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存在のありどころ(ノマド)

  『Point Break 』(邦題「ハート・ブルー」)は1991年に公開されたアメリカ映画。サーフィンやスカイダイビングに興じる金欲しさに、銀行強盗を繰り返す若者たちと、その強盗集団に潜入する新米FBI捜査官の話だ。

 スカイダイビングは地上ギリギリまでパラシュートを開かない、サーフィンも身体が砕けるような大波を追い求める。若者たちは享楽的な日々を送り、死の影を踏む体験を“しきたり”として、生きる実感を得るために危険を顧みない。

 銀行強盗も「善/悪」ではなく、獲物を狩るハンターのように《持つ者》の上前をはねるスリルを楽しむ。それは社会的な価値観を踏みにじり、道徳の外を疾走する獣の群れようだ。

 新米捜査官はこの群れに潜入するうち、若者たちの「魅力」にズルズルと巻き込まれ、時計の秒針がわずかに狂っていくように「善/悪」の感覚がひずんでいく。その姿がとても興味深くもある。


 この手の映画には系譜がある。『Point Break 』の数年後「消費こそ堕落の象徴」と言い放つ『ファイト・クラブ』が世に出る。

 主人公はヤッピーな『僕』で、登場人物のタイラー・ダーデンは語り手『僕』の妄想が具現化した姿だ。
 しつけの良い消費者であることに『僕』は疎外感を抱く、そこにタイラー・ダーデンが現れる。タイラーは地下組織ファイト・クラブを結社し街中で騒乱を引き起こす。

『消費社会からの疎外=タイラー・ダーデン=暴力』

 振り返るとタイラー・ダーデンはいつも映画の中にいた。最近では髪を緑色に染め、真っ赤なスーツをまとった、口の裂けた男になり、長い階段でダンスを披露した。70年代にはベトナム戦争の帰還兵としてニューヨークでタクシーをころがした。確か『時計じかけのオレンジ』で悪のかぎりをつくすのもタイラー・ダーデンだった。

 面白いことにスクリーンの中には遊牧民(ノマド)が住んでいる。そして真っ白な原野を駆けめぐり、増殖して広がり、時を超え都市や国家と対峙するのだ。

 タイラー・ダーデンという平滑空間は暴力そのもので、この暴力装置は休まず働き、管理や統制、中心化しようとするものに対し、逃走したり破壊を目論んだりする。

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 『苦』と存在のありどころ。

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 たとえば『苦』を四つ八つとケーキのように切り分けたところで、それはただ《数えられる》というだけで、また伝統的なヨーロッパ哲学の人間中心主義的な『存在論』にしな垂れ掛かっても埒はあかない。

 認識や行為の外に『苦』はあり、それは言語化できず、あがけども対象化できないのかも知れない。

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