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雑感記録(257)

【駄文の円環part7】


今日は好きな事を思うままに書こうと思った。

だが、僕は毎日好きな事を好きなだけこのnoteという場で書き散らしている訳で、何を今更改まって「好きな事を思うまま」と書いてしまっているのか。何だか最初からこの記録は破綻しているような気がする。書きたいことは色々とある訳だが、しかしたまには何も決めずに書くこともまた乙なものであろうと思う。

この1週間は何だかハードだった。というのも、僕に与えられた仕事がガラッと大きく変化したこともある。だが、どういう訳か愉しい。僕は今まで仕事というものに対して「愉しい」という感情は芽生えたことは無かった。仕事というものを僕は「生きるために働く」というように考えていた。お金を稼いで自分が好きな事をする為に働く。そういう感覚だったと思う。

YouTubeを息抜きに見ていても、何だかどこかの知らない起業家などが「若いうちはライフワークバランスなんか考えずにとにかく働け!」と声高に叫んでいる。そしてそれが将来的に云々と講釈を垂れている。別にそれは1つの生き方だろうから否定はしないけれども、何だか「今、この瞬間」というその時間性を考慮しない生き方だなと思って、いつも疑問を抱いていた。

「仕事に愉しさを求めるのはお門違いだ」

僕はいつだったか、そして何だったか忘れてしまったが、そういうことを言っている人が居るのを見た。僕は恥ずかしながら人間性がそこまで立派ではないから無理だった。僕は根っから「堕落」を求めていたのかもしれない。そして、それは今でも変わらない。先日の記録でも書いたが、僕の究極目標は「骨の髄まで堕落する」ということである。

だが、悔しいことに、坂口安吾も指摘するように、人は堕落すればするほどそれを是正しようと自然に働いてしまう。不思議な生き物である。とも思ったが、冷静に考えて生まれてから僕等はある意味で「管理社会」で生活しているのだから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。


そういえば、僕はかなり前に「便利さの先にあるものは」という様なことを記録したことがある。

僕はここで「便利さの先にあるのは喪失感である」ということを書いた。それで僕はこれを読み返してみて改めて思ったが、このタイトルにもある通りそれは円環でしかないのかとも思ってみたりもする。

便利さというのは、簡単に言えば、人間がある意味で堕落したいが為に編み出した技術である訳だ。しかし、時代が進めばその便利さというものもいずれ変化していく。そうすると人間は更に便利さを求めて進んで行く。つまり、人間は堕落→是正→堕落→是正→…という円環の真っただ中にいる訳だ。人は堕落するために生きている。そんな感じがする。

しかし、これは別の側面から考えてみなければなるまい。

例えば、何か既存のシステムがある。それは便利であることは確かだ。だが、インターネットの技術が向上し、それこそAIなどが発達している。そんな中でまだ人手で何とかしている業務があったとしよう。じゃあそれを「業務効率化」というお題目の元で是正しようとする訳だ。だが、その是正する段階で既に労力を割いている訳で、それを効率化するまでが非常に効率が悪い訳である。

堕落するために働くというのは何とも矛盾した行為である訳だ。「堕落」と「労働」はどこか相反するものである訳だ。それが共存しているのは変な感じがする。それか僕の認識が間違っているか。まあ、恐らくは僕の認識がそれこそお門違いもいいところなのだろう。「堕落」というのは手段なのか目的なのか。難しい所ではある。だが、僕はあくまで「堕落」は目的であるということなのだろう。


しかし、僕はここ1週間は先に書いた通り激務だった。

だが、それはあくまで今までの仕事と比べるとということである。今まではやることが無くて、仕事をやるフリをしなければならないくらいだった。ところが、今ではフリではなく、実際にやらねばならないからだ。そう考えると激務と言える。だが、前職と比べれば雲泥の差であることは言うまでもない訳だ。

そう言えば、この間、新しい期になるということで面談をした。上司とざっくばらんに話しながらも、今後の目標を立てたりこれまでの業務のフィードバックを行なった。僕はどうもこういうのが苦手だ。狭い個室に2人ないしは3人きりになるとどうも緊張してしまう。それは僕自身が今まで仕事をしているフリをしている訳なのだから、後ろめたさがあったのもまた事実である。それを指摘されるのではないかとヒヤヒヤしていた。

面談はつつがなく行われた。

それで上司に「うちに入って半年ぐらいが経つけどどう?」と聞かれた。これを聞かれるといつもどう答えていいのか迷う。前職が激務ということもあった訳で、そこと比較したら雲泥の差である。正直に「今の職場は緩いです」と言ってしまうのは失礼だろうな…。と思っていたら、それを察知したのか上司が「うちの職場緩いでしょ?」と聞いてきた。僕は思わず大きな声で「はい!」と言ってしまった。

だが、その後に言われた言葉が凄く身に染みたし、頑張ろうと思えた言葉でもあったのだ。確かこんなような感じだ。

「緩い会社だからこそ、自分の色味とか個性をバンバン出して行かないと淘汰されちゃうからね。言われたことを言われたままやり続けていたら、ただ隅っこに追いやられるだけだからね。そういう意味では厳しいと思うよ。だから、君は君であるっていう存在感を出して行って欲しい。仕事も当然出来なければ困る訳だけれども、1番は君が君らしい部分で仕事を盛り上げること。全力で君らしく仕事をしてほしい。とにかく君らしさを僕は求めているのね。」


人は言葉に動かされるということは往々にしてあると思う。昨日、僕は「名言厨」と表現して、世に溢れている名言を崇め奉る人間を少し小馬鹿にしたような文章を書いた。勿論、僕も含めてだけれども。

だが、そんなどこどこの誰かが何かの著作やインタビューで語っている言葉ではなくても、日常のこうした些細な言葉が響くことだってある。しかも、それは開かれた言葉ではなく、クローズドな世界での言葉。これだって僕からしたら名言である。事実、僕はこの言葉にどれだけ救われたか。

今までは、「自分らしさ」よりもとにかく「実績」だった。とにかく働け!とにかく訪問へ行け!とにかくセールスしてこい!そういう感じだった。自分自身の生活などはどうでもよくて、ただがむしゃらに仕事の知識を吸収して、ただがむしゃらに営業をしていたような気がする。

だが、僕は仕事をする中で、初めて「自分らしさ」を求められた。

話は最初に戻る訳だが、どこかのムカつく起業家は「若いうちはライフワークバランスなんて考えずに働け!」と声高に叫んでいた。言ってしまえばそこにある人間性はどうでもよくて、仕組みが大切であると。そこは理解できる訳だが、人間性を排除するのには懐疑的だった。そして現実はそれだった。その中で僕は僕らしさを追求しながら前職では仕事をしていたが、段々と限界が見えてきて破綻してしまった。

勿論、仕事の仕組み化、営業の仕組み化は大切なことだとは思う。しかし、結局差を生み出せるのは究極「人間性」であると言わざるを得ない。もし人間性が無ければAIにでもさっさととって代わられてしまえばいい。それでも営業という職が無くならないのはつまりそう言うことなのだろうとも思えるのである。まあ、こんな講釈はどうでもいい。

こうも堂々と「君らしさを全面に出すんだ!」と言われると、何だか箍が外れたみたいになる。そして、やりたいことや考えていることを思い切りぶちまけた。加えて「君が何かやりたいことがあれば、実際何でも出来るよ。ただやるのは自由だけど、それをどう継続していくかは難しい所だけれどもね。だから基本何でもウェルカムだよ。」と言われた。僕は初めて仕事に必要とされていると思った。


今後、僕は営業では無く顧客管理部門で働くこととなった。元々は営業で採用されたけれども、僕が「顧客管理で、この会社のサービスの1ファンとしてその裏側を支えたいです。」ということを伝えたことでそうなった。本当に有難いことだ。だが、同時に厳しい道を選んでしまったとも言える。それは今までとは異なり、数字での明確な基準がなくなったことによる。

営業であれば「月に〇〇千円の売り上げ達成」とか「年間で〇〇千円の目標」というように具体的なまでの数字で徹底的に管理される訳だから、評価としても眼に見えやすい。誰にでも「この人は凄いんだな」というように評価をされる。だが、裏側の仕事だとそう簡単に評価できるものではない。先の上司の言葉ではないが、言われたことをそのままやっていたら淘汰されてしまうのである。

今はまだ本格的に始めてから1週間しか経っていないので何とも言えず、まだ自分らしさというより基本的な業務を色んな人のそれぞれのやり方から吸収している所である。かなり大変だ。人によってやり方や考え方は様々だし、それを全て受け入れるということは困難である。だが、そんな事よりも愉しさが勝っている。何故だろう…。

僕は以前、新入社員や新入生に向けておじさんらしく講釈を垂れた。これは詰まるところ今の自分に向けた記録である。様々な考え方を吸収して、とにかく考え続けること。今の僕に必要とされていることである。僕の自分らしさを芽生えさせるための準備段階である。

お陰で、会社の人と密にコミュニケーションを取るようになり、この1週間はひたすら話していたように思う。些細な事でも「これってこうしたいんですけど、どうですか?」とか「こうしたら早く出来ますね」とか色々と話をしている。今までは黙々と仕事をしていたので、必要最低限以外は話さなかったが、ここ1週間で箍が外れた。それも上司のあの言葉のお陰なのだろうと思う。

僕はよくマッチングアプリでも、それ以外で出会った人にもよく言われる。「前職が銀行だったのに、辞めて良かったの?」とか「銀行の方が社会的信用度もあって、辞めちゃうなんてもったいないね」と言われることが極々稀にある。そう言って貰えるのは有難いことだ。それはお世辞でも僕のことを思って言ってくれている……はずだ。だけれども、自分らしさを失うことと社会的信用度を失うのであれば、正直に言うと自分らしさの方を優先したい。

銀行よりも今の会社は大手子会社であるとは言え、いつ倒産するかも分からない。あるいは吸収合併される可能性だって十分にある訳だ。だけれども、僕は上司のあの言葉があるだけで何があっても大丈夫なような気がしている。僕は面談時の上司の言葉に救われた。


再三に渡って書くが、人は言葉に救われることがある。

だが、それは名言なんかじゃなくたって人を救うことがある。

僕は仕事に愉しさを求めている訳ではない。ただ、自分自身という存在が全力で出せることに愉しさを見出している。仕事単体で言えば愉しくなんてない。先にも書いたが僕は仕事など本当ならばやりたくなどはない。だが、問題は仕事自体が愉しいということではなくて、いかに仕事に自分らしさを出して愉しくするかなのではないかと上司の言葉ではたと気付かされた。

だから、毎日大変だけれども、僕は今の仕事が愉しい。どれだけ地味な仕事であろうとも、どれだけ泥を啜るような仕事でも、どれだけ華がない仕事であっても愉しい。それは何よりも「自分らしさ」を全面的に出せる仕事だからである。

それに、神保町が僕にはある。

そんなここ最近の話である。

よしなに。


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