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読んだ本の感想、日々に感じたこと考えたことなどスケッチします。

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最近の記事

存在のありどころ(ノマド)

  『Point Break 』(邦題「ハート・ブルー」)は1991年に公開されたアメリカ映画。サーフィンやスカイダイビングに興じる金欲しさに、銀行強盗を繰り返す若者たちと、その強盗集団に潜入する新米FBI捜査官の話だ。  スカイダイビングは地上ギリギリまでパラシュートを開かない、サーフィンも身体が砕けるような大波を追い求める。若者たちは享楽的な日々を送り、死の影を踏む体験を“しきたり”として、生きる実感を得るために危険を顧みない。  銀行強盗も「善/悪」ではなく、獲物を

    • 試される瞬間

       電車が通勤手段だ。公共交通機関を日常にしていると『袖すり合うも他生の縁』ということがよくある。朝夕の通勤でいろんな人と“縁”を結ぶ。  時には不機嫌なおばさんに怒鳴られたり、歩きスマホしている若い女が、ぶつかりそうになったのに、舌打ちしてこちらを睨らんできたり、あまり歓迎できない縁もあるが、足を踏んでも踏まれても、それはまぁ『他生の縁』と思えば、少しは殺伐とした気持ちも慰められる。  袖すり合ううちに、時折“試される瞬間”に出会う。  もう随分前だか、お気に入りのラーメ

      • 2 + 2 = 5

         テレビが苦手という話。もう四年ほどテレビのない生活をしてます。するとテレビがすっかり苦手になりました。今となっては、長い時間ボーと画面を見つめていた以前の生活がウソのように思えます。  きっかけは忘れましたが『テレビはいらん』と決めた時があり、それほど大した決断をしたつもりはなかったのですが、いざ実行してみると、気持ちがスッキリしました。  先日など銭湯のサウナ室にテレビがあり、熱さは我慢できたのですが、テレビの存在がうるさく、それに耐えかね出てしまいました。どんな番組

        • 0地点

           ボクシングはいつもどこか“ピリッ”としている。やっている人もだが、ボクシング自体に特別な“ピリッ”がある。  自分がやるまで気付かなかったことを、経験のない人に想像してもらうのは困難だろう。しかし、その“ピリッ”が本物とそうでないものを峻別し、ファンの狂熱をかき立てると思っている。  さらに“モヤ”っとした話だが。練習を始める時、バンテージを巻きながら、こころの中に「0(ゼロ)地点」を探すことがある、いまここにいる理由を見つけたい。  こころの「0地点」なんてボクシン

        存在のありどころ(ノマド)

          梅雨の停滞

           うわごとだからよくわからない。腰掛けてもたれた背中の壁の暗い窓から、顔面を腫らしたザンバラ髪の日焼けした老女が半身をのぞかせ、なにか言ったのでおどろいた。  「百円ちょうだい」と聞き取れたのでテーブルの上の百円玉を右手に握り込み「あかんあかん、いるんや、やらへん」と蹴散らす調子で言った。  それでも老女はなんやかやとごちゃごちゃ言いいながら、今度は隣の家の玄関のインターフォン越しにうわごとを並べはじめた。  何かをねだるようなグズグズした調子で「怖いね〜ん」と言い哀願する

          梅雨の停滞

          出会うべくして出会うこと

           巡り合わせか偶然か、時折、今読む本なんだよと思える一冊に出会うことがある。『数学する身体』がそうだった。  本に思い出がある年齢をさかのぼれば、幾冊も良い出会いがあった。大きな影響を受けた本があり、それは皆とても偉大な人たちの仕事ようだった。  拙劣極まりない愚か者は、そうした人達の仕事を、高い山のように見上げ、霞む頂を見て、麓に近づいては巨大さに圧倒され、視野に収まりきらない全体像を、ガイドマップ片手に確認する顚末も繰り返した。 ーーーーーーーー  通勤の早朝に、

          出会うべくして出会うこと

          存在のありどころ(疎外と暴力)

           《存在のありどころ》を問えば、ただここにいて“茫然”としているそこと答える。  サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言った。ただ立ち尽くし“茫然”としているのは『自由の刑』に処せられる姿なのか。  しゃべろうとしても“主語”になる言葉が見つからないので、代わりに古い友人に主語(おれ)になってもらう。  中上健次の初期の代表作『十九歳の地図』は、新聞配達をしながら生計を立てる予備校生の話だ。  主人公の「おれ」が日本史を唾棄する場面がある。  「おれ」の存在

          存在のありどころ(疎外と暴力)

          自分は正しい

          “自分だけは正しい” “自分だけは許される” “自分だけは特別だ”  銃を構える奴は、撃つ方も撃たれる方も、撃たれる方も撃つ方も、自分が正義と疑わない。疑わないだけの理由を弾丸にこめる。でないと引金など引けないだろう。  信号を無視しても『急いでるから』、電車の列に割り込んでも『疲れてるから』、歩きスマホしても、そこらにゴミをまき散らかしても正当化する理由はある。弾丸に込めたのと違わないものだ。 “自分だけは正しい” “自分だけは許される” “自分だけは特別だ”  な

          自分は正しい

          身一己(みいっこ)

           朝(あした)に生まれ、夕べに死すなら、たとえば蜻蛉(かげろう)のような生き物なら、日の出とともに再び明日が始まるだろうことは理解できない。『日昇し日没するだろうこと』は蜻蛉の寿命(身)で引き受けられない。それはこの生き物の境涯だ。  もちろん言葉を持たない蜻蛉に「今日」も「明日」もなく、これはたとえ話。ただ生き物は『およそ己の寿命のうちに変化する“出来事”をわが身に引き受けている』ということを確かめたいのだ。  知性ある生き物として人間は、己の命の習慣を超越して、情報を

          身一己(みいっこ)

          足乳根の母は死にたまふなり

           母という“秩序”がこの世から失せたのは30年以上前のことだ。子はのち、大人となり、人並みの苦労も味わった。しかし今、失われ取り戻せないものがあると強く思っている。それは母の存在を中心に構成された“いつかの世界”のことだ。  いさぎよい人生でありたいと願う。グズグス言うのも性に合わない。しかし『ボクは迷子になりました』と大きな声で叫ぶ。喪失感が豪雨のようである時、やまない雨だと思う時に。  むかし森鴎外の『山椒大夫』という作品にふれたことがある。安寿(あんじゅ)と厨子王(

          足乳根の母は死にたまふなり

          コミットメント(関与・参加)

           ただ参加し、役割を求めるでもなく、当然だが報酬などまったく期待することはない。  偶然見かけたポスターに、『予定のない日曜日の午後にあるから行ってみよう』という気まぐれで、祭りの実行委員会に連絡した。  曳き手となる約束をした今朝は、午後から天候も崩れそうだし『もうよそうかな』と少し考えた。  しかしこれは“何でもないこと”(無為)だからと思うと、不思議となおさら『参加しよう』という気持ちが捨てられなくなった。そして、とうとう、『行かないのはおかしいだろう』とまで考えて

          コミットメント(関与・参加)

          長男にことばを

           今日は長男の結婚式だった。型通りの祝辞もよかったが、良い時も悪い時も共に生きてきた子だ、心から伝えたいことを文豪の力を借りて言葉にして送ることにした。

          長男にことばを

          凡人の追記

           人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。 (坂口安吾)  オレは低俗で世間並み。朝、オレはオレより強い奴に起こされて、そいつに従って決まった時刻の列車に飛び乗る。朝メシの腹をちょっとばかり揺さぶられ、引きずられながら何かが始まる。

          凡人の追記

          純度100%の愚痴

           馴染みのお好み焼き屋のマスターの体調が悪い。入院してもう数週間になるが、回復の見込み、退院の見通しが立たない。急場しのぎで娘さんが奮闘して店を切り盛りしている。  カウンターで娘さんは気丈に振る舞う。でも心底マスターの体調を心配し、それが時々イライラな態度に現れる。ストレスが隠し切れない。  こうして自分を心配してくれる人がいて、常連さんたちが回復を気にかけて、病状の深刻なことは察するが、そんなマスターを羨ましく思う。  どこでのたれ死のうが、誰も気にかけない奴なんて

          純度100%の愚痴

          月曜日の憂鬱

           毎日毎日同じ道を走っている。バイクにしがみつきながら思う、それは人生の可能性を踏みつぶすことだろう。  かつて旅していた時とは乖離した日々。一直線に目的地に向い進む。それも一生に違いはないが、どうも本質が抜け落ちる。「孤独」だということ。孤独だからこそわかるどうにもならんアホなこと。  旅の朝の期待に満ちた気分は、今朝は微塵もない。幻想も入り込む余地がない。さまよえばコイツが何の才覚もない凡庸な人間ということがむき出しになるのだが。  きっと今日も抑圧的な社会の現実を

          月曜日の憂鬱

          なんで殴りあう

           ボクシングをする。スパーリングの大会に出たりする。還暦間近の年齢と、80kgオーバーの体格ゆえに適当な対戦相手がいない。今日はひとまわり以上年下の手練れに散々な目にあわされた。  何もできなかった悔しさと、『どう考えても16オンスの衝撃やないやろ』という苛立ちと、頭痛のせいで眠るのに苦労する夜になりそうだ。試合後は酒も御法度(脳に悪い)うさも晴らせない。  このまま寝たら朝目が覚めないかもとか、職場で右目の腫れをどう言い訳する?とか、、、う〜ん、なんで殴りあう。

          なんで殴りあう