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普通とは何だろう

生きていれば一度は言われた、もしくは言ったことのあるであろう「普通」という言葉に、私は長らくとらわれて生きてきた。
同じように悩んでいる、普通について考えを巡らせている誰かの参考になればいいなという気持ちで書いてみることにした。


普通とは

「普通になりたい」だとか、「あなたは普通じゃない」とか、一度は思ったり、言われたことのある人も多いであろう。
かくいう私もその一人で、肉親からお前は宇宙人だななんて言われた経験もあるし、大抵の人からは変人扱いされるので、人よりは「普通」について考えていた時間が長かったように思う。

結論から言ってしまえば、普通とは流動的なものであり、その人間の属するコミュニティに依存する概念である

という風に私は考えている。
例えば、日本にいる限り「日本人であること」や「日本語話者」であることが普通であり、マジョリティだといえるだろう。
逆に、この「普通」な日本人がアメリカに渡ったとすると最早、その人は「普通」ではなく、マジョリティとみなされるのである。
こういう点で、普通とはその人間の特性などではなく、外部によって規定されるものであり、普通ではないことを気に病む必要性はないのではないかと思うのである。

もしあなたが自分が異端で、普通ではないと感じて疎外感を覚えているのであれば、単純にあなたのいる環境があなたに合っていないだけなのではないかと思う


私の実体験になるが、小学、中学、高校と生きやすくなっていた節がある。
それは、自分と同じレベルの集団に属することができるようになったという点が大きい。
偏差値50の集団に、偏差値70の人間がいれば、白眼視されるか、尊敬されるか、息をひそめるかの三択になるのではなかろうか。
結局人という生き物は、社会的な動物のなので、他者との良質なコミュニケーショなしには生きられないと思っている。
その点で、自分が普通ではないという意識やあいつは普通ではないという周囲からの目は、耐え難いものの様に感じられる。
だからこそ、私は言いたい。

置かれた場所で咲きなさいなんて、くそくらえであると。

よほど生まれ落ちた環境が良くなければ、というか、大半の人間にこれは当てはまらない。
植物じゃあるまいし、我々人類は知能もあれば、文明の利器もあるし、移動するための足だってある。
自分を白眼視してくる人間に囲まれながら生きる義務はないのである。
なぜ苦しい環境、自分に合わないコミュニティに属し続ける理由があろうか。
自分に合わないと思ったなら、国、学校、サークル、なんだって変えてみればいい。
世界は広いし、きっと想像するより多様な人間が存在しているのだから。

言ってしまえば、「普通」というのは主観でしかない

客観的な普通とは存在するのであろうか。
ある指標から見た大多数は、見方を変えれば少数派である可能性も否めない。
そんな「普通」という言葉ににそこまでの重さはあるのだろうかと私は些か懐疑的である。

普通じゃないなら

自分が普通だと思える場所に行く、考え方を変えること、自分が新しい普通を作るなど、既存の概念にとらわれるのではなく、その概念を使いこなす、逆手に取るくらいの認識でいたら少しは気楽に生きられるのではないかなと思っている。
誰かの参考になれば幸いである。



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