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 テレビが苦手という話。もう四年ほどテレビのない生活をしてます。するとテレビがすっかり苦手になりました。今となっては、長い時間ボーと画面を見つめていた以前の生活がウソのように思えます。

 きっかけは忘れましたが『テレビはいらん』と決めた時があり、それほど大した決断をしたつもりはなかったのですが、いざ実行してみると、気持ちがスッキリしました。

 先日など銭湯のサウナ室にテレビがあり、熱さは我慢できたのですが、テレビの存在がうるさく、それに耐えかね出てしまいました。どんな番組だったか覚えてません、ただ我慢ならなかったのです。

 テレビがなくて困る事もほんの少しありますが、誰もが手にする情報を知らなくても、別にどうということもないのが普通です。


 コインランドリーにもテレビがあります。電源を切ったのですが、おじいさんが来てスイッチを入れました。
 本から目を離して、横目でチラと隣を見ると、おじいさんは、頑固そうな面長な顔に、度の強い眼鏡を掛け、その眼鏡越しに、斜め上のテレビを睨んでいました。

 女性の生理用品のCMが流れます。「新しい」だとか、「快適」だとか「今までの何倍」だとか。ナレーションの女の声が小屋に響きました。

 おじいさんは見つめています。自分とはまったく関係ない生理用品のCMを、なぜ?
 『見る』のは買うためではないだろうし、革新的な商品に驚嘆してる訳でもないでしょう。ただ、習慣として、視線が縛り付けられるようです。

 今日一日、ずっとCMは流れ続ける。おじいさんの眼差しと、どこにいるか知らない、たくさんの無関係な人達の、無関心な眼差しを釘付けにして。
 消費社会というのはすごいなと思います。


頭を“からっぽ”にしてただ思う
誰とも違う「わたし」
世界にひとつだけの「わたし」
あなたと好きな色が違う「わたし」
ライフスタイルが「わたし」
特別な存在の「わたし」
みんなとおなじ「わたし」


 「自分さがし」という奇妙な言葉があります。自分をさがすのはだれでしょう⁇  そして自分を見つけた人はいるのでしょうか?
 もしかしたら、どれだけお金をつぎ込み追いかけても「ホントウ」の「わたし」はどこにも見あたらないのでは?

 「アイデンティティ」や「自分らしさ」というときに付帯する国家・民族という概念、そして教育、文化、宗教、生育環境を要因として思い描かれる「わたし」。ただ、それが幻想や固定観念だということも、「わたし」はテレビで学んだのかもしれません。

 この頃はテレビを目にすると少し“えずき”ます。体質的にあの媒体とのリンクが切れたようです。

 娯楽の押し付け、感情の押し売り、価値観の強制、そしてウソ笑い。街角にも空疎なポエムのような言葉はあふれています。


購入しよう、消費しよう。
かしこくなろう、考えるな。
金を使おう、金を貯めよう。
あなたの求めるあなたになる。
不足だ、不満だ、満足だ、みんなそろって新しくなれ。


 生産的であることに価値が置かれ、物静かな思考や非生産的な事象はどこかに排除されるようです。
 いつもなにかが足りない世の中で、すぐに穴のあく靴下を大量に購入して、簡単に壊れるモノに囲まれる生活。去年の服がどんどん古くなっていきます。


「2+2 = 5」は二重思考

「2+2 = 5」は思考停止


 カメラの前で体をくねらすミュージシャンや作り笑顔の女優さん、四角く切り取られた画面の向こう側にいったい何があるのでしょう。

 人は不健康で問題を抱え、不安でいるほど金を使い、経済は活性化するかのようにみえます。悩み恐れ苦しみ不満を抱けば消費は加速するのでしょうか。

 これはオルテガ・イ・ガセットのいう『大衆社会』やジョージ・オーウェルが予言した未来ですか?

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