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雑感記録(100)

【文学への熱情】


気が付けば雑感記録も100記事目に突入した訳だ。実は結構自分でも驚いている。何度も過去の記録で書いている訳だが、僕は三日坊主な質であり、何か始めてもあまり長続きしないタイプの人間である。色んな事に興味が湧いてしまい、方々に手を出してはしばらくすると他のことに集中していたり…。常々、僕はアシュラマンみたいになりたいと思っている。

アシュラマン

そんな僕がまさかこうして続けることが出来ているなんて…。自分でも驚いている。「好きなことであれば続けられる」とは正しくこういうことなのだなと身を以て知る。しかし、好きなこととは言えども長く続けるということは難しいものだということも同時に知る。例えば仕事でぶっ疲れてしまった時、書きたくても書けない状態になってしまうことがあった。この身体的な、物理的な疲労を「書く」という好きな行為で解消できるかというと100%は無理である。noteを付けていてそこが身に染みてよく分かった。

以前、僕はとある社長との会話で学んだことを記録に残した。

最終的にはこういう姿になることが理想だ。好きを追求していたら、気が付いたら前には誰も居なくて後ろにも誰も居ない。左右を見渡して見ると僕の大好きな人たちが笑いながら一緒に歩いている。これが僕の目指すべき地点なのかもしれない。


僕が継続していることはやはり読書と映画を見ること。この2つ、とりわけ読書に関しては例えどれだけぶっ疲れようが、「せめて1行でも読むんだ」と決めている…というと大分仰々しいのだが、そのぐらいの心持で読書している。映画に関しては毎日テレビに流しているのだが、流し見をすることが殆どである。過去に何回も見た映画を見返すことが殆どであり、実は本数的にはあまり見ていない。好きなものを好きなだけ見ている。

こうして考えてみると、やはり僕は「読書への熱情」とりわけ「文学に対する熱情」というのは忘れていないんだなということが何だか嬉しい。それは勿論自分自身がそういった文学に飽くなき興味関心があるからなのだが、だとしてもそれを持っている、持ち続けていられることが嬉しい。それは僕自身の心持もあるだろうが、僕の大学の友人やいつも良くしてくださる社長のお陰もあって熱情を常にキープしながら過ごせている。要は僕は恵まれた環境に居る訳なのだ。

僕は先程から「熱情」という言葉を頻発している。これは三島由紀夫の東大全共闘との討論で三島が討論の最終ぐらいで言ったその雰囲気とクールさに心惹かれたから僕もそれに感化され使用するようになった。

今の言葉は非常に感銘深く聞きました。既成概念の破壊ということについては、私も長いこと、多少とも文学者としてなってきたつもりでありますが、それがいつの間にか私自身既成概念の権化そのものとうけとられているうれしさ、何かあるうれしさじゃないが、(笑)そういう感じでずっとここに立っている。それで、今天皇ということを口にしただけで共闘すると言った。これは言霊というものの働きだと思うのですね。それでなければ、天皇ということを口にすることも穢らわしかったような人が、この二時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。

三島由紀夫・東大全共闘『美と共同体と東大闘争』
(角川文庫 2000年)P.118,119

前半の部分については、これは映画を見るなり、本を読んで頂ければと思うから敢えて説明はしない。僕が好きなのは「言葉は言葉を呼んで…」からだ。最終箇所に僕は痺れたのだ。あまりこういう書き方は好まないのだけれども、あの三島由紀夫に「あなたの熱情は信じます。」「ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる」と言われたらどうだろう?僕がもし東大全共闘と同じような立場にいたら?

僕は勝手に、真に身勝手ながらも大学の友人やいつも懇意にさせて頂いている社長からこういったものを感じている。飛んだ思い上がりなのかもしれないが、こういう方々のお陰で今の僕が好きなことを追求し続けられているのだと改めて思う訳だ。これには感謝の言葉を尽くしても尽くしきれない。これからもよしなにお願いしたいところである。


文学が僕を変えてくれた。

これは間違いようのない事実である。最初はみんなを見返してやるという気持ちから読書を始めて、嫌々ながら読んで読んで読んで…。気が付いたらこんなところまで来てしまった。これこそ自分の人生の中で1番の衝撃だ。まさか、ここまでハマるとは微塵も思わなかった。文学の虜になってしまっていたのだ。しかも、大学を卒業してからというものの年々文学に対する熱情が溢れ出るばかりである。

僕は大学で元々和歌を学びたいと考えていた。高校生の時に古典の授業で和歌の面白さ、厳密に言えば「和歌のシステマティックな技術」の虜になり、これを追求したら面白いんじゃないかとその当時は思っていた。

大学1年生の頃はコース選択、所謂専攻が決められずとりあえず網羅的に学ぶ機会が設けられた訳だ。勿論そこで僕は和歌の授業を中心に取っていた訳だ。勉強し始めると色々な発見があり愉しかった。オンデマンドで受けた『万葉集』の授業は面白かったことは記憶している。

そんな中でのクラスメイトからの嘲笑、そして悔しさを体験した。和歌だけでなくありとあらゆる作品を片っ端から読んでいった。最初は苦痛の連続だった訳だが、1年も朝から晩まで図書館に籠るような生活をしていると苦痛がもはや快感に変化する。そこで僕は自分自身が根っからのマゾヒストであるのかもしれないと悟る。しかし、文学に於いてのみマゾヒストなのかもしれない。

色々と本を読み漁っていくうちに僕の興味関心は和歌から他の方向へと進んで行くこととなった。その主な原因は文芸批評の授業を取ってしまったことにある。ここではありとあらゆる本がのべつまくなしに紹介され、しかも「これを読まないなんて…クスクス…」みたいな雰囲気が漂っており、それが僕の読書に拍車を掛けた。そうして和歌中心から文芸批評へと僕は移行していくことになる。

文芸批評を読み始めると、まず気付かされるのは近代文学を知らなければお話にならないということ。そしてこれが今の僕の原動力になるのだが、理論的な部分はその殆どが哲学から来ているということだ。

そこで僕は文芸批評については授業でやるから一旦置いておくことにして、近代文学と哲学を中心に据えて読書を始めることにした。最初に読んだのは以前の記録でも書いたが横光利一だ。『機械』を読み頭が混乱する。ただ、その読んだ時の感情というか感覚というのは未だ鮮明に覚えている。正直チンプンカンプンだったけれども、ワクワクしたのを覚えている。難しさに興奮したというか…。

僕は本を読むモチベーションとして「こういう本読んじゃってるオレかっこよくね?」というある種の邪な気持ちがある。というか、これが実は僕の読書をする原動力の60%ぐらいを占めている。別にこういう部分は敢えてこういう場で書くこと以外では誰にも言うことはなく、目に見えないものである。だから外から見ると「なんかすごい本読んでそう」と思われているが実際のところは大体こんな感じだ。

今ではある程度読めるようになったからこそ、純粋な作品の思考性の面白さに触発されて読むことが多いのだけれども、その当時はこういう邪な気持ちがなければ続けられなかっただろうなと思う。ただ、それでも作品自体の面白さ、これは言葉にするのが難しいのだが、そういったことを感じていたこともまた事実である。

近代文学と同時並行で哲学を読み始め、哲学は最初本当に意味が分からなかった。というよりもいきなり哲学の「て」の字も知らないような人間がいきなりニーチェの『ツァラトゥストラはかく語り』なんて読み始めたのがいけない。これは未だに反省している。『善悪の彼岸・道徳の系譜』から始めておけばよかったなとあの頃の自分をもはや憐れむことしかできない。しかし、それもそれでいい読書体験ではあったはずだ。

そこから授業で紹介された本を読み、その紹介された本の中に書かれた他の人の著作を読み…と数珠繋ぎ方式的に読書をしていった。そうして僕は気が付いたらこんな風になってしまった訳だ。今の原型を大学2年生ぐらいで確立してしまった。そして大学2年生から現在に至るまで、それらに対する熱情は日々輝きを増しながら右肩上がりに燃え上がっている。


最近は小説よりも哲学が中心になっている。哲学ばかり読み続けるようになってからというものの、小説では満足しきれなくなってしまった自分が居る。何だろう…こう格闘したいというか、本気でぶつかることのできる何かを僕は求めてしまっている。

ただ、小説を最近読んでいないとは言ったものの、これはあくまで今の僕の中心に据えていないというだけの話であって、多分一般的な人たちと比べれば読んでいるように思われる。大分偏りのある小説ばかり読んでいるのだけれどもね。

最近、久々に中野重治を読み返してみた。僕は卒論で中野重治を取扱った訳だが、その時に論じた作品である『春さきの風』を読む。

帰ると未決から手紙が来ていた。
最近差入の書物に大きな制限が出来て読みたいものが絶対に読めなくなったこと、だから書物の選択のために今までのようにいろいろ考える必要がなくなったこと、などが書いてあった。
「早く出て仕事につき、また友子のおとむらいもしてやりたい。」
母親は封緘葉書を持って来て返事をしたため始めた。
強い風が吹いてそれが部屋のなかまで吹き込んだ。
もはや春かぜであった。
それは連日連夜大東京の空へ砂と煤煙とを捲きあげた。
風の音のなかで母親は死んだ赤ん坊のことを考えた。
それはケシ粒のように小さく見えた。
母親は最後の行を書いた。
「わたしらは侮辱のなかに生きています。」
それから母親は眠った。

中野重治「春さきの風」『村の家・おじさんの話・歌のわかれ』
(講談社文芸文庫 1994年)P.22,23

この箇所は小説『春さきの風』のある種クライマックスな訳だ。僕は初めてこの部分を読んだ時に震えた。この「わたしらは侮辱のなかに生きています」という1文が持つ破壊力は底知れない。僕はこのたった1文、されど1文に心打たれてしまったのだ。僕はここにこそ言葉の持つ壮大さを感じ取った。僕はこれを証明すべく大学時代の終盤を費やした訳だ。

何というか言葉の不思議さというのがここにはあるような気がしてならない。状況的には「悲しさ」が表現されている訳なのだが、たった1文でこれが悲しさなのか悔しさなのか判別がつかない、非常にあいまいな形式になっている。悲しさからくる悔しさなのか、悔しさからくる悲しさなのか…もはやどちらがアプリオリに存在するかなんてどうでもよくなるぐらいの表現なのだ。(あくまでも個人的感想だが)

卒論ではその時に読んでいたフーコーを参照しながら論じた訳だ。所謂、医者と権力、そして警察と権力、天皇と権力。『監獄の誕生』と『知の考古学』には随分と世話になった気がする。所謂「切断」という概念を文体に無理矢理当てはめて、権力構造を言葉で分解し…。まあ、あの頃は体力と余力があったから出来たのかなとは思う。

今、そういったことを抜きにして読んでも非常に良い作品であるなと僕は個人的に感じている。何というかプロレタリア文学の一端を担っていた人物らしからぬ作品であるということが大きいのかもしれない。


卒論を書いていた当時、僕は渡部直巳の『不敬文学論序説』を読んでいたこともあり所謂左翼系の文学にご執心だった。これはプロレタリア文学の作品そのものに興味があった訳ではなく、彼らが考える技術や技法が単純に面白かったというのがある。だから、プロレタリア文学が好きというよりもむしろ、「文学で本気で世界を変えてやろうとしている奴らの文学理論」が僕は大好きだったのだ。

彼等は大真面目に文学で世の中を変えようとしていた訳だ。実際に影響をもたらしたかと言われるとそれは微妙なところではある。しかし、少なくとも彼らはそれを信じて疑わず猪突猛進していた訳だ。こんな言いかたしたら大分失礼になるが「真面目な奴らが真面目に馬鹿追求してる」といった感じなのだろう。

中野重治の書く批評は結構エッジが効いてて面白い。とりわけ『芸術に関する走り書き的覚書』なんかは辛辣なことが書かれている。読んで欲しいことこの上ないが、これはある程度のプロレタリア文学の知識がないと腑に落ちないことが数多くあるため、とっつきにくい作品であるだろう。

僕はプロレタリア文学は所謂「真のリアリズム」に割かし近い作品群であるように思われる。先に引用した『春さきの風』然りだ。「真のリアリズム」に関しては過去の記録にも書いた。

あの1文が悲しさというある種の表層的な悲しさを一蹴し、悲しさそのものを崩壊させているように今では思える。あの当時はあまり関連付けることは出来なかったが、今こうして読み返して見るとそれなりに読書するようになった分より深く考えられるようになったのかなとしみじみしてしまう。


こういった彼らの文学に対する熱情というものに僕は羨望の眼差しを向ける。僕にも文学に対する熱情はあるが、果たして彼らほどの熱情は果たしてあるのだろうかと。

少なくとも、僕は今の世の中に於いて文学に対する熱情なるものは廃れているような気がしてならない。要は必要とされていないように思う。これは紛れもない事実だ。柄谷行人が『近代文学の終り』で書いたように。

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。日本では、まだ文芸雑誌があり、毎月新聞に大きな広告を載せている。実際には、まったく売れていません。惨めなほどの部数です。そして、小説が売れるときは、「文学」とは無縁の話題によってなのですが、何だかんだで、文学はまだ繁栄しているなどという虚偽の現実を作り上げているのです。
私は、作家に「文学」をとりもどせといったりしません。また、作家が娯楽作品を書くことを非難しません。近代小説が終ったら、日本の歴史的文脈でいえば、「読本」や「人情本」になるのが当然です。それでよいではないか。せいぜいうまく書いて、世界的商品を作りなさい。マンガがそうであるように。実際、それができるような作家はミステリー系などにけっこういますよ。一方、純文学と称して、日本でしか読むにたえないような通俗的作品を書いている作家が、偉そうなことをいうべきではない。

柄谷行人「近代文学の終り」『近代文学の終り』
(インスクリプト 2005年)P.59,60

僕自身もこれは感じることだ。以前の記録で純文学って何だろうな…ということを半ば適当に書いてしまった訳だが、今の時代に於いてそういう区別というか棲み分けをすること自体がもはや時代遅れなのかもしれない。

正直なことを言えば、僕は最近の小説は全く以て読まない。友人に紹介された作品しか基本読まない。それ以外は読まず、近代小説ばかり好んで読む。これを良いと捉えるか悪いと捉えるかは人それぞれであると思うが、少なくとも僕自身、現在の小説に満足していないこともまた事実である。

これは僕が近代小説を専攻していたからということを抜きにしてもそう思えて仕方がない。何というか、歯ごたえがなさすぎるというか…。そうだな、上手な表現が出てこないのだけれども、あまりにも余白がなさすぎる

本当にミスリードしないように補助輪みたいなのが所狭しと散りばめられていて、説明じみていてすんなり読めるのだが自分が能動的に没入することが出来ない時点で面白さがない。よく小説を読んで感情移入したとか言う人が居るが、それは表層的な部分での話であって、その奥の奥底まで見通す前に辞めている…いや、辞めさせられているのだと思う。

畢竟するに、読むということは自身の思考をその小説の余白に埋め、小説に流れる作者の思考と自身の思考をそこに絡み合わせるということなのだと思う。そしてそこから新たなものを作り上げていくこと。逆を返せば、これが出来ない小説は小説でもないし、純文学でもないし、もはや何でもないと思われて仕方がない。

何というか、今本屋で売られている殆どは「本」という「商品」なのである。作品云々よりもまずは売れることが前提。では売れるためには何が必要かということを考えなければならなくなる。そもそもの芸術の発露は自身の中に溜まったものが溢れ出た瞬間に生まれるものだと僕は思っている。しかし、これでは芸術の「げ」の字もかすっていない。

だから僕は読書アカウントとか何とか言って、ビジネス書や自己啓発本を紹介する輩が嫌いなのだ。役に立つとかなんだとか…。芸術に「役立つ」なんて気持ちを持ち始めた瞬間にそれは商品に成り下がる。そういった現状があって僕は最近の小説は読む気になれない。


芸術が目的意識を持ってしまった瞬間にそれは「商品」となる。これは文学、とりわけ近代文学を読む中で分かったことである。創作者はその作品に何かしらの意味を付与しようとするが、それは創作者が付与するのではなく鑑賞者が付与するものではないか。

これは時代性もあるのだと思う。資本主義社会が進展するにつれて文学というものが金稼ぎの1つの手段として成立してしまったことにあるように思われて仕方がない。だからこそ、僕はそういった枠から外れた作品を好む。誰かに読んで欲しいとか、多くの人に読まれたいと考えて創作されてしまったその瞬間にそれは芸術でも文学でも何でもなく「商品」となってしまう。

「商品」であるということを理解したうえで、それを「商品」と認知させないように作り込まれた作品もある訳で。それが現在で言われる所の「純文学」であると僕は考えている。

つまりだ、もはや現在に於いて「純文学」なるものは存在しない。これが僕の辿り着いた結論である。最近の小説が読むに耐えないのはそういうこともある。「商品」としての作品であるからだ。

では「商品」から逃れるような作品を創作するにはどうしたらいいか。これもハッキリ言ってしまう。そんなの無理だ。今のこの時代に於いては無理だ。資本主義がどんどん様相を変えて進展していく世の中で全てが「商品」として見做されてしまうからだ。現に生きている僕らも「商品」として存在している。

そんな世の中で真に芸術を求めようとすることは難しいことなのかもしれない。だが、現にそういったことを実践している人々は少なからずいる訳だ。僕は古井由吉や保坂和志を読むとそれを非常によく感じる。そういうところも理解したうえで作品を生み出しているのは凄いと改めて感じる。何というか、先にも書いたが「商品」という枠を飛び越えた先にある何かを彼らはいつも与えてくれる。


はてさて、色々と書いてしまった訳だが、僕は文学(という言葉ももはや死語なのかもしれない…)に対しての熱情を捨てずにここまでこれたことをまずは嬉しく思う。そのお陰で三日坊主の僕でもこうしてnoteを続けることが出来ているし、こうして日々考えるヒントを得ながら生活出来ている。これ程までに愉しいことはない!

100本目の記録。実際数字に表現してみると不思議なもんで感慨深い。でも、自分で読み返してみて何だか恥ずかしくも感じる。数字なんてあてにならんと考えていた僕だったが、こうして実際に数値化されたものを見ると「ああ、何か我ながら頑張ったな…」と感じてしまう。

これに甘んじてしまったら危険だ。数字を意識するのはこういう節目の時で十分だろう。そういうことにこだわるときっと書きたいことを書くというある種自由なこの場が一気に崩れ去り、数をこなすというのが最終的な目標になってしまいそうで凄く嫌だ。

という訳でこれぐらいで終いにしようと思う。これからもただ只管に好きなことを好きなように、好きな時に書いて書いて書いて書いて、ひたすら考えて考えて考えて考え抜いていきたい。

どうぞ、これからもよしなに。

あ、そうそう。転職の面接受かりました。次は最終だ。
今日は気持ちよく寝れそうだ。


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