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軟禁生活だからこそ気づけた、どうしようもなく好きなもの

繰り返し書いているけれど、今の私の生活には、日本に住んでいたり、ヨーロッパに住んでいた頃のような行動の自由がない。そして、経済的な自由もない。
そんな、「アメリカ軟禁生活」は、当然、とても不自由である。

だけど最近、時々思う。
この制約があるからこそ、激しい感情が生まれ、自己対話が進み、今まで気づかなかった自分に気づける部分もある気がすると。
基本的には苛立ちや怒り、不満など、ネガティブな感情が生まれ、そこから自分の本音に気づくことが多いのだけど、先週末、そして昨日は逆だった。

先週末、そしてこの週末と久々に心が喜んでいるのだけど、その理由は、先週末はブック・フェスティバルに行ったから。そして昨日は、前回のブログにも書いたように、アメリカの紀伊國屋に行って、ずっと読みたかった日本語の文庫本を購入できたから。

1冊の文庫本のおかげで、昨日から、もうずっと、静かな幸せがこんこんと湧いている。
もちろんkindleのおかげで、海外にいても日本語の本を簡単に入手し、読むことができている。実際、海外に移住してからすでに何十冊、下手したら百冊以上の電子書籍を購入している。
しかし数年ぶりに手に取る文庫本は、やはりkindleにはない幸せを私に運んでくれた。

薄いベージュ色のページ。
紙に印刷された日本語のフォント。
ツルツルと柔らかい紙の手触り。
カバーを剥がした時の生成色の表紙。

日本語の文庫本を手にとって読めることは、なんて幸せなことなのだろうと、噛み締めている。

日本にいた時から、なぜか文庫本という存在が好きだった。
梅雨が明ける7月頭ごろ、書店に並ぶ「ナツイチ」などの文庫フェアを見ると、それだけで心がウキウキして、幸せでいっぱいな気持ちになっていた。
そのことは日本にいた時から自覚していた。
しかし今、日本語の文庫本がなかなか手に入らない海外生活をしているため、改めて、自分がどれほど文庫本が好きか、そして文庫に限らず、本が、文章が、いかに自分にとって必要不可欠な大切な存在なのかを思い知らされている。
「失ってみてはじめて、どれほど大切だったか気づく」
とよく言うけれど、まさにそんな感じ。

残念ながら紀伊國屋は運転しないといけない距離にあるので、運転できない私には、そんなにしょっちゅう行ける場所ではない。
だから日本語の紙の本に触れる機会は少ないのだけれど、でも、心が疲れ切った時、私は歩いて20分の本屋さんに一人で行く。
洋書だとしても、100%理解できなくても、本を手に取り、本の匂いを嗅ぎ、本に囲まれ、本好きな人たちと同じ空間にいるだけで癒される。

こんなにも本が好きなこと。文章が好きなこと。
アメリカで鬱々としがちな軟禁生活をしていなかったら、気づけなかった気がする。

そう思うと、やはり、人生はどんな体験もムダではなく、すべては自分にとって、最高、最善の人生のために必要なことなのかもなぁ、と、改めて謙虚に感じられてくる。


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