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旬は過ぎたか挨拶の自由
話題の新陳代謝が早すぎな気もしますが、とりあえず思いついた与太話をまとめてみたいと思います。
提言者の方も色々と考えての発言らしいです。
と言っても、主張されている内容云々は、あんまり把握していないのですが。
それはさておいて。自分としては、この手の発言を、どうにも一人視点の考え方に思うのです。独りよがりとも言えそうですが、他人を蔑ろにするというよりも、そこまで考えられていないのかなぁ、という印
流行りに乗って考えてみる
挨拶の要不要で、皆さんが自分の考え方を述べていますね。
このような単純な行動1つでも、その是非の程度や考え方が色々あるというのが、非常に面白いです。
共感したり納得できる意見を見かける一方で、いまいち理解できなかったりする意見も見かけたりします。
1人で色々と考えるのは、自分を内側から作りあげていくようなものですが、このように沢山の人の意見に触れるというのは、自分の思考や価値観の外枠を削られて
気がついたら模様替え
PC・机周りを筆頭に、自室の模様替えをしょっちゅう行っている自覚があります。
バージョンアップよりはアップデートの、細かな部分の修正変更・改善がメインです。大掛かりに模様替えもしましたが、色々とあった結果、現在は最初の配置に戻ってしまいました。しばらく変わらない場合もあれば、半月毎に何かしらが変わっていることもあります。
その辺りから考えたことを、まとめてみたいと思います。
まず目的です。
こ
面白さのバランスを調節する
今遊んでいるゲームについて考えたことをまとめてみたのですが、もう少しだけ、その世迷い言を掘り下げてみようと思います。
今遊んでいるゲームの、ユーザーフレンドリーが30年前のままだと思った、という話です。
自分の見方ですが、ユーザーフレンドリーというのは、遊びやすさを補助する、ストレスを出来るだけ軽減させる仕様などだと考えています。
そして、このユーザーフレンドリーという部分は、ゲームの面白さを
面白いと感じるバランスが重要なのでしょう。
今、某RPG作品の精神的続編と呼ばれているゲームを遊んでいます。
30年近く前に発売されたシリーズは、続編も途絶えて久しく、今回、その1作目を制作したスタッフが独自に集まった次第です。
懐かしさを覚えながら楽しんでいるのですが、プレイしながら考えたことをまとめてみたいと思います。
しばらくプレイして1番強く思ったのが、今回の作品は、当時のスタッフが30年後に集結して新たに作り出した現在の作品なの
理解って、何なんでしょう
自分の理解の遅さをまとめてみたついでに、理解について、自分の考え方もまとめてみようと思います。
あくまで自分の考え方なので、冷やかし程度に扱ってもらって構いません。もし自身の考え方が霧中という方は、そういうのもあるのかぐらいに冷やかしてもらって、思考を固める材料にでもしてもらえたら、幸いです。
自分は理解という『分かっている度数』を、3段界に分けて考えています。認識、把握、理解の順番で、分かっ
理解するのは、簡単ではない
ずっと目を通し続けて、読み返してきた説明に、ある時突然、『あ。そういうことだったのか』と閃くこと、ありませんか。
自分だけなんですかね、これ。
単に物覚えが悪いだけなのか。
それまでの自分が、ただ節穴だったのか。
覚えた気になっていただけだったのか。
原因とは1つとは限らず、複数の要因が絡まっているものだと考えているので、多分全部乗せなのだと思います。
最近そんな出来事が続いて、理解する・覚
注文が多いのと、内容が細かいのと、早口で注文されるのと。
どれが一番、面倒でしょう。
内容が細かい沢山の注文を早口で伝えてくるお客さんがいて、スタッフさんたちがそんな人について話していました。
満載、ある意味で役満です。しかし、お客さん当人には悪気はないのでしょう。それが、その人にとっての当然なのでしょうから。
スタッフさんたちは注文内容の細かさを話題にしていましたが、自分としては、早口で伝えてくる点が、一番厄介だと感じたので、その辺りをまとめてみよ
ある意味で、義務教育の敗北なのかもしれません
横断歩道がない車道で、車の行き来が途絶えた瞬間を狙って、向かい側に渡っていくおじさんを眼の前で見かけました。
おじさんの交通法遵守精神云々については、さておいて。
おじさんは、小走りで車道を斜めに横切っていきました。その様子を見かけて、思ったのです。
なぜ、最短距離ではなく、一番距離が長くなる斜め方向に横切っていたのだろうかと。
その辺りをスタートに、いろいろと考えてみたいと思います。
まずは
新しい漢字や熟語は誕生しないのかしらん
SNSで、求める状況にピッタリと当て嵌められる熟語がないと意見を見かけて、ふと思ったのです。
無けりゃ、作ればいいのでは、と。
以前から、思っていたことでもあります。
日本語の乱れだ、用途や意味が変化しているだぁ、という話題が時々流れていますが、なぜ、昔から変化してきた日本語が、今現代だけは変化してはならないのだろうか、と。
何やら、物凄く遺憾で信じられないというニュアンスばかりが先行しているの
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ
カッコいい台詞ではありますが、この言葉が適用されるべき相手というのは、一体どのような人になるのでしょうか、というお話です。
戦争でむりやり徴兵された人に対して、そのような言葉を向けるのはあまりにもヒドイのではないか、という意見をみかけたのですが、自分はそれに対して、違和感を覚えました。
そこで、一体何が、どこが居心地が悪いのだろうかと、少し考えてみることにしました。
まず、この台詞は、銃を持つ
あまり進歩が無いような気がするのは、気の所為であってほしい
ソフィストと、そこに纏わる紀元前のギリシア関連の諸々について書かれた本を読んで、幾つか思いました。
その中で、特に気になったのが、言及されている人たちや作法の内容が、SNSなどでよく見かけないか、ということです。
・何も知らない人たちを相手に、知ったかぶりをする。
・例え真実を知っていたとしても、それだけで上手に説得できるわけではな
い。
・真実の正義は何であるかは必要なく、正邪を判決する大
理解力の速さと得意不得意は、別々の話ですよね
似通っているといいいますか、重なる部分は大きいかもしれませんが、厳密にイコールで繋げられる事柄ではないと思うのです。
これは、それこそ勉強にもいえる話ではないでしょうか。
仕事が出来る新人というと、やはり、少し説明しただけで大凡を理解して、卒なく熟してくれるような人を指すでしょう。
教える側からすれば、構っている時間が少ないので、自身の本来のシゴトにも手をつけられるという、素晴らしい人材ではない
忙しいにも種類があるらしい
バイトや仕事に限らずの話ですが、質のよろしい忙しさと、よろしくない忙しさというものがあると思っています。
質の良い悪いとはなんぞやというと、何となく達成感があるけれど、その実、必要のない忙しさ、むしろ不要な忙しさです。
やることが多くて走り回ったり、多数の業務を次々とこなしていたりすると、超仕事モードと云いますか、テンションが上っていたりします。
アドレナリンでも噴き出しているのか、一段落する
教わるときの心構え、というか割り切り方
教える・教わることについて、思っていることを幾つかまとめてみましたが、基本的には『教える側』の目線でした。
今回は『教えられる側』で考えてみたいと思います。
教わる側からすると、教えてくれる人というのは、何でも知って仕事ができる完璧超人をイメージしそうです。
確かに、全く知らない業務やら内容やらを説明してくれるのですから、自身などと比べれば、とても頼りに見えるでしょう。
しかし、教える側視点で