事実は変わらないけれど、考え方は変わる

以前に遊んで面白かった、パズルを解いていくゲームの新作が出ていたことを知って、早速プレイ。
少し難しめに感じましたが、それでも、前作を遊んだときに比べれば、サクサクとクリアできたと思います。
これは、自分のパズル度(?)が成長しているのではないでしょうか。
新シリーズのパズルゲームも出ていたので、どんなものかと、そちらもプレイしてみました。

鼻は、バッキバッキに折れて倒れてしまいました、とさ。

どれほど歳をとったとしても、ちょっと成長しては自惚れて、それをあっさりと叩き潰されて、己の現実を思い知らされるものですね。


そんなゲームですが、中には、ヒントが不親切だのパズルが理不尽だの、そんなコメントもありました。
自分も、確かに難しいとは思いましたが、しかしそれは知識や経験不足が大部分で、むしろ新しいパズルや着眼点の存在に感心を覚えました。

文句を言ったところで、答えが変わったり簡単になったりするわけではありません。
それならば、少しでも自分の得や糧となる受け取り方をしたほうがマシだと考えます。


伸びかけた鼻がへし折られた、この場面が、ちょうどその分かれ目だと思います。

同じゲームの、同じパズルを体験したはずなのに、
・ろくなヒントを出さない、理不尽なパズルだと受け取るか。
・自分が知らない、あまり経験したことがないタイプのパズルに出会えたと受け取るか。

どちらの考え方に賛同するかは、人それぞれの価値観に依りますので、そこはお好きな方をお選びください。

ポイントなのは
・現実、事実、出来事は変わらない。
・受け取り方だけは、変化できる。


また、そうして出てきた考え方というものは、その人の在り方そのものと直結しているようにも思うのです。
明言しなくとも、どのように受け取っているのかだけで、その人となりを推測する材料となりそうです。

注意点として、受け取り方を変化させた結果、出来事自体も捻じ曲げてしまう場面もあります。
自身にとって、どれほど不愉快で不都合な事実だとしても、それを受け入れた上で、考え方や視点を変えなくては意味がないですね。


さて、『考え方を変えてみる』と言葉にして、すぐにできるものでもありません。どうすればいいのでしょう。

自分としては、まずは思考を落ち着かせて、事実を俯瞰して無感情に観察することが、第一歩だと考えます。
その環境が最低条件であり、そこからようやく客観視が始まる気がします。

考えながら思いついたのは、それこそ『禅』でしょうか。
確かに、幼稚園はお寺が運営していたところだったので、座禅をしていました。
効果があったんでしょうかね。


まぁ、パズルで煮詰まっている場面では、だいたい禅のような無の境地な心地で向き合っている気はしますし、この文章をまとめているときも、似た心地です。
お時間をいただき、ありがとうございました。

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