書き出すことで情報が整理され、気持ちや心、考え方が好転できる
この一年くらいのことをちょくちょく書き出し、情報を整理して行った。
すると、頭の中で当事者として当時思ったこと、状況が実際問題どうだったかなどを別の視点で眺めることができる。
当時怒りを覚えたことが、本当は悲しみだったとか、辛さだったとか、そもそも感じていた感情と表現していた感情に乖離があっる場面があることもある。
あるいは一生懸命に説明や説得を試みていただけで、本当は怒りはない場面もあった。
本当は口に出すことで一番説得しようとしていたのが自分だということもあった。
そして、いやこの視点や考え方はおかしい、正すべき、あまりにもバイアスがかかりすぎるというところも見えて来た。
さらには、情報を書き出すことで自分のミスや相手の勘違いを生んだり、相手の意図が当時の解釈とは違う可能性も見えて来た。
全てが記憶から書き出した情報のため、写真やビデオのように当時の情報を寸分の狂いなく描きでしたわけではない。
もちろん私の解釈を通して記憶された事柄は、別の誰かが思い起こした情報とは異なるかもしれない。
そして、整理し直して正した記憶も所詮は私自身の考えと想像を元に解釈を変えたのだから、丸々の寸分の狂いのない事実になどはなっていない。
でも、相手や自分のミスだけではなく、色々なターニングポイントに気がつけたのは大きい。
それは、改善点でもある。
そして、コミュニケーションが上手くいかない原因の解明の一端を担ってもいた。
同時に、炎症の影響か、抗体の影響か、他の原因もあるのか、今まで認識していなかった症状にも気がつけた。
また、自分の価値観も整理できた。
正直、バイタルが安定していても、やりたいことを何もできず、ベッドで苦しむ毎日を送るよりも、たとえ数字的な余命が短縮したとしても、自分らしく生きられる時間を延ばしたいと思った。
これは言い換えれば、健康寿命を伸ばしたいという願いである。「たとえ今の治療で発がん性や肝障害の餌食にになっても」という副作用を許容してでもという表現自体は反感や誤解を招きかねない。
しかし、それは死期を早めたいという考えではない。
精神も含めて自分らしく存在するために、他にもっと安全な方法がないのであれば、心拍があり、呼吸が傷害されても存在しているが常に苦しみの中にあることで、生存意義を疑問視したり、そもそも死という形であっても苦しみから抜け出せる道が自分の現状より輝いて見える苦しみから抜け出したいという思いだ。
もし、安全な治療でそこから抜け出せるのであれば、それに勝ることはない。
しかし、DNAに作用する薬剤を使用しなければ、自分らしい前向きな心を取り戻せず、ベッド上でただ時間が過ぎていってしまう日々から抜け出せないのであれば、その薬剤の効果がもしかしたら起こるかもしれない副作用のリスクやマイナスよりもベネフィットが上回るという考えだ。
同時に、病気になってしまうということは、二度と元には戻らないということだとも思うようになった。
病気によって起きた悪い状況というところから、時間軸が前進の方向にしか伸びておらず、戻るというオプションはない。
だから、改善はできても、巻き戻して病気以前に戻るということはあり得ないと考えるようになった。(寛解して病気以前の「ような」生活に漕ぎ着けることはできるかもしれない。しかし、病気以前の状態に戻るというのは、時間を巻き戻せない以上不可能なのだろう。)
すると、たとえミスや失着、最善手ではない治療であっても、医者が関わらないで、治療が一切なされない状況と比べたらマシな状況にある。すると、医者の力量がたとえ至らずとも、それは咎める対象ではないことにも気がついた。
そりゃぁ、常に最善手で、ミスもコミュニケーションエラーも無いことがベストだよ、でも、たとえそうでなかったとしても、一切治療を受けられないことに比べたら遥かにマシな状況だろう。
欲を出しすぎたから、最善手でないことに不満を持つなというのも難しい話ではあると思う。しかし、仮に怒りや憎しみを抱くのであれば、それは病気や境遇に対してであって、改善に努めて人間であるべきではない。
そうは言っても、処置をしたことでしないよりも酷い・悲惨な状況というのも存在するだろう。その時に最善を尽くしてくれたのであれば、悔しくはあっても、力不足に怒りを覚えても、改善に努めた人物は咎める対象ではない。
じゃぁ、手を抜いたり、ミスをし、それを隠蔽しようとした場合はどうだろうか。
ある意味では、何故手を抜かなければいけない状況に陥ったのかや何故隠蔽しなければいけない状況だったのかということを考えると少し気が晴れるかもしれない。手抜きは正直許し難い。人命以上に大切なことがあろうか? しかし、その人物のキャリアや人生がかかった場面では、自身を優先するのは人間の本能。その状況、その状況が起きたタイミング、極論、全てが折り重なったのもある意味運。仮に呪うとしたら運が悪かったことなのかもしれない。そして、そもそもタイミングなどは人間に左右できることではないかもしれない。すると、雷や地滑り、地震などのような天災に似た側面もあるかもしれない。
隠蔽、それも本人のミスでもないのに隠蔽するのは理解に苦しむ。しかし、その人が育った境遇や社会人として揉まれた環境がそうさせているのだろう。隠蔽を働いたのは確かにその人かもしれない。しかし、その人がそういう行動をとる人になってしまった境遇はその人にはコントロール出来なかったのかもしれない。(ここ一年じゃない事象ではあるが→)自身のミスを隠蔽した場合には、困惑以外の感情が湧くだろう。しかも、ミスを目撃したにも関わらず、なかったと言い張り、記録上は別の誰かのミスにされていると、それはおかしい。ミスで苦しめられた場合、ある程度傷つくのは当然かもしれない。しかし、怒りは多分、無実の罪をなすりつけられた人への同情と正義感が故の怒りではないかとも思う。
無知や驕りは呪っても、その人物がそういうものを持っていたのは本人にはどうしようもなかったのかもしれない。まぁ、どうにか理由をこじつけて色々な感情を浄化しようとしているだけかもしれない。
神でない以上、全ての人間が全ての事柄を知り、理解し、気がつくことはできない。
そして、「伝え方」においては私も改善しなければいけない点が多々見えて来た。
書き出して、情報や感情を整理することで、視点を変えることができる。
状況の整理だけではなく、自身の今後の課題や改善点が見えるという意味で、非常に有意義だろう。
私が過去に公開した記事の中には、「あ、こう書き出してみると、これ結構ヤバい・不味いな」と思うものもある。しかし、当時の記憶やとりあえず忘れる前に書き出しておくということで、そのまま修正せずに公開していることもある。今後整理しようと思う。
ある意味では、日記のように自分のために書き出している面もあるので、読者の方には未熟な文や稚拙な内容、歪んだ視点のところは謝らせていただきたい。
非常事態の最中には、当事者の視界が狭まることや苦しみに平時では帰着しない考えにも帰着することも含めて、「闘病」の綺麗な場面だけではなく、汚くて酷い、自分でも後々思い返せる時がもし来たならば、考えを改めることも含めて知っていただけたら幸いです。
ぐちゃぐちゃした文ですが、本日の頭の整理、朝会話した内容のメモ、過去の登記に反省、書くことのベネフィットなどなどでした。
またどうぞよろしくお願いします。
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