されていた。
嬉しい。
もうゲームに生きようよ自分。
いいんだよゲームに生きたってさ。
私はゲームに生きるぞ!!
大袈裟ではなく、ね。

本当はこの楽しい要素を多めに書いていきたかったのだが(すごくつらいことがあったからという理由)、しかしその理由をすっ飛ばして楽しいことばかりを書いていくのは現在の自分にはとても困難であったようだ。まあ書けてよかったとか思っているような状況だし。
そして私のこれがめちゃくちゃしゃくに障った人もいれば、全くそんなことを思わなかった人もいるかも知れない。
3000字以上ともなると自分の色がたくさん出てしまう。
色には人によって好みに差がある。
もう、さ。
それはもう、どうしようもないさ。
報われたいよな。我が身可愛さが、自分にもあったんだ。だから本当に、よかった。

自分を大切にできるような気がしたから。

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