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アライグマより頭が悪い

※この記事は、こちらの記事をリライトしたものです。

生まれる前の話

 僕の話をするまえに、僕の母の話をしなければならない。
 母は1952年、福岡県の大川という町で生まれた。ここは古くから「職人の町」として知られており、建具の生産が盛んな町である。戦後なこともあり、村はてんてこ舞いの大忙しだったらしい。もちろん義務教育制度はすでに始まっていたのだが、それ以外の時間はほぼ家の手伝いをしていた。だが、母は年子であったため、ひとつ上の姉に頼ってばかりのあまり「いい子」ではなかったようだ。それでもお金だけは幾らでも入ってきたため、着る服も食べるものも贅沢三昧。青春時代は今で言う「陽キャ」、悪く言えばギャル、DQNのような立ち場だったらしい。但し普通の子供と違ったのは、母には発達障害の傾向があったこと。ほかには過度な食欲(幼少期は自分のうんちまで食べていたらしい)や怒りっぽさなど、「プラダ―ウィリー型」と言うのがしっくりくる。だから徒党を組んで女子グループでつるむタイプではなく、ある種のスケバンのような女子だったとか。但し言語IQが高かったので、発達障害にありがちな「論破型スケバン」のような感じだろう。今で考えれば悪目立ちしている自称「フェミニスト」のような人々だろうか。
 そのため、母は発達障害傾向を持ちながらも挫折や迫害といったものとは無縁の子供時代だった。勉強ができない事も、料理や掃除さえできれば評価される家庭だったことがかえって良かったのだろう。成績が悪くても誰にも叱られなかった。健康にも恵まれ、発達障害にありがちな高ヒスタミン体質などの障害もなく、多少のHSPを除けば身体に異常もなかった。
 それでも孤立することは否めない。自分はどこかが違うという疎外感と、家事の手伝いばかりさせられる実家に辟易し、母はフィクションの世界に生きるために上京し、演劇学校に入学した。
 母と僕の違いは、母は演劇学校を自力で卒業し、その後もたった一人東京で生き抜いたというところだ。時は高度経済成長期。時代の流れに助けられたところも大いにあるに違いない。古きよき助け合いの文化の残る昭和時代、優しさもお金にも運良く恵まれて、母はなんとか20年間ステージ歌手などで食いつないでいた。もちろん、仕事ばかりで本を読むことも、新聞を読むことも、年金の支払いもせずにいたが。
 元々は劇作家や女優を目指していたようだが、フィクションを作るのは中々大変だし、役者は人間関係が疲れるということでやめたらしい。母はフィクションに憧れはするが、創作する力がなかったのだ。
 そして40を目前とし、ステージ歌手ならばある程度「変人」でも受け入れられたのだろうが、やはり恋愛や結婚ということが出来なかった。そもそも、やはり人と深い繋がりになることは苦手だったようだ。だから人との交流が盛んな演劇や映画などの道を諦め、個人プレーのできる歌手になったのだ。そんな母を見かねた仕事仲間が、同じように離婚してしまい再婚相手の見つからないお客さんがいるからと一人の45歳の男性を紹介する。
それが父だった。人をあまり疑わない母は、すぐにこの縁談に飛びついた。
 父は地方の音響機器メーカーのエンジニアだった。学歴も高く、エンジニアとしての腕は確かだったが、対人能力に欠陥があり、恋人と長く続かない。一度は結婚し、子供まで授かったが、やはり奥さんに出て行かれてしまったと。自分としては一生独身でも良かったのだが、父の母親(僕の祖母)や相手の女性(つまり、母)の強い希望で結婚が決まった。
 父は、週末になれば都心のシャンソニエで散財するほどにはお金はあった。高学歴のエンジニアだ、給料が悪いはずがない。母はもうこれで安泰だと、どれほど安心したことだろう。住まいを父のいる地方に移し、新築の二世帯住宅のマイホームの建設とともに新婚生活を始める。やがて子どもを授かり、母は内分泌の調節が弱いタイプなうえ高齢出産だったので妊娠高血圧症候群など中々大変ではあったようだが、やがて家の完成と同時に僕が生まれた。
 父方の祖父は、青森の公務員だった。心臓に持病があり、出征を免れた。祖母は山の地主の娘で、少々神経質であった。父のASDは、恐らく祖母の遺伝であると思う。僕が幼稚園のときに祖母は亡くなったため、僕はあまり祖母の記憶がない。祖父は真面目で、こつこつとお金を貯め、東京に土地を買った。元々東京に越してきたのは、父の心臓に先天性の疾患があったからである。父を一言で表現すると、「ウィリアムズ症候群寄りの発達障害」というのが分かりやすい。心疾患、歌や躍りが好きで陽気など、父にぴったり当てはまる。顔もまさにそんな感じだし。父もまた一人っ子であり、僕が生まれたときは心疾患が遺伝していないかを一番心配したとのこと。幸い、僕には心疾患はなく、高ヒスタミン体質だけが遺伝した。あとは、わりと母の腎機能のほうの脆弱さは大きいが、病気というほどではない。咽頭異常感症になるまでは、僕はぽっちゃりと太った子供だったが、今は見た目は太ってもなくやせてもいない(運動不足ではあるが)。あとは祖母の神経質(HSP)が遺伝していると思う。
 そんなこんなで、お金だけは幾らでもある世間知らずな「発達障害ファミリー」が、東京の片隅に誕生したのだった。とくに祖父や祖母は、やっとのことで手元に残った孫なので(兄のほうは前の奥さんが連れて行ってしまい、消息が不明)さぞ嬉しかったと思う。僕も、祖父母には恩しか感じないし、今でも大好きという感情しかない。

更年期、始まる

 幼少期、母親との絆を深める大切な時期、母に関する記憶がほとんどない。オムツ替えなどの頃はまだ元気だったのだが、幼稚園の後半くらい、つまり僕が物心がついたタイミングで、母は更年期障害になってしまった。僕の幼少期の母の記憶は、投げつける、寝てる、騒いでる、叩かれるといったもので、まったく良いものではない。祖母は亡くなってしまったし、祖父は他人の子育てに口を出すタイプではなく、頼れる父はお菓子を買い与えるのみ、といった今思えば救いようのない状態になっていたように思う。
 ブレーキのいない我が家で、金に糸目をつけずに次々と買い与えられるオモチャたち。と言っても大部分はパソコンやらゲームやら、父が好きなものであり、僕は父の趣味の「おこぼれ」に預かっているような感じではあった。父は僕に対して一切歩み寄るという事はせず、自分の目線で話し、自分の価値観でしか考えなかった。だからお小遣いも一万円単位だったり、下ネタや性的な話も平気でされた。殺人などの子供には刺激の強そうな映画もたくさん観たし、アンパンマンなど名前しか聞いたことがなく、僕の絵本は『名探偵コナン』だった(まあ、コナンは子供向けだけど…)。父としては自立心を鍛えたかったのかもしれないが、僕は最初から大人であることを強いられていた、今思うとそう思う。
 小学校に進学して、僕は当然ながら叱られるようになった。特に、僕の通っていた学校は、国公立のスパルタ高で、国家戦力を鍛えるという名の元に軍隊まがいの教育をしていたので、僕はあっけなく挫折した。おそらく、世間知らずな部分も彼らの癪にさわったのだと思う。しかし、家にいると母が叱るので、僕は学校でムードメーカーのように振る舞うことで何とか存在を維持していた。バカには何をしても良いと思われたのか、殴る、蹴るなどのストレスの捌け口にされることもしばしばあった。家に帰れば、死に方を考えていた。それでもやっていけたのは、父がたくさんゲームを買ってくれていたからだと思う。その頃ちょうど「インターネット」が開発され、我が家はいち早く(?)それを導入した。ネットを通じてたくさんの友達を作り、そこでなら本来の自分でいられる気がして、将来はきっとインターネットを活用した商売をしようと思った。
 小学六年になるころ、母は保護者面談で「あなたのお子さんはうちの中学には入らないでほしい」と言われ、そこで始めて母は事の重大さを知り始める。同時に僕も突然「中学は公立に進む」と言い出したので、母は焦ったようだ。そのときには僕は何度か不登校になったり、咽頭異常感症で総合病院やカウンセリングに行ったり、性転換を仄めかしたりとすでにガタついており、「公立に行ったらいじめられる!」と強く叱られた。僕としてはいじめられようが構わないと思ったが(その頃にはすでにスレていたので)、母はどうしても私立に進ませたいようだった。そして短い中学受験を経て、私立の三流中学に進んだ。

復讐の鬼

 その私立中学校は、本当にぬるかった。生徒を叱るということがまず無いし、勉強も同じことを三回も四回も繰り返す学校だった。そんな環境のなかで、大人嫌いだった僕も、しだいに自己肯定感が上がり、先生たちを信頼するようになり、勉強を少しずつ始めた。本当に基礎から、ゆっくり教えてくれて、ぼくは初めて勉強が「楽しい」と思った。しかし、今思えば少々自己肯定感を上げすぎたようにも思う。小学校での挫折の経験が逆効果となり、僕は成功体験に異常なほどに飢えていた。そして、「やればできる」という、努力神話の呪いにかかってしまったのだ。
『勉強して、あいつらを見返すような成功をしたい。』
 そんな悪魔の囁きに、僕は魂を売ってしまったんだと思う。結局、子供の頃の心の歪みは、治ることはないのだ。
 それからと言うもの、僕は勉強の鬼となった。毎日図書館に通い、復習に励んだ。なかなか覚えられない英単語も、何千回と書くことで体に刷り込んだ。そして、自分が過去に責められた理由を全て潰していった。少しの世間知らずも恐れ、贅沢品を持つことを過剰に恐れた。忘れることのないよう常にメモを取り、そして勉強した。できないことはできるようにならないから、できなくても身になるよう工夫した。読むのが苦手なら音読したり、ラジオ講座を聞いたり。独特な勉強法でも、効率が悪くても、点数に反映されなくても、とにかく学ぶためになんでもやった。いわゆる「高二病」といったものだと思う。
 六年間、勉強しかしないまま青春時代は終わった。
 そのとき、知識さえあれば、きっとこの社会でやっていけると強く思い込んでいた。どれほど他人より劣っていても、寂しくても、「アフリカの子供たちよりまし」などと言って自分を鼓舞した。今思えば、アフリカだろうがなんだろうが、家族や友人や社会に受け入れられている人のほうが幸せだと思うが…。
 似顔絵を描いたとき、美術の先生に、「寂しそうな顔だね」と言われた。当時は「中二病って事かよ、ちぇっ」などと思っていたが、たぶん、本当に寂しそうな顔をしていたのだろうと思う。
 高校三年の三者面談の日、先生と父親の前で僕は突然泣き始めた。なぜ涙が出るのか、自分でもわからなかったが、止められなかった。父は「そんなに大学に行きたいのかぁガハハ」などと笑っていたが、あのとき僕は、これからの自分の人生の難しさと、その逃れられない運命に絶望していたんだと思う。

新たなる人生

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