見出し画像

自分は正しい

“自分だけは正しい”
“自分だけは許される”
“自分だけは特別だ”

 銃を構える奴は、撃つ方も撃たれる方も、撃たれる方も撃つ方も、自分が正義と疑わない。疑わないだけの理由を弾丸にこめる。でないと引金など引けないだろう。

 信号を無視しても『急いでるから』、電車の列に割り込んでも『疲れてるから』、歩きスマホしても、そこらにゴミをまき散らかしても正当化する理由はある。弾丸に込めたのと違わないものだ。

“自分だけは正しい”
“自分だけは許される”
“自分だけは特別だ”

 なぜ人はこんな《視野角》を持つのだろう。狭隈(きょうわい)なこころは“怒り”の源になる。“怒り”は火山をなだれ落ちる溶岩みたいに噴き出しあふれ出し、大地をねぶりまわして這い広がる。

 もしかしたらヒトは取り返しのつかない忌わしく猥雑な生き物で、だから世界中に神様がいて、社(やしろ)を建て手を合わすのかも知れない。「戒め」を慣わしとするのかも知れない。

“自分だけは正しい”
“自分だけは許される”
“自分だけは特別だ”

 寄るとさわるとヒトの関係には“ひずみ”が生じる。社会はひずむ、家族もひずむ。学校であろうが、会社であろうが、わたしであろうが、あなたであろうが、ギザギザと削り合ってひずんでいる。

 ヒトは“負の感情”に対して唾液の腺が切れる。『怨みは怨みしか生まない』とわかっている。しかしそれを体よく裏切り、裏切って理由をつけ、汚いものをズルッと飲み込んで腹の内でこねくる。

 何年か前、映画を観た。タイトルは『私のはなし部落のはなし』。長編(3時間25分)のドキュメンタリーだ。
 説教臭いところがない、それでいて監督の覚悟が伝わる内容で、とても興味深かった。
 主な取材場所として京都が取り上げられ、よく見る建物や路地がたくさん出てきた。

 『差別は我が身を滅ぼすが不思議と社会は滅ぼさないんだなぁ』と映画館からの帰り道で思った。

 文化はフィクション(作り話)で、地に縁のある者たちが見る“同じ夢”だと思う。ただただあると信じ、あるいは信じたいと願い、幻想に身を投じて良いの悪いのと言い合う。

“自分だけは正しい”
“自分だけは許される”
“自分だけは特別だ”

破戒は…しない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?