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身一己(みいっこ)

 朝(あした)に生まれ、夕べに死すなら、たとえば蜻蛉(かげろう)のような生き物なら、日の出とともに再び明日が始まるだろうことは理解できない。『日昇し日没するだろうこと』は蜻蛉の寿命(身)で引き受けられない。それはこの生き物の境涯だ。

 もちろん言葉を持たない蜻蛉に「今日」も「明日」もなく、これはたとえ話。ただ生き物は『およそ己の寿命のうちに変化する“出来事”をわが身に引き受けている』ということを確かめたいのだ。

 知性ある生き物として人間は、己の命の習慣を超越して、情報を蓄積し、伝授し発展させることができる。言葉(記号)によって“出来事”の変化に名をつけ、秩序立て法則化もする。

 「時間」という概念は、生きること、命にダイレクトに働きかけるものだ。わたしたちは日々時間が《ある/ない》と口にし、寿命が尽きるまでを、時間の単位で測ったりする。

 時間は流れるというが、しかし、本当に川のように流れているのだろうか? 実際には、永遠と信じるその連続性も、空想(フィクション)ではないだろうか?

蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや
(けいこしゅんじゅうをしらず、いちゅう あに しゅようのせつをしらんや)

曇鸞大師『浄土論註』


 蝉(せみ)は夏の生き物だから春も秋も知らないだろう。蝉がもし、桜の花びら舞う川辺や、山谷を焼く紅葉の美しさを語るなら、それはただの“知ったかぶり”ということになる。(確か漢文にそういう警句があったよなぁ…)

 「わたし」にも寿命がある。「わたし」には身体があり、五感で世界を捉えている。そして、今あることとその先を、知識や情報で類推している。
 ただ「わたし」の“いま”に確からしさを与えているのは「わたし」自身で、この“確からしさ”を当てにするのはどうも栓(せん)ないこと、無益なことのように感じることがある。そしてそれが「わたし」の苦痛の根源でもある。

 この法語の面白いのは、春や秋を知らない蝉は、実は“夏を生きることができない”と説いているところだ。

 春秋と言わず、季節という分別がないから、蝉は“いま”が夏だと認識できないというのだ。蝉は身一己が“夏”にあるとは思いも寄らずに生きている。

 「蝉」を「人間」に置き換えると面白い。「わたし」はおおよそ切り分け、境界線を設けた“出来事”の集積(=世界)に生きているのだが、その世界の外側は知りようがないから、実はどんな世界に「わたし」があるのかわからない。

 視点を変えようと努めても、「わたし」と世界は隙間なくピタリと貼り付いていて、そこに「存在価値」や「意味」を認めようとしても、突き詰めるだけなおさら“いまあること”がぼやけてしまう。

 そもそも「わたし」という“出来事”は何によって成立し「他者」とどう隔たるのか、どうして刻々変化する“出来事”に「名」を与える存在として(精神的な)質量をもつのか、その“出来事”は計量的に時間や空間に明確に位置されるものなのか、「わたし」にはわからない。つまり、人間は己(わたし)を規定できない。

 真理を探究したいという欲求は、人間に備わる美質と信じている。また、そうであってほしい。ただ、「わたし」という仮想が、あらゆる“出来事”の重みに耐える一点にはならないと思う。

 蝉は鳴きやむまで精一杯鳴けば良く、蜻蛉は陽が落ちる前に喉まで詰まった卵を産み落とし、「わたし」は誤謬(ごびゅう)を恐れずに問い続け、“出来事”に「名」を与えるのも悪くない。たとえ、問う主体が明確でなくても、存在する“いま”が亡羊(ぼうよう)として捉えようがなくても。

 知りたくとも、人間は世界の外側を知る術がない。だから、いま「わたし」の有り様は定まらない。
 世界の内側に行き詰まるほど「わたし」は、認知する世界(存在らしさ)を超える“スーパーな知性”を空想したくなる。世界の外側に人間の全存在を照らし出すような知性があってくれと願う。

 それは話を単純にも、また余計に複雑にするかも知れない願いだ。言語を超越した“沈黙”や“無分別な知”は決して説明できない。ただ、天を仰ぎ世界の外側に向かって問いを投げるだけだ。

エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」

(新訳聖書より/十字架の刑に処せられたキリストの言葉)

 物事を知る力は、新しい間違いを生む力だと思う。また、豊穣な知性をつむぎ出す力でもあると思う。

 救われない思いで生きる者にとって“信じる”ことは支えとなる。それが「わたし」の希望であるのなら、苦しみと向き合うただ一つの道を、誰が否定できるのだろうか。

さて、行ってみないとわからない。

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