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雑感記録(252)

【骨の髄まで堕落したい】


今日はテレワーク。何だかやる気が出なくてダラダラしながら過ごしている。それなりに仕事はしているが、どうもやる気が出ない。それで朝からAmazon Primeで『GTO』を垂れ流しにしながら本を読んでみたり、ちょこちょこ仕事をしてみたり…。だが、やはり仕事のモチベーションはゼロである。やっぱり僕にはテレワークは向かないんだなと改めて思い知らされる。

先程、会社から電話があった。驚いた。僕宛に何か連絡が来るなんて殆どあり得ないことだからだ。どこか僕のこの堕落している様子を半ば見透かされているような、そんな気分だった。電話の内容はさしたるものでは無かったのだが、その会話のテンポ感とかがどうもぎこちない。これは仕事をしていないことがバレているなと何となく分かった。しばしば人間悪いことしているといつかバレると言われる。そういうことかと自分自身を納得させる。

だが…。しかし…。

サボることが果たして本当に悪い事なのかとも実は思っている。「皆がやっているから自分もやる」というのは何だか変な感じだ。勿論、やるべきことは必ずやらねばならない。与えられた課題であったり、自分がやらなければ他人に迷惑を掛けてしまうことであれば当然にやらなければならない。これは人として当たり前だ。しかし、それが完了した場合は他にすべきことを探す訳でしょう。それが「ない」と言われてしまったならば、自分で何かを作り出すしか術がない。

そうすると、僕の場合はこうしてnoteを書いたりすることになる。事実、これは業務には全く以て関係が無い。そもそも仕事中にこんなことをしてはいけない。だが、僕はそこに至るまでの過程が重要だと思っている。やるべきことをしっかりやって、自分でやるべきことを探し出した結果がこれである。何も「仕事?そんなのどうでもいい。」と最初からこんなことをしている訳ではない。

加えて、前提としてこのnoteを書くという行為が何か他の人に迷惑を掛けているかというと実際そうでもない。書いている内容面でもしかしたら迷惑を掛けているかもしれないが、しかし書く行為自体そのものは誰にも迷惑を掛けている訳ではない。ある意味で人畜無害である。もっと言ってしまえば、所謂「窓際族」と呼ばれる人達のように「何もしていない」という状態ではない訳である。はたから見れば仕事をしているようには見える。


だが、ここまで書いてみて思うけれども、サボろうと思っても思い切ってサボれない。それにこれは果たしてサボりと言えるのかというのも疑問ではある。何度も言うようだが、自分でやることが無いか必死で探した結果がこれである訳なのだから、むしろ全力でやるのが筋というものだろう。

何だか僕は馬鹿らしくなってくる。

宙吊りにされている状態である。というよりも、どうして仕事をしているフリをしなければならないのか。どうしてこうも気持ちよく書けないのだろうかとも思う。このnoteを書いている背後には必ず「仕事」というものが眼を見張っている。監視されている。こういう時にフーコーのパノプティコンの話が身に染みてよく分かる(ま、パノプティコン自体はベンサムのあれなんだけれどもね)。

そんな時に僕は坂口安吾の『堕落論』『続堕落論』の一節が頭を過る。

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾「堕落論」
『堕落論』(新潮文庫 2000年)
P.85,86

ここだけでは些か不明瞭だが、とにかく人間存在は堕落する人間である。僕が問題にしたいのはそこではない。「人間は永遠に堕ちぬくことはできない」という部分である。この文章が今の僕には物凄く染み入る。さらに坂口安吾は『続堕落論』でも同様なことを言っている訳だが、堕落の中でその堕落に人間自身が耐えきれなくて結局堕落を破壊していく。それが人間の成長に繋がると言う。

 生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

坂口安吾「続堕落論」
『堕落論』(新潮文庫 2000年)
P.85,86

「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。」という文章も何だか物凄く身に染み入る。人間は堕落しようと思ってもついぞ堕落出来ないでいる。哀しいことに。堕落によって、僕らは律されてしまう。堕落することそれ自体がむしろ真面目な態度なのではないかと僕には段々思えてくる。坂口安吾が言うようにそもそも堕落すること自体が人間の本質である訳で、それをどうにかしようとする方が自然の摂理に反しているような気がしている。


だが、ここまで書いておいて何だが、僕は仕事をしないこと、サボるということを正当化するつもりは微塵もない。何度も言うようだが、やるべきことは絶対にやるべきだ。すべきことをした後に、自分で何かできないかと考えることが重要である。例えば他の人に「何かすることは?」と聞いてみたり「お手伝いします」とか尋ねてみる。それでも「大丈夫」と言われてしまった場合に於いて、どうするかを考えることが大切。その結果として「サボり」ということが出てきたのならば、僕はそれは「サボり」ではなくて、純粋に自分の中でやるべきことなんだと思う。

だから、「サボる」という言葉も良くないなとも思う。積極的堕落と言おうか。こういう場合を積極的堕落とすれば、所謂「窓際族」と呼ばれる人々は消極的堕落と言うべきなのだろう。彼らは探すこともせずに、ただそこに存在するだけだ。それはそれで怒られて当然である。だって、ただ会社に来ているだけであるからだ。言ってしまえばお荷物である。だが、よくよく考えてみれば、堕落するならばわざわざ会社に来る必要もない。それなのに会社に来ているのだからある意味で偉い(だからと言って褒めている訳では決してない)。

待て待て、そう考えると確かに人間は堕ちるところまで堕ちることが出来ないというのは正しくではないか!

悔しい。どこまで行っても人間の理性とでも言うのか、そういったものが働いてしまう。あとはやはり、小さい頃からの「規律・訓練」による刷り込みが大きいのだろう。何だか哀しくなってくる。

究極、僕が言いたいことはこうだ。

「やらなければならないことは確実にやって、他人に迷惑を掛けないようにこそこそサボるのぐらいは良いでしょう。だって人間だもの。」

よしなに。



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