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言外につたわるもの

言葉とは別に、つたわるものがある。

言葉ではこの人はこう言っているのだけれど、本当に思っていることは、こういうことだな…

そんなこと。

それは、行動といっしょに表現されることも多い。

たとえば、子どもが親になにかを訴えたいとき。

小学生の万引き、とかを例に出したらわかりやすいかもしれない。

その子は、自分をみてほしい。

自分に関心を持ってほしい。

頭ごなしに「正しいこと」を押しつけないでほしい。

ぼく、わたしのわからない、お母さん(お父さん)がわからない。

こんな感じかなぁ、と思う。

それは、大人からも発せられている。

言葉の外の、SOS。

大人だから、正面切って、自分の本音を言うことができない。

社会的な体面がある。

これを言ったら、誰が傷つくか、

誰の顔を汚すことになるかが、わかる。

だから、その人はその自分の本音を我慢する。

そんなことは、たくさんあるように思う。

大人も子どもも、たいして変わらないように思う。

子どもの言葉に、ハッとさせられることがある。

子どもは、本質を突いた言葉を、瞬間的に口にすることがある。

おそらく頭で考えて話してはいない。

いや、考えてもいるんだろうけれど、

大人より自由だ。

まだそれを失っていない。

それをそのまま表現できるくらいの年齢の子もいるし、

大人の世界の体系を知りつつある子は、

そこに自分を順応させようとしながらも、

どうやったら自分の個性を殺されることなく、

この窮屈な世界のなかで、それを表現することができるか、

それを編みだすことができるように思う。

ユニークな子。

面白い子。

言葉で遊んだり。

しぐさがおかしい笑

私たちは本来、みんな私たち自身として、自分だけの色と個性を持って、

この世に生まれてきている。

「社会化」の過程で、

わたしたちはそれを、次第に鋳型にはめられるべく、少しずつ自由が奪われていく。

そして、その鋳型のなかで自分をなんとか「うまく」表現しようと努力するのだと思う。

完全に社会化がなされてしまった大人は、

その「鋳型」と自分の区別さえつかないかもしれない。

子どもって、面白い。

なんてユニークで、輝きに満ちているのだろう。

それぞれの子に、それぞれの個性。

でも、面白いな、と思うのは、

自分がおかれた「属性」が、人とは違う子。

人とは違う、って、本来まったく同じ個性を持って生まれてきている人なんて、

一人もいないのだけれど、

わたしたちが信じている、いわゆる「普通」、たとえばお父さんがいて、お母さんがいて…みたいな形とか

とは違う形を、今生での自分の表現のための土台として選びとって来た魂。

めちゃめちゃ面白い。

今、2年ぶりにお盆に実家に帰ってきていて、

皆が揃ったのは、何年ぶりだろう?

そんなお盆を過ごしている。

それぞれの変化と成長。

状況の変化。

何十年ぶりかでやっと陽の光が当たったこともある。

やっぱりね、と。

こんなことを学ぶために、「家族」という舞台も用意されているのだろう。

個性豊かな?、メンバーたちが笑

親がいないから、不幸なのではない。

子どもがいないから、不幸なのではない。

色んなことを勉強させてくれる、「家族」に感謝😆

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