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梅雨の停滞

 うわごとだからよくわからない。腰掛けてもたれた背中の壁の暗い窓から、顔面を腫らしたザンバラ髪の日焼けした老女が半身をのぞかせ、なにか言ったのでおどろいた。

 「百円ちょうだい」と聞き取れたのでテーブルの上の百円玉を右手に握り込み「あかんあかん、いるんや、やらへん」と蹴散らす調子で言った。
 それでも老女はなんやかやとごちゃごちゃ言いいながら、今度は隣の家の玄関のインターフォン越しにうわごとを並べはじめた。
 何かをねだるようなグズグズした調子で「怖いね〜ん」と言い哀願する様子がうかがえる。

 追いはらわれて戻ってくる。背後の窓は閉めたが、蒸し暑いので閉め切らなかった方から老女はまた身を乗り出し、ねばねばした声で今度は「たくあんちょうだい」とコンビニで調達しテーブルの上にあるのをねだる。「やらんやらん、オレくうんや」身構えていたので老女に語尾を伸ばさせないうちに言い放った。

 しばらくして『あゝ』と思い、気付いたら老女は交差点の先のどこかに消えていた。

 それは暗い蒸し暑い夜。なんにもない重たい路地の、交差点の角のコインランドリーの蛍光灯だけがただただ白いところのことだった。


 昼は次男の就職が決まり郷に墓参りに行っていた。「希望の仕事だ、いい仕事だ、上出来です」と墓前に手を合わせ報告した。

 実家から仏壇を引き受ける約束があったので仏壇を車に積み込んだ。長男も同行している。長男、次男、オレ。妹は遺影やらこまごましたものを段取りしてくれ、それを全部軽自動車に押し込んだ。

 帰り道、片側一車線の自動車道で渋滞に巻き込まれ、何十分も立ち往生させられる羽目にあった。
 その間子供らと家の経済事情の話をし、まるで意見が合わず渋滞が何倍も苛立たしくうっとおしいものになってしまった。
 喉が渇き苦しくてしょうがない。だがとどまるより何一つ解決の方法はなかった。

 父も母も癌で死んだ。母を越え父の寿命に迫る歳になる。死んだ父と死んだ母の仏壇、そして長男と次男とオレ。ピクリとも動かない山中の自動車道で何かが渋滞していた。

 動けなくてみんながイライラした。ハンドルを握る次男は残りの燃料を気にしはじめ、長男はとうとう車を降り渋滞の先を見に歩いて行った。


 湿っぽい空気のように何もかもがまとわりつき離れない一日、生ぬるいじめっとした不快な一日だった。しかしきっとこんな日もある。

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