「脳死」と「死」と「生」のお話 (私の価値観の変化)

私は、臓器移植を強く肯定して育ちました。

今でも、敢えて立場として表明するなら、臓器移植推進派だと思っています。

外科的に臓器移植を行ったこともあります。生体腎移植のオペの助手に入ったことも、脳死ドナーからの腎や肝移植も実施して来ました。

脳死ドナーの方の臓器摘出も…

そんな私が、脳死についての価値観を今は強要はしないかもしれないと思うに至りましたが、先ずは順を追って話します。

幼い頃に友人が病死した影響もあるでしょう。小学生の時に、母に私が死んだ時にはドナーになることに同意するよう説き伏せました。

最初は、母に拒まれましたが、自分が何故ドナーになりたいと思うかを切々と語り、自分の意思であり、最後の自己決定権の尊重の大切さを切に訴えました。

晴れて、小学生六年生の時にドナーになる意思を書面に残しました。もちろん、保護者の同意のサインももらって。

もっと言うなら、幼少期から脳死は死であると信じて疑いませんでした。そして、脳が機能していない状態も、脳の機能が劣えることも極端なまでに嫌っていました。

自分という人間は、その思考や思想であり、脳こそが人として最も大切なものだと信じて疑いませんでした。「脳=人」と。

が、たかだか10代で、脳のMRIで病巣が見つかった。

その時はおそらく地獄でのたうち回るような葛藤があっただろう。そして、どんな代償を払ったとしても、頭脳を守ることを最優先に考え、果敢に抗がん剤治療に挑んだ。

その考えが正しいか否かは賛否両論あるかもしれない。

価値観というものは、そうそう変わらない。私自身の価値観として、今後も私は私自身の脳を大切にするだろう。

同時に、様々な考え方があることも知った。

また、より高度な技術で検査をした時との画像上の病巣の大きさや数、鮮明さ、周囲の組織との状況の見え方の差も目前にした。

技術の差が、「見える」と「見えない」を分け、それは即ち「存在」をも左右する。

人間は、多くの場合に、見えるものしか存在していないと錯覚してしまうようだ。

以前は、脳死を絶対的な死として信じて疑わなかったが、その考えが変化し始めた。

今でも、脳が実際に死んだとしたら、生命維持ができないし、それは例え機械で一過性に肉体の機能を補助しても、生と呼べるのか、それを果たして幸せに生きていると表現できるかは…私はNOという答えに感じる。

しかし、感じるという曖昧な表現でとどめるに至る。

同時に、私の闘病中、死ぬより苦しくて、もし再びそのようなことを味わうくらいなら… 

とか、

実質的には何も出来ず、他者と交わることも著しく少ない、延命治療中に人として生きていると果たして呼べる状態なのだろうかと自問自答したこともある。

一方で、脳波がない、反射がないということは果たして脳という臓器が本当に「死んだ」状態にあるかと問われたら、「死以外にそれをなんと呼ぶ」と以前は即答した事象も、今は考え込んでしまうかもしれない。

何故ならば、脳波の機械がもっとノイズの少ない環境でも本当に一切何も拾わないのか、

とか

将来技術がさらに進歩した時に再び測ったら、ゼロじゃない可能性が本当に無いのか、

とか

反射も、もっと技術があり、時間にゆとりがある医師が丁寧に取ったら、全く同じ「無い」という結果になるのか

などといった様々な疑問に100%間違いのない答えなど持ち合わせていないからだ。

もっというのであれば、おそらく100%なんてものはこの世に存在しないとすら信じている。

人間が知らないことも理解できていないことも、まだまだ沢山あると思っている。

現在知られている医学を含むサイエンスといわれるものも、事実が立証されているというよりは、真実になるべく近づいた現時点での理解というものに帰着しているに過ぎないと言っていいだろう。

即ち、「分からないなりに、分かる範囲で解明し、それで最善を尽くしている」と表現するのが最も実情に近いのではなかろうか。

これは同時に、将来今の理解が覆される可能性が微塵もないなんてことはないとも言えよう。

だから、私は本当に脳が死んでいるのであれば、「脳死は死である」という意見は大方信じている。

それでも、肝心の「脳が死んでいる」と証明するとされる検査が万能で、絶対的なものであり、それは未来永劫不変的な事実であるという自信がない。

まぁ、PETで脳に血流が全く無いと見たら、などこの文でも、色々と議論の余地があるところは多いのだが…

それでも、結論を述べると、現代の最善の検査で脳死と判定されたから、それが100%死であると断言が、私の中でしづらくなった。

同時に、個々がそれぞれ「生」と「死」についての考え方が違っていることもどこかでは受け入れられるような気もする。

とはいえ、だからこそ死生観というものを自分の中で考え、周囲と話して意識のすり合わせが一層大切だとも考える。

「もしもの時について」とは、「もしも」ではなく「必然的に訪れるその時」であるとも思っている。

追記:今も私はドナー登録をしていますし、脳死判定を受けたら臓器ドナーになりたいと思っています。正直、命のバトンという考え方にも賛同しています。しかし、昔は積極的にドナーになることを勧めていましたし、今でもその選択を心から望む人が増えて欲しいと思う一方で、他者の死生観を尊重しやすいメンタリティーに帰着していると思います。
元来死生観は生き続ける限り、人生の歩みと共に変化するものだとも思っています。なので、これは現時点での私の考え方です。

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