推定過程論?

結果論。
既に出ている結果だけをみて、それまでの過程や経緯の一切は含まずに判断すること。
「あぁすれば良かったのに」「〇〇をしなければ良かったのに」などと言う人を揶揄する使用は誤用。らしいです。

思いつきをまとめようと試みて、年のために言葉の定義を確認してみたら、見事に間違っていました。
石橋を叩いたら壊れました。本当に良かったです。


改めて、輪郭すらあやふやなボンヤリとした思いつきを、まとめてみたいと思います。

『過程や経緯からの結果』という、たった1つだけの選択が現実となり、
成らなかった過程や経緯、現れなかった結果という
実現しなかった物事を、どこまで想像・考慮するべきなのか。その点付近についての諸々の模索

できるだけ直接的に言語化してみたつもりですが、よく分かりませんねぇ。
意義なり是非も曖昧です。どこかにちゃんと明文化された思想があるのかもしれませんが、手がかり不足過ぎるので、とりあえず自前の思考で頑張ってみます。

過程論と呼んだ方が想像しやすいですが、政策過程論や政治過程論なんかも混じりそうで、少しストップです。
現実の出来事ではなく、むしろ、やらなかった過程や経過、起きなかった結果を考慮したいので、未遂とか可能性なんかの言葉をくっつけたほうがしっくりくるかもしれません。蓋然性でも、まだしっくりこない感じでしょうか。


そもそも、おっさんは何を論点にしたいのでしょうね。
まずは、そこから。

実際に起きた出来事は検討・評価され、結果も評価や批判されます。
世の中は、全てに於いて一度きりです。何か1つを選択した瞬間に、他の選択肢は消えてしまいます。

その消えてしまった可能性を選択していた場合、どのように結果に影響、或いは変化させていたのでしょう。より良かったかもしれないし、最悪になっていたかもしれません。
そのような可能性も踏まえた上で、現実として選択した行動や結果を検討・評価したほうがよいのではないでしょうか。


世の中、あまりにも目先の出来事だけを判断材料にしている気がするのです。
見えていないところでも世界は進んでいますし、人やモノが存在しています。
現在ですら見えていない部分が多いのですから、過去や未来の起きなかった・起きない可能性なんてもっと見えにくいと思うのです。

その辺りの思考・思想をスムーズにするのが、実現しなかった物事の考慮が役立つような、手がかりになるような気がするのです。
違うかもしれません。思いつきなので。

ともかく、視界の外や知覚の外を思慮することが、何かしらの一歩になると、おじさんは考えているのです。
それが自身のためになるのか、人生のためになるのか、仕事のためになるのか、社会のためになるのか。
どの規模感については、全く保証も何もないですけれども、それでいいんじゃないですか。
別に誰かのためになるとか、社会のためにならなくとも。
自身のためになれば。


ほんの少しぐらいですが、思いつきを整理できたように思います。
どこを探せば、この手の書籍なりを探せるのでしょうね。
変過ぎる与太話でした。
お時間をいただき、ありがとうございました。

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