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カレーとトラリピ 終わらない物語

  カレーを煮た。材料は玉ねぎニンジン牛肉グリーンピースカレールゥ。ふつうのカレーだね。火にかかった鍋がまじめにぐつぐついうあいだ、パソコンの前に座りしばしなにかを考えることにする。

 なにについて考えるかをまず考えた。
いちばん手っ取り早いのは「恋」について考えることだ。女は「恋」が大好物で、それがない人生なんてどう、つまんなくない?と短絡的ため息をつきがちな生き物で、
「仕事なし、彼氏なし、ヒマだ。遊んでくれ」などという女ともだちに仕方ないからつきあうと
「いやね、気になる男はいるの。今落としかけてるところ」などとニヤニヤしながら打ち明けてくる。このニヤニヤが曲者だ。若いころは「恋」に必死なので、相手にどう思われているかを案じて心が揺れた。だが年を重ねた女は「恋」の真髄はニヤニヤにあると知っているので、相手にどう思われているかはわりとどうでもよくて、好きな男を想い服を選び化粧をする、爪を磨き新しい香りをためす、一連の作業が面白くて仕方なくなる。ひどいのになると自分から一目ぼれして積極的に相手の男に近づき思いを成就させたのち、「だって信じられないくらいアホなんだもん」という残酷な理由で3日でその男を遮断したりする。もっともこうした遊戯的恋の中に朝露のようにピュアな想いが隠れていることもある。こころのいちばん柔らかいところでうずく想いがある。それはとても貴重なものだから、神聖なものだから、無理に潰さずそっとしておくのがいい。

 「恋」について考えてもさほど新しい提案はなさそうだ。なら次は「死」についてはどうだろう?いつも思うのだが個人にとって経験のないことについての思考が果たして有益かどうか?
「死」の経験をわたしはもちろん持たない。誰かの「死」ならいくつか知っている。誰かの「死」がわたしにもたらすものは、はじめは嘆きだ、しかし嘆きはやがて自分が生きている、その事実に対する驚嘆と畏怖に変わる。
 自分の「死」を考えた場合、どうだろう?自分の「死」がわたしにもたらすものは、おそらくは、どう考えても、なにもない。Nothing again nothing. つまり汗もため息もエクスタシーも幸福感も飢えも暴力も嘲りもなにもない、静寂ももちろん存在しない、そういう状態?
 ん。果たしてそうか?そんなにことは簡単か?
「生」は終わる物語、「死」は永久に終わらない物語ではないのか?あるいは「生」は言葉が支配する無、「死」は無が支配する言葉、
あるいは「死」は永遠に金属の摩擦音にさらされる気狂いへの滑落?
 今、気づいた。安易に「死」を選ぶものはあまりに単純に「死」を無であるととらえていないか?「死」が永久の気狂い、一瞬の惰性を許さぬ新鮮な恐怖への招待、である可能性は果たしてほんとうにないか?生き地獄が存在するなら死に地獄という概念があってもおかしくはない。概念があるのなら、概念が指し示す状態が現実として存在しても、おかしくはないのだ。
 くりかえす。この世界はほんとうに何があってもおかしくはないのだ。朝目覚めたら自分が巨大な猫になっていたとしても、それはたいした驚きではない。単純に途方にくれるだけだ。
 いや、そんなことはない。やはり朝起きたら自分が巨大な猫になっていたら、たいした驚きだ。まずトイレをどうしたらよいのかがわからない。トイレの問題が片付いたとしても、おそらくはそうしたレベルの日常的問題は山積みになる。しばらくは話のネタに困らない。

「恋」「死」ときたら次に何を考えよう。「仕事」「人生」「トラリピ」「ヘアスタイル」「親子関係」「イエス・キリスト」「サムライ」「プーチン」「スペイン現代政治」「クロックスのサンダル」「卓球」「スキマスイッチ」「過去」「日本の英語教育」「どうして日本人は長い間勉強するにも拘わらずちっとも英語が上手にならないか」「ラテンアメリカのスペイン語とスペインのスペイン語の違い」「ひとはときどきえっへんしたくなる」「生意気な奴ほど弱い」などなど考えたいことは数々あれど、

カレーのいい匂いがする。そういえばしばらく息子と口をきいていない。かれは母であるわたしを遠ざけようと奮闘している。よいよい。それでよい。だが腹が減っては戦は出来ぬというではないか。たまには母が作ったカレーで腹を満たし、それからどこででもいい、自由気ままに生きてくれ。

 ちかごろ。トラリピがどうもよくない。ゼロ円が続いている。

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