見出し画像

退屈の効用


暇になると時間がある事に気がつく

デジタルデトックスだったり、ドーパミンデトックスだったり、強めの快楽を伴うものをやめてみて、大いに暇を持て余すようになると、本を読むようになった。
それは逃避の手段であり、やらなければいけないことをやりたくないが、かと言って暇でどうしようもないから頭を文字でいっぱいにするのである。
そんな生活を少しでも続けていると、今までこんなことはしてこなかったなと当然気づく。
なぜ本を読んでこなかったのだろう。
読む本も、小説だとか哲学書だとかいろいろある。
その中で人生とかに関する本とか勉強になるような本を読んでいると、これってビジネスパーソンあるあるの勉強時間を確保しましょうというやつを俺は今やっているではないかと気がつく。
もちろん時間ができたのだから勉強時間を確保できるのだけど、昔は到底できなかったことが今はできているのだ。
しかも、別に勉強をして人生に役に立てるぞなどとは一切思っていない。ただ暇があるから読んでいる。仕方なく読んでいる。

過去を振り返った時にどうしてこれができないと思っていたのか少しわかった気がした。
それは情報が過多になるからだ。
頭がいっぱいでやることもいっぱいで時間もなかったからだ。
しかし、諸々のことをやめてみると、暇なのである。
暇ということは時間もあるのだ。
しかも、人生について勉強するにはあまりに長すぎる時間がそこには存在している。
1日中そんな本を読んではいられない。
途中で飽きてしまうのである。

1日というのは、昔思っていたほど忙しくはないし、情報も多くないし、時間もあるし、何より暇である。
しかも勉強する時間がないのではなくて、勉強をしてたら飽きるくらい時間があるのだ。

忙しいのは、快楽のためである

忙しいのは快楽のせいである。
快楽を取り除いて、暇になったのだから当然の帰結である。
しかし、仕事をしている人間からすると当たり前ではないのではないか。
忙しいのは仕事があるからというのが普通だし、仕事による情報が自分を忙しくしていると思い込んでいる。
ただ、実際問題、労働量が変わらないとしても、快楽を取り除くと暇になるのである。

忙しいとか、頭がいっぱいだとか、頭がぐちゃぐちゃだとか、勉強に割くリソースがないとかそう言った事象は、僕たちは情報や仕事によって引き起こされると思ってきた。(ブラックなところで働かれている方は実際そうかもしれないがそんなところは早く辞めるべきである。この世からブラック企業を破壊し尽くすためにも。)
しかし、現実はどうも違うらしく、快楽というのも情報の一つであり、処理に負荷がかかるものであり、リソースを使うものであったのだ。
疲れた疲れたと言って、隙間時間をyoutubeやらポルノやらゲームやらで埋めてきた僕たちは、24時間フル稼働であったと言っていい。
そんなの、新しいことなどできるわけがない。

ここで注目しておきたいのは、快楽が現実逃避として多く使われるという現状である。
それによって僕たちは快楽漬け、快楽依存になり、時間をできる限り快楽のために使い始め、頭のリソースはパンパンになっていくのである。

快楽漬けになるのは現実から逃げたいからだ

僕たちが快楽を求め続けてしまうのは、現実を容易く逃避させてくれるものがこの快楽たちだからだ。
仮に快楽を辞めてしまうと、頭の中から現実を消すことは容易ではない。
ご飯を食べている時などに、急激に退屈になったりすると、頭の中はすぐに焦りでいっぱいになり体は焼かれ始める。
本来、youtubeがあれば感じなくて済んだものである。
しかし、一方でこの焦りへの感度が高まることで、僕たちはこの苦しい現実を受容することができるようになっていく。
物事を受容し前に進めるようになっていく。
これが退屈の大きな効能であると思う。

快楽を辞めてみると、逃避先の快楽はなく、家には難しそうな本が置いてある。
今は食事中で、体は焦りの炎に焼かれている。
食事を終えても、暇は続いていて、体を焼くこの現象をどうにかしたいと思う。
仕方なく現実を受け入れ始める。
こんな消極的な方法であっても、現実を受け入れて前に進み始めるのである。

快楽は現実を忘れさせてくれる。
ゲーム配信を見ていれば、まるで自分がゲームが下手である、なんならやったことがないという現実を忘れてしまうし、ポルノを見ていれば、自分がモテていないということを忘れる事になり、現実の女性に欲情する必要すらなくなる。
食事をしながらテレビを見たり、youtubeを見れば、美味しくないご飯や、孤独に食事をしている虚しさを忘れることができるし、移動をしているときに動画を見ていると、まるでファストトラベルをしたかのようにあっという間に移動できる。

快楽は全ての現実から逃がしてくれるのであるが、一方で脳のメモリは圧迫され、現実がどうなっているか認識できず、手遅れになった状態になって現れた現実に対して、なんでこんなに忙しいのだと言いながら激務を繰り返し、終わった後の虚しさを埋めるためにまた快楽に浸るのである。

依存の原因は、ストレスである。
薬物もオーバードーズもアルコールも全てのきっかけはどうにもならない現実の苦痛である。

だから、こういった依存症になる人のバックボーンを聞いているとそれは大変だったなと思わされることが多く、この世の人々は芸能人の薬物を叩いたり、薬物で捕まった人の再犯を嘲笑するべきではない。
自分自身が今愚かにも人の不幸という快楽を啜ることで現実の苦痛を忘れているという皮肉に早く気がつくべきである。

僕たちは薬物に手を出すほどまでいかずとも、それなりに現実はしんどく、快楽に依存的になってしまうことも無理はないかもしれない。
しかし、どんなに辛いことがあった人でも薬物依存のままで一生を終えていいのかというとそういうことでもあるまい。
依存になってしまった頃には、思考は現実よりも依存対象に多くさかれていて、あなたのパフォーマンスをかなり下げているわけで、もしかするとその依存を取り除く事によって大元の現実の苦しみを解決できるかもしれないし、依存状態という茨によって隠れていた本当の問題が見つかるかもしれない。

快楽によって思考力が落ちるなんて単純な話ではない。
現実の辛さと人間の弱さと、快楽の楽しさと、快楽の依存性と、快楽の思考圧迫がいろいろとひっくるまって、気がついたらもうスマホなしには生きていけない体になっているということが言いたいのである
それは自己責任とは言い難いし、治すべきこととも思わない。
ただ、僕の場合はそれらが頭を支配しているとか、現実がうまくいかないとかそういうことを変えたいと強く思ってしまったし、とにかくしんどかったから快楽というものをやめ始めたのであって、もし本当にしんどければそういった道もあるのではないかと言いたいのである。

退屈との向き合い方はカラフルだ

退屈になると、焦りが生まれて、現実と向き合わなければいけなくなって、現実はそれなりに進み始める。
それでも現実を24時間やるわけにもいかなくて、途中で疲れるし、ある程度やってみると、こんなにやったの!?となって自分を褒めてやりたくなる。
だから勉強が丸一日続かないように、現実のことだって丸一日は続かない。
そうしたらまた退屈になって、本を読んだりするのだけど、退屈の効能はもう少し深いところにあるような気がする。

例えば、僕は今退屈だからこういう文章を書いている。
別に何かを発信したいとか、有名になる算段があるとか、デジタルデトックスを広げたいとかそんな思惑なんて全くなくて、退屈に横になっていたら、頭を整理したい欲望が湧き上がり、よくわかんないけどとにかくいてもたってもいられなくなってこの文章を書いているのである。

退屈は僕の場合、読書と書き物を現状もたらしているわけだが、人によっては筋トレやランニングをもたらす人もいるかもしれないし、料理をもたらす人もいるかもしれない。
その違いこそが人生の素晴らしさではないかと思う。
あなたにはあなたの退屈との向き合い方があるのである。
どうしようもなく退屈になって、ああ!!と言ってnoteを開いて文字を打ち付け始め、気がついたら3300文字書いてしまうことだってあるのだ。

この退屈との向き合い方がどうなっていくのか今の段階ではわからない。
こういう自分から出た自然な暇つぶしがどう花開いていくのかもわからないし、もしかしたら何か別のことを思いついて、一念発起をするのかもしれないが兎にも角にもわからない。

ただ、退屈を享受し続けると、非常に自然な形で自分なりの暇つぶしを見つけ始める。
特に行動を伴ったものを見つけ始めるというのも事実である気がする。
なんだかそれがすごく自然で気持ちが良くて、新しくて、ありのままで、自分らしくて、唯一無二な気がするのだけど、皆さんはどうだろうか。

僕は少なくとももう少しこの退屈を受け入れてみようと思う。

この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

仕事について話そう

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!