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雑感記録(309)

【サンリオピューロランドへ】


突然だが明日、僕は1人でサンリオピューロランドへ行く。

実際初めていく訳で、そもそも何があるのかよく分かっていない。ホームページを見る限りに於いては、アトラクションや写真スポットがあるらしい。僕はこういうアトラクション系は苦手である。というよりも、こういった遊園地的なものに対して全然ご縁が無かった。小さい頃の家族旅行と言っても自然のアクティビティが多く、あまり遊園地には行かなかった。

唯一記憶があるとすれば…富士急ハイランドの、今はもう老朽化に伴い無くなってしまったらしいのだが「マッドマウス」だか何だかというプチジェットコースターである。ガクンガクンと腰を破壊する揺れと衝撃。「痛ぇえなあ!」とイライラしながら乗っていた訳だが、結局3回連続で乗ってしまった。あれは良い思い出である。

この年齢になって、久々の遊園地で実はワクワクしている。

しかし、今回は1人での遊園地だ。1人での遊園地は初めてなので、緊張もしている訳だ。アトラクション乗れるかな…とか、写真撮れるかな…というような心配事が沢山ある訳で、前日からドキドキものである。しっかり、Sanrio+に会員登録して、来場予約とeチケットを購入したので準備は万全である。あとは明日の電車の遅延が無いことを祈るばかりである…。

え、そこじゃない?


ああ、そうか。あの、そうそう。

別に僕はサンリオに熱い思いは無い。熱狂的な何かがある訳でもないし、何ならサンリオは『お願いマイメロディ』と『I.CINNAMOROLL』ぐらいしか通ってきていない。それ以外は主要なキャラクターのみを知るばかりで、特段これと言った感情は湧かない。キティちゃんも可愛いとは思うが、別に熱狂的な何かに突き動かされることは無いし、他のキャラクターも同様である。これと言った何かがある訳でもない。

サンリオは元々、山梨シルクセンターが確かスタートだった気がする。僕からすると今のキャラクター事業よりも、「サンリオ出版」のイメージが強い。僕の大好きな詩集に谷川俊太郎の『うつむく青年』というものがある。その詩集は「サンリオ出版」から出されている。そこで「サンリオって何でもやってんだな」と思わず感心したものである。こういった部分での興味関心がある。

そういえばこの話をした時に会社の先輩に「何でディズニーランドじゃなくて、サンリオピューロランドにしたの?」と聞かれた。

自分の中でも「確かにな…」と思った。僕はサンリオよりも何ならディズニーの方が通って来た。『トイ・ストーリー』は欠かさず見ていたし、『モンスターズインク』もサリーのおもちゃを幼少期に保有していたことは記憶に新しい。そう考えると、僕が確かにディズニーランド、あるいはシーに行かずにサンリオピューロランドに行くのかは疑問が残るところである。

幼少期からサンリオキャラクターに常に触れていた訳ではない。先にも書いた通り、キャラに対して思い入れがある訳ではないし、特筆するような記憶もない。書くとするならば、『I.CINNAMOROLL』をYouTubeで見て、あの哀愁漂う感じが堪らなく良いな…と思ったぐらいである。しかし、言ってしまえば僕のサンリオ体験はこれぐらいである。

そんな男が果たして行って良いものなのか。


だが、最近僕は東浩紀『観光客の哲学』を読んでからというものの、観光客的な態度というのか、そういった「まじめ/ふまじめ」の隙間にあるような考え方を意識している。僕の中で「知っている/知らない」という隙間を探るべく僕はサンリオピューロランドに行くのである。

もう少し説明を加えよう。

サンリオに関して僕は生半可ではあるものの、ある一定の知識を持っている。これは厳密に言えば知識ではない訳だが、例えば「ハンギョドン」とか「ポムポムプリン」とか「クロミちゃん」とか。そういったキャラクターは文字記号として知っているし、ビジュアルとしても知っている。だが、彼らの作品的な背景を僕は知らない。僕は文化記号的に彼らを知っている。

だが、これがディズニーランドともなれば、自分が小さい頃に見ていた作品が並ぶ。そして思い出に浸る訳だが、実際そこで語られる言説は「好き/嫌い」という二項対立になってしまいがちである。というよりもそれが前提として存在している。それが好き、それが嫌い。余計に知っている、つまりは作品の背景やその人物などの出自等を把握できているからこそ感情移入して「好き/嫌い」との認識に至る。

僕の場合は少なくともそうだ。余計に知識が入ってしまっているが故に、どうも愉しめない。それが「好き/嫌い」という二分化の中で愉しまれ、そして「分からない」というのがどことなく失われつつある、ある意味でよりクローズドな世界になっているのである。ディズニーは僕にとって非常に閉じられた世界として屹立している。だからあまり得意ではない。

サンリオピューロランドはどうか。

まずイメージとして、下手したらディスに―ランドよりクローズドな世界である。それは一般的な見方にもよるが、やはりお客層は女性が多く、男性などほぼ入る余地もない。それに社会全体として、何故か「サンリオ=女性のもの」というイメージがつき纏っていて、これもまた男性が入る余地がない。まだディズニーの方が余程そういった部分では間口が広い。よっぽどディズニーに1人で行くことの方がハードルは低い。

だが逆を返せば、知らないからこそ飛び込み易い。なまじディズニーはあまりにも知られているからこそ、「それも知らないのか?」という感覚に陥りがちだが、サンリオピューロランドはその分狭くなる。言ってしまえば、これには語弊がある訳だが、ガチ勢とにわかの間の落差をどう捉えるかが双方によって異なり、サンリオピューロランドの方がその落差が大きい。これが僕には面白いなと思う。

例えばだが、「隠れミッキー」なんていうものが1番のそれだ。「隠れ」と標榜している割に各種メディアで取り上げられ、そもそもオタク(通)とそれを知らない人の間には落差が当然あった訳だ。その落差が段々と埋められて生き、それを見つける愉しさへと移行している。皆が皆公平に愉しめるという点に於いてはこの落差をなくすことは有用であると思われる。

この落差というのは、渡部直己が指摘するところの、物語の欲望の構造である訳だが、詳細に触れると面倒くさいので割愛。ただ、ざっと書いておくならば「物語の落差がある方がエンターテイメントとして面白い」ということである。詳しくは『日本近代文学と〈差別〉』を参照されたい訳だが、この落差(この場面に於いては「知っている/知らない」というイデオロギーの落差)がその内部に居る人々の愉しみの萌芽となっていることは紛れもない事実である。

自分が「知っている」ことと「知らない」ことの落差がある方が面白いのは何もこういう場所だけではない訳である。つまり、その落差の狭いのがディズニーランドであり、極端に広いのがサンリオピューロランドだと思っている。正直、これは僕の肌感だからあまりあてにしないで欲しいのだが、ディズニーランドは過度にメディアに情報を露出しているが故に面白さがない。つまり、落差が各視聴者との間で上手い具合に埋め込まれて行く訳だ。サンリオピューロランドはその界隈でしかあまり話題にならない訳で、各々の落差は異なるのである。


別にだからと言って、どちらが良いとか悪いとかそういうことを決して言いたい訳ではない。というよりも、僕は前提としてアンチ・テーマパークの人間だから、そういう場所が嫌いである。出来ることなら行きたくない。

ただ、サンリオピューロランドは何故か前々から凄く興味があった。

特段、何か肩入れしているキャラクターはいないし(と書いているが、実はケロケロけろっぴとタキシードサムは結構気になっている)、そもそもこれは大変失礼な物言いで恐縮だが、メンヘラが好む感じではないか。大概メンヘラがサンリオキャラの何かを手にしていたりする訳で。僕は何だかそれは違うなとも思う訳である。

ハッキリ断っておくが、僕はメンヘラではない。

明日が愉しみである。

よしなに。

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