見出し画像

雑感記録(305)

【学ばれざるもの】


最近、僕はこのような動画を見た。

YouTubeのアルゴリズムというのはよく分からないもので、何故か僕のオススメに突如として現れた。僕は何処で誰が何をしようがどうでもいいと思っている訳だが、何だか面白いことをしている人間が居るもんだなと思い、興味本位で見てみることにした。

内容としてはこのサムネを見てもらい、尚且つYouTubeに造詣が深い人にとっては分かるだろうが、有名(なのか僕は知らなかった訳だが)YouTuberであるところの、このヴァンビさんとやらが学校を始めるらしい。一応僕も教育界で働く端くれとして、少しは気になる訳だ。それで蓋を開けてみるとオンラインのSNS大学なるものを開校するらしいとのことであった。

「へえ」という感じで僕もこの解説動画を見ていた訳だが、結構真面目な所でツッコんで行くところが個人的に面白かった。僕も初めて知ることが沢山あって、そういう点では非常に勉強になるなと思いつつ、教育というものの難しさと言うか、そもそもこういう領域で法律的な部分、厳密な学校法とかそういうものは抜きにして、簡単に出来てしまえることが何だか違和感を覚えた。

今日はそんなことについてツラツラ書いていく。


最初に断っておくが…という断わりをすること自体が馬鹿馬鹿しいことこの上ない訳だが、僕は何もこの事象について批判をしたい訳でもない。それこそ「自分自身にとって必要だ」と思えば申込するなり、何なりすれば良いと思う。僕はただのべつ幕なしに語るだけである。

無知

 私の知らないことに
 私は支配されている
 私が何を知らないのか
 それすら私は知らない

 見えない壁がある
 何世紀にもわたって
 人間が築いてきた壁
 真実と虚偽を積み上げて

 その壁を越えさえすれば
 自由になれる
 と 私は考えているが
 その先にいったい何があるのか

 そこで私は何を知るのか
 言語を通さずに知る何か
 嘘と本当の区別のない何か
 無知の未知の地平?

 知らないことで
 守ってきたものを
 知ることで失う
 ヒトの知はもろい

谷川俊太郎「無知」『どこからか言葉が』
(朝日新聞出版 2021年)P.46,47

まずは、以前の記録で引用したこの詩を贈りたい。「知」というのは得てして厄介なことがある。正しくそれを体現している訳である。過去の記録で何度も何度も引き合いに出しているが、学校という場所はそもそも「規律・訓練」の場所である。そしてバルトも『文学の記号学』という講演会の記録でも言っているように、とかく教育という場では言説そのものが権力を持ってしまうことがある。

これは冷静に考えれば誰にでも分かることだ。

学校のシステムを考える。僕等は今まで保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校、そして大学。そこでの教室という空間を思い出してほしい。そこに存在するのは誰か。自分を含めた偶然にも同じ年に生まれたというだけで連帯させられている我々、そしてそれを纏める教師。これらの関係がまずある。細かい部分で突き詰めていけば、スクールカースト的な中で生まれる友達関係による小連帯みたいなものもあるが、今回はそこには触れない。

考えて欲しいのは「教師(先生)」と「生徒たち」という構図である。僕はここで敢えて「生徒」ではなく「生徒たち」と表現したことに留意して欲しい。この学校という場、そして教室という場に於いては教師は1人であり、生徒は多数存在している。例えば僕の高校では、38人に対して教師は1人だった。副担任という謎の制度も入れるのであれば2人である。……そういえば、うちのクラスは何名か辞めているので最終的に何人かは定かではないが、このぐらいだった気がする。

単純に考えて、言い方は悪いが僕等より年齢が高い1人の人間が40人程度の人間を纏めることなんて本当に出来るのだろうか。そして、どうして僕等はただ歳が上である人間というだけで、3年間も言いなりになり続けてきたのだろうか。無論、僕はだからと言ってこれまでお世話になった先生方を否定する訳ではない。寧ろ感謝しかない訳だが、しかし俯瞰的に(この「俯瞰的に」というのも結局は主観的でしかあり得ないのだが…)考えて、そして人間という同じ地平に立たせたならば、この状況というのは些か奇妙なものである。


僕等は何故、手放しに教師に従うのか。

ここは真面目に考えねばならない問題だろう。だが、そんなことなど既にフーコーが指摘しているように「規律・訓練」の場である。それだけのことである。つまりは、小さい頃から無意識のレヴェルで社会に出ることを刷り込まれている。社会的に生きる様にさせられているのである。ただ、それだけのことでしかない。

例えば、僕等は小学校、中学校、高校そして大学となるとスケジュールが決められている訳だ。「時間割」という名のスケジュールである。決められた時間に決められたことを行こない、決められた時間に休憩し、決められた時間までに帰宅する。そのような生活を刷り込まれる。大学では些か自由度が増すとは言え、その前提である「時間割」というものは存在する。その枠の中でどう上手く調整して行くか、時間配分を調整して行くかが単純に求められるのである。

これは社会に出てもほぼ変わらない。

毎日決められた時間に出社する。現在ではリモートワークが主流になりつつあることを考慮すれば「始業時間」だ。決められた始業時間から仕事を開始し、決められた時間の中で上手く調整して昼休みを取り、そして決められた時間に帰宅、業務終了となる。これは言ってしまえば小さき頃から刷り込まれたものの反復でしかない。

ある意味で、幼少期からそういう流れの中で生きていて、無意識の中で刷り込まれており、ルーチン化しようという働きがそこにはある。以前、何かのドラマで「会社は学校じゃねえんだよ!」みたいな言説があったか、あるいは実際にそういうドラマがあったかは忘れてしまったが、僕はこれには無理があるんじゃないかと常々思う。

それは学校では常に手取り足取り保証されている世界であり、会社とは異なる。無意識に刷り込まれるルーチンというのが社会に対応していない、会社に対応していないということは仕方のないことだと僕は考えている。「教えてもらえる」という無意識が心の片隅に刷り込まれているのである。小さい頃から、それも幼少期から刷り込まれているのだ。抗おうとする方が難しい。

かと言って、会社で甘えていてはいけない。


そして、上司と部下という関係性は、言ってしまえば「教師」と「生徒たち」の単数形である。しばしば「上司の言うことは絶対である」「上からの者の言うことは絶対である」などと言われることがある。正しくそれは学校というもので我々が刷り込まれた考え方である。家族という社会以外のコミュニティに於いて、年長者(教師、上司)の言うことは絶対的であり、正しいものであるという認識となるのは言ってしまえば学校の弊害であるとも言えるのではないか。

僕はここが怖い所であると感じるのだ。

よく学校の教師の言うことを聞く生徒は優秀だと見られがちだが、実際社会に出てみるとそんなもの全く以て優秀でないことが分かる。そして、それを教えてくれるはずの教師という立場そのものが隠蔽してしまっているのだからお話にならない。無論、だからと言って教師が「正しい/正しくない」という方向には決して持って行きたくはない。当たり前だが教師も人間である。「聖職者」である時代はとうの昔に終わっている。

単純に僕等が彼等(教師、上司)に手放しに従うのは「知」そして「経験」の差異からである。「知」や「経験」が武器になるというのは正しくそういうことであり、それがあるからこそ人を動かすことが出来る。例えそれが間違えていようとも、「いや、俺よりも経験豊富な人が言っているのだから」と有耶無耶にしてしまう構造がある。

「知」や「経験」というのは言ってしまえば権力装置そのものだ。

「知」や「経験」によって僕たちは簡単に人を操ることが出来る。これはどう頑張っても切ることの出来ない関係である。誰かが何かを語るという行為には少なくともそれを「知っている/知らない」という中で語られてしまうのである。こうして書くこともそうだ。僕もこうして延々と書いている訳だが、僕だってこうして権力を振りかざしている。そこでバルトは過去に何回も引用しているように、とにかく話を脱線させる道を選ぶ。

僕も常々そういう書き方が出来たらなと思うのだけれども、中々難しいものである。「誰かが何かを教える」という行為には少なくとも、教える側の人間が「自分が自分の知や経験を以てして、意識していようといまいと、語ること自体で、それを知らない人を支配しようとする働きがある」ということを自覚して然るべきである。


「バズ学」として、どうやら所謂「バズる」方法を教えてくれる大学らしい。

僕はまず以てそこから笑止千万な訳だが、加えてそんなものに(というと些か失礼だが)そこに対して対価としてのお金を払って簡単にてにしてしまおうとする現代人の心理を上手く利用した手だなとは思う。正しく、すぐに解答が欲しい世の中には持って来いの商売であることは間違いのない事実である。そういう点では時勢を読めているので凄い。

そもそも、僕はそんな「バズ学」というものを大学という名を冠して、「知」という権力構造に行こうとしている所に違和感がある訳だ。言ってしまえば「バズる」方法というものが果たして「知」足り得るのかということである。別に僕はここで「知とはこうあるべし」ということを書きたい訳ではない。何度も書いている訳だが、自分にとって「バズる」方法が「知」であることを欲する人にとっては「知」である。ただ、僕は全く以て欲していないので「知」ではないと書いているだけのことである。

今では様々な専門学校が群雄割拠している。

例えば、Eスポーツの専門学校だったりとかはよく聞くよね。ゲームスポーツの専門学校。凄い世の中になったもんだなと僕は思うけど、それでもそういう場を必要としている人たちにとっては大切な場所である。決して否定はしない。断固として否定はしない。僕も何となくだけれども、好きな事を追求できる場があればなというのはいつも考えていることだからである。

それらはまだ僕の中で受け入れやすい。

というのも、それが職業として成立しているからである。古臭い人間たちは「そんな学校など」というかもしれないが、世の中は常に変化するのである。実際に学校を出た後、例えEスポーツ選手に成れたにしろ、成れなかったにしろ、その職業自体は存在する訳である。ところが、「バズ学」というものは一体どこに就職先があるのだろうか。勿論、「就職」「労働」という観点で語ること自体がナンセンスではある訳だが、「バズ学」というのはどこかにそういった憑代みたいなものが存在しない。


そんな話は別として、僕には何だか最近学びの方向がおかしくなっているような気がしてならないのである。

いつだったか、一時期大学から文学部が消えるという動きが見え始めているということを聞いたことがある。そして実際、教育業界に片足突っ込んでいる身としてやはり感じることがある。年々縮小傾向にあるような気がしてならない。別に僕が偉そうに言えたことではないが、危険だなと思う。

どうでもいい話だけど、実は僕は文学部か哲学科に行きたかった。

そして更にどうでもいい話だが、哲学に興味を持ち始めたのは『コクリコ坂から』を見てからである。あそこの中に出て来る、誰だったか忘れたが「樽の中の哲人」ということを、カルチェラタンの住人だったか。言っていたような気がする。そのセリフで僕は「樽の中の哲人ってなんだ?」となり、ディオゲネスの話に辿り着き、哲学に興味を持った訳である。

まあ、そんな話もどうでもいいとして…。

とにもかくにも、やはり遠回りする場所が段々と減っていることに僕は恐怖しかないのである。文学部など今から思えば、格好の遠回りできる場所であったことは言うまでもない。そういう、ある意味で正しい堕落を教えてくれたのはそういう文学や哲学だったのかなとも思うし、遠回りの極意がそこかしこに落ちていた。だが、今はどうだろう。

社会に出てすぐに役に立つことの方が優先され、学ばなければならないと書くと大仰だが、しかし、学んで然るべきものから遠ざかっているようなそんな気がしてならない。仕方のないことかもしれないが、そこに胡坐をかいて居たくはない。だから「バズ学」なる物には抵抗したい。僕はそれを「知」だと易々と評定したくはない。

果たして簡単に得られるものを「知」と呼ぶべきか。


僕はだからあまりこういう事態に迎合したくない。

手放しに与えられた「知」や「経験」を鵜呑みにしたくはない。僕は以前の記録で書いたことがあるが、ある意味で哲学書や文学というのは優しさの塊である。だから、「バズ学」というのも我々に対しての1つの、ヴァンビなる人の一種の優しさなのかもしれない。しかし、これは優しさというよりも優しさの押し付けでしかない。

「バズ学」を仮に学んだとして、それで僕等の世界や生活が豊かになるか、精神的な豊かさは手に入るかと言われたら、それはどうなのだろうか。僕はそれをヴァンビという人に問うてみたい。お金儲けの為。結局そこに行きつくしかないのではないか。別に僕自身もお金儲けに対して拒絶感がある訳でも決してないし、あるに越したことは無いはずだ。しかし、そこで「バズる」方法を教えることで精神的豊かさに繋がるとは僕は少なくとも思えない。

そして何度も何度も、くどいようにいう訳だが、そんな簡単に得られる「バズる」に何の価値があるのだろうか。苦労して「バズる」そのプロセスが肝心なのではないか。その道中に落ちているものからきっとヒントがあるかもしれない。あるいは別の方向での切り口や打開策が見えてくるかもしれない。むしろ、「バズ学」によって「バズる」以外の部分での可能性を破壊しているのではないか。

「教える」という行為には同時に何かしらの可能性を見落とすこともあることを承知しておくべきである。だからこそ「教える」側の人間は如何に脱線させるかを考えなければならないのではないか。僕はそう考えている。

そんなくだらぬ話である。

よしなに。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?