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出会うべくして出会うこと
巡り合わせか偶然か、時折、今読む本なんだよと思える一冊に出会うことがある。『数学する身体』がそうだった。
本に思い出がある年齢をさかのぼれば、幾冊も良い出会いがあった。大きな影響を受けた本があり、それは皆とても偉大な人たちの仕事ようだった。
拙劣極まりない愚か者は、そうした人達の仕事を、高い山のように見上げ、霞む頂を見て、麓に近づいては巨大さに圧倒され、視野に収まりきらない全体像を、ガイドマップ片手に確認する顚末も繰り返した。
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通勤の早朝に、四車線の国道で轢き潰された小動物を足もとに見る。そしてその死骸に憐憫と嫌悪の情がわく。
もしまだそれが生温かいものなら、その赤い肉塊を抱き上げるなら、きっとそれは『0グラム』に違いないだろう。
どんな『命』を生きたかは知らない。ただ命を語る言葉が無い。『0』であることによって自分に等しいと思うだけ。
本と出会い、出来事に触れ、この“愚かな命”にも偉大なものの光が寄り添うことを知る。それはレンブラントの宗教画の、雲間から降り注ぐ光のように寄り添っている。その輝きは“恩寵(おんちょう)”と記されるものだ。
恩寵は心の底のほうに緩やかにやんわりと沈澱していく。揺れない針の『0』の質量で降りてくる。
この身にまとわりつく腐臭と陋劣(ろうれつ)、そしてそれら全てを包摂する光。混在し、矛盾し、有無共存することの謎。
質量とはいったいどこからやって来るのだろうか?
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ときおり思い出す物語がある。
母と宏児(ホンル)とは寝入った。わたしも横になって、船の底に水のぶつかる音を聞きながら、今、自分は、自分の道を歩いているとわかった。〔…〕希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。〔…〕今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。〔…〕まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
この文章は数十年ずっと心の奥底に『0』の質量で沈澱している。
変わり果てた幼馴染みと別れ、故郷を去る「わたし」の心境に、“自分だけが歩むことが出来る道”を行く者の矜持(きょうじ)がある。
魯迅は人生は旅だと教えてくれる。どんな旅をするかは、旅する者が決めると教えてくれる。
正直者には正直者の旅、嘘つきには嘘つきの旅、ならず者にはならず者の旅、すかした野郎にはすかした旅、粋を愛する者には粋な旅、疑い深い者には人間不信がつきまとうだろう。
旅が旅する人を選ぶ。「本」が読むべき「人」を選ぶ。読むべきタイミングまで選んでくる。光は、その時々に出会うものの方角を照らしている。
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『数学する身体』は後段を数学者岡潔の紹介に割いている。
道元にとって禅がそうであったように、また芭蕉にとって俳諧がそうであったように、岡潔にとって数学は、それ自体が一つの“道”だっだのだという。
生きることは実際、それだけで果てしない神秘である。何のためにあるのか、どこに向かっているのかわからない宇宙の片隅で、私たちは束の間の生を謳歌し、はかなく滅びる。虚無と呼ぶにはあまりにも豊穣な世界。無意味と割り切るには、あまりに強烈な生の欲動。その圧倒的に不思議な世界が、残酷なまでに淡々と、私たちを包み込んで、動き続ける。
不思議で不思議で仕方ない。この痛切な思いこそが、あらゆる学問の中心にあるはずである。
道には出来事があり、街の片隅に出会う人(本)がいる。それが誠実な人だったら嬉しいと思う。『数学する身体』はそういう誠実な人との出会いが感じられる書物だった。
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