理解度と解像度

同じ題材でも、人に依って理解する程度が変わり、理解度が違えば解像度も変わってきます。
同じ作品に対しての感想や視点が違うというのは、つまり、そういうことなのでしょう。

しかし実際には、理解度と解像度に直接的な相関関係はないようにも思えます。
一定の理解度があれば一定の解像度が期待できる、というわけでもないでしょう。
理解できているのに解像度が低かったり、あまり分かっていないけれど本質だけは捉えてみたり。結局、それぞれの感性や思考、価値観などに左右されるのだと思います。


マンガの理解度と解像度の話を、チラリと見かけました。
以前も書いたような気がしますが、ゲーム実況でも、ストーリーの理解度や解像度は、実況者に依って全く違います。

同タイトルのRPGでも、ストーリー上、先の展開で問題になってくる部分を的確に指摘している人もいれば、黒幕暴露のシーンになっても誰が黒幕なのかをイマイチ理解できていない人もいます。

ゲーム実況自体は、実況者に対しての面白さも求められるので、極論、理解度解像度は不要なのかもしれません。


ただ、人に依って、こうも見えているものが違うのか、という状況を観察できることに、純粋に感動すら覚えます。
他人の見え方や考える過程は、そうそう知れることではないでしょうから。

そして、例としているだけで、別にマンガやゲームに限った話ではありません。


日常生活や仕事での些細なやりとりなど、どこにでも引っつけることが可能な話だと思います。
それを解消するためにも、課題があると思います。

まず、どうやって鍛えればよいのだろうか、という点。
もう一つ、相手が自身よりも理解力や解像度が低いと限った話ではない、という点です。
自身の理解度が低いせいで、状況や相手の言動を理解できていない場合だってあります。

どうしても人と関わらなくてはいけない社会では、後者が問題になると思います。
が、この問題点に対して、やっぱり理解力や解像度が必要になるので、結局前者も重要じゃないのかと、天を仰ぎます。


ともかく、後者だけに集中して考えます。

自身こそが理解できていない状況に遭遇したとして。
自ずと、そこに気がつける人というのは、どれくらいいるのでしょう。
だいたいは、無意識の内に『相手が馬鹿だから理解できないのだ』と結論づけていそうです。

この点に関しては、自身とは別の高低差がある認識が存在しているということ、それ自体を心に留めておけば、一旦は、余計なドツボには嵌まらないようにも思います。

そうやって自戒しながら自身の能力を底上げして、相手と同じ高さになるなり、相手の認識を引き上げるように立ち振る舞うなり、できるようになればいいのではないでしょうか。

これは、とりあえずでやり過ごす方法なので、結局、自身を伸ばす方法が必要ですね。


鍛え方が簡単ならば、世の中苦労はしない、と思わなくもありません。
結局、模索して精進するしかない与太話でした。

お時間をいただき、ありがとうございました。




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