見出し画像

【感想】映画『窓辺にて』(今泉力哉監督)の稲垣吾郎の役に超共感。「好きとは何か」が分からない人へ

完全版はこちらからご覧いただけます


映画『窓辺にて』の主人公・市川茂巳に対しては「共感できない」方が自然なのだと思うが、私は物凄く共感させられた

映画『窓辺にて』(今泉力哉監督)の主人公・市川茂巳は、かつては小説家でしたが、今はフリーライターとして生計を立てています。そしてこの映画は、そんな市川茂巳の葛藤を中心に展開する物語です。
 
それがどんな葛藤なのかについてはすぐ後で触れますが、そのことを知った周囲のほぼ全員が「あり得ない」という反応を示していたのが印象的でした。とにかく、「市川茂巳の葛藤は、世間一般にはまったく共感されない」ということが、劇中のあらゆる場面で示されるというわけです。まあ別に、そのことに対して驚きはありません。きっとそうなんだろうなと私も思っているからです。
 
ただ、私はもの凄く共感してしまいました。「うわぁ、まったく同じかもしれない」と思ったくらいです。恐らくですが、この映画をそんな視点で観る人はほぼいないでしょう。私はちゃんと、自分の感覚が世間から外れていることを理解しています。
 
その上で私はこの記事で、「市川茂巳にどんな風に共感したのか」について書いていくつもりです。
 
さて、先程少し書きましたが、この記事では「市川茂巳がどんな葛藤を抱えているのか」について触れます。私の中には、本や映画の感想を書く際の「ネタバレ基準」があり、それを踏まえた場合、「市川茂巳の葛藤」について触れることは、私の中で「ネタバレ」です。普段なら書きません。ただこの記事では、まさにその「市川茂巳の葛藤」に言及したいので、普段の「ネタバレ基準」は無視して、作品のネタバレになるような部分に触れながら記事を書いていくつもりです。映画の内容を知りたくないという方は、以下の文章を読まない方がいいと思います。

まずは内容紹介

フリーライターである市川茂巳は、文芸編集者である妻から、発表が間近に迫ったとある文学賞をどの作家が受賞するだろうかと聞かれた。ノミネート作には、妻が編集を担当しているベストセラー作家・荒川円の作品も入っている。

受賞したのは荒川円ではなく、女子高生作家・久保留亜。市川茂巳はライターとして彼女の受賞会見の取材に赴いた。久保留亜は、恐らく受賞作を碌に読んでもいないのだろう記者たちの的外れな質問にウンザリする。だから市川茂巳の、作品の要所を的確に押さえた質問に興味を惹かれた。会見後、控室に彼をび、フルーツを食べながら、他愛もない話をする。

そうやって知り合った2人は、久保留亜から誘う形でちょくちょく会うようになった。ある時市川茂巳が、受賞作『ラ・フランス』に登場する、「何でも手に入れられるのに、それをあっさりと手放してしまう人物」にモデルがいるのか聞いてみたところ、「会いたい?」と聞かれる。そんな風にして市川茂巳は、久保留亜が小説のモデルにしたという幾人かの人物に会いに行くことになった。

市川茂巳の妻は、担当作家である荒川円と不倫している。荒川円は本気なのだが、彼女は夫と別れるつもりがない。彼女は、夫にはこの不倫はバレていないと考えているが、実のところ市川茂巳は妻の不倫を知っている。知っていて、何もしていない。

何故か。それは、「妻の不倫を知ってもショックを受けなかった」からだ。

市川茂巳が誰にも話せず抱え続けていた葛藤にメチャクチャ共感できてしまう

先程触れた通り、市川茂巳が抱えている葛藤は、「妻が不倫していることを知ったのに、ショックを受けなかったこと」です。そして、その事実を知った登場人物のほとんどが「あり得ない」と口にします。まあ、そうなのでしょう。「好きな相手が不倫していると知ればショックを受けるはずだし、ショックを受けないとすれば、それは相手のことが好きではないからだ」というのがその理由のようです。

私は、「そんなことないんだけどなぁ」と感じてしまいます。基本的に市川茂巳とまったく同じ感覚なのですが、だからといって相手のことが「好きではない」なんてことはないと自分では思っているのです。

私には、付き合っている相手の浮気が発覚したなんて経験は別にないのですが、もしそういう状況になったとしても、市川茂巳と同じように、その事実に対してショックを受けないように思います。20代の頃には既に、自分の中のそういう感覚に気づいていました。

相手の浮気を知ってもショックを受けない理由を言語化してみましょう。私にとっては何よりも、「私と一緒にいる時の振る舞い」が大事です。そして、相手が誰であっても、「自分と一緒にいない時間まで拘束する権利なんかない」と考えてしまうのです。私と一緒じゃない時は、その人が一番良いと思う時間の使い方をしてほしいと本当に思っています。たとえそれが、「別の恋愛対象と会う」みたいなことでも、まあ良いんじゃないかという気がしてしまうのです。

もちろん、私と一緒にいる時間に「浮気相手」との関わるが発生するのは違うなと思います。例えば、私と一緒にいる時間に浮気相手と会うための服を買うとか、電話をするとか、そういうのはさすがに嫌です。ただ、それを「嫌」だと感じるのは、「浮気相手と関わっているから」ではなく、「私との時間が損なわれているから」だと私は思っています。だから、私と一緒の時間がちゃんと楽しく過ごせていて、さらに、お互いが十分だと感じられるくらいきちんと会う機会を持てていれば、残りの時間は好きに過ごしてくれたらいいと感じてしまうのです。

私のこの感覚は、基本的には理解されないものだと分かっているので、普段人に話すことはありません。ただ、話の流れでそういう話題になった時に、ふと口に出してみることもあります。そういう場合にはやはり、「相手のことがそこまで好きじゃないんじゃないの?」という反応になることが多いです。市川茂巳もやはり、そんな風に言われていました。

私には、その感覚がイマイチ理解できません。それはつまり、「独占欲こそが愛である」という主張なのでしょうが、本当に「愛」の形にはそれしかないんでしょうか? 私は、恋愛に限らずどんな人間関係に対しても、「相手が無理することなく自分と接してくれること」が何よりも大事だと思っています。私の存在が、相手の何かを変えることを、私は好みません。つまり、「私がいるかどうかに関係なく、自然体でいてほしい」と思っているのです。

また私は、「凄く好きな人が同時に複数人存在すること」は別に自然なことなんじゃないかと考えています。むしろ、「自分が好きだと感じる人を、1人に絞らなければならない」という状況の方が不自然に感じられるのです。「相手には自然体でいてほしい」と思っているのだから、「私以外の人のことも自然と好きになった」のであれば、それを止める理由はありません。これが私の基本的なスタンスです。

そんなわけで、私は私なりの理屈で「相手のことを好きだと感じている」のですが、その「好き」が世間と異なるせいで理解されないのです。

市川茂巳もこんな風に口にしていました。

「好き」って気持ちが、他の人と同じような形では自分の中にはないのかもしれない。

これは、映画の中で一番共感させられたセリフです。同じように、次のセリフにも共感してしまいました。

自分の感情の乏しさに怖くなることがある。

凄く分かるなぁ、と思います。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

6,598字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?