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檸檬読書日記 馬の言葉に耳を傾け、銀木犀を嗅ぎ、満月を見る。 10月23日-10月29日

10月23日(月)

外に出ると、金木犀の甘い匂いが鼻に抜けてくる。秋だなあ。

金木犀の不思議なのが、近くだとそんなに匂いはしないのに、遠くだと匂いが押し寄せるように香ってくる。
匂いがするから、何処だろうと探してみると、結構遠くにあったりする。反対に、匂いはしなくて、けれどオレンジ色の花がプチプチ咲いているから、金木犀があったのかと気づいたりする。そして近くで匂いを嗅いでも、あまりしない。
たまたまで、匂いが強い時期とかがあるのだろうか。
不思議だ。


公園を歩いていたら、銀木犀の枝が落ちていた。
金木犀よりも爽やかな甘い香りがする。
下に落ちていた花を少し貰って、ついでに金木犀の花も落ちているものを少々貰い、器に入れてトイレに置いたら、凄くいい感じになった。
強く香る訳ではないけれど、多少の消臭にはなる。入る度にフワッと香る。2つ合わせると(特に銀木犀を多めに)、それだけでも結構オシャレになる。


河田桟『馬語手帖 ウマと話そう』を読む。

ウマの言葉に耳と目を傾けるための、馬語の入門書。

ウマは鳴き声だけでなく、些細な仕草の中にも言葉があるのだとか。
それは、目だったり耳だったり鼻だったり尻尾だったり。

そして人と馬とでは、考え方も感情も違うらしい。例えば、物事を良い悪いではなく、「緊張する方」か「ゆるむ方」かで判断している、とか。故に平和的で、攻撃するのも、段階をきちんと経てから攻撃する。
嫌だったり怒ったりしたら直ぐに攻撃するのかと思っていたけれど、違うらしい。
仕草は結構自分が思っていた感情表現とあまり変わりなく、なるほどという感じだったが、この段階的なものは面白いなと思った。
知っていれば、攻撃の前段階の合図で距離をとれば問題ないから、変に怖がらなくてすむ。馬には緊張が伝わるらしいから、近づきやすくなる。

とはいえ、馬と接触する機会など早々ないのだけれど。
けれど文字も少なく、絵も多いから分かりやすく、馬の言葉が少し知れたのは興味深かった。





10月24日(火)

最近、栗ばかり剥いている。
無人販売で栗を見かける度にたくさん買っては、剥いている。剥いて、剥いて、剥いて、剥いてばかり。最早取り憑かれている。栗むき結構好きなんだよなあ。
食べるより剥くのがメインになりつつある。(え)

無人のは、結構安いのが多くて、たくさん買ってたくさん剥けるから嬉しい。何よりも、採れたて新鮮なのが良い。
今のところ最安値は、300gくらいで100円。
その分なのか甘味は薄いけど、シロップに漬けてしまえば問題ない、寧ろその方が美味しいから、最高。
ホクホク系は、そのまま潰してジャムみたいになるから良き良き。

でも、そろそろ終わりだろうなあ。残念。まだ剥き足りないけど、来年がまた楽しみだ。


五十嵐大介『海獣の子供』2巻を読む。

最近海に行ったから、繋がりで読み始めた。

周りと馴染めないと感じている少女・琉花は、ジュゴンに育てたられたという少年・海と空と出会う。
出会ってから、魚が消えたりと、周りで不思議なとこが起き始め…。
予想不可能で、なんとも不思議な話。


「…台風なんてなくなればいいのに。」
「そんな事言うもんじゃないよ。台風は確かに大きな被害をもたらすけど
それだけじゃないんだから。
例えば河底の石についた汚れを台風が流してくれる。
魚たちの卵はきれいな石にしか産みつけられないから、
台風のない年は卵も減ってしまうのよ。
その大雨が運ぶ土砂が河口に砂浜をつくりだす。
砂浜は多様な生物のすみかでエサ場で水の浄化作用もある生態系の要のひとつでしょ。
それに海の深い所の酸素の少ない水と表面の酸素の多い水をかき混ぜて、
生物にすみ良い環境を整えるし、
水温が高くなりすぎるのを抑えて、
サンゴ礁も守られる。
台風だって地球の生きるシステムの一部なんだから。
単なるトラブルメーカーなんてないと思うの。
いろいろな一面を見なきゃ。」


やはり全ての物事は、必要だから起きているのだろうなあ。
意味があるから存在している。そう考えると、地球というか世界って面白く思える。それで大変なこともたくさんあるけれど、でも大変なことの殆どは人が生み出したりして発生しているから、それも考えものだよなあ。

「いろいろな一面を見なきゃ。」
本当にそうだし、全てに言えることだよなあ。投げ出すのは簡単で楽だけど、それで終わりは勿体ない。もっとたくさんのことを知って、好きを増やしていきたいな。


アンネ・フランク『アンネの童話』を読む。

半分が童話で、半分がエッセイになっている。


あのとき、どれくらい走ったのか、燃えていた家がどうなだったか、わたしには分かりません。目の前にあったのは、死にもの狂いの人たちの歪んだ顔ばかりでした。そのあと静かになったのに気がついて見まわすと、まるで悪夢からさめたように、きれいさっぱりなにもありません。火も、爆弾も、人間も。(略)わたしは野原に立っていました。頭の上で星が光り月が輝き、大気はさわやかですこしも寒くありませんでした。


恐怖には治療方法はひとつしかありません。あのときのわたしのような恐怖心を持ったらば、自然を見つけるのです。すると神様が、考えているよりもずっと身近にいらっしゃることに気がつきます。
あれから、わたしはけっしてこわがりません。たとえ、爆弾がどんなにたくさん落ちてきても。


これは『恐怖』という題の童話。
でも、わたしはきっと。
物語のように、悪夢から覚めて、ただ綺麗な自然だけが広がっていたら良かったのに。




10月25日(水)


おやつー。
クッキーと抹茶(豆乳)ラテ。銀木犀があるだけで、雰囲気が良くなるなあ。


坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読み始める。

随分前におすすめして貰ったものの、もったいなくて置いていたが、漸く読む。
いきなり最初のページから、最近読んだ『シェルタリング・スカイ』のことが書かれていて、湧いている。
『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』というタイトルは、この作品の映画版の最後、著者であるポール・ボウルズ自身のセリフから取ったものらしい。


「人は自分の死を予知できず--/人生を尽きぬ泉だと思う/だがすべての物事は数回 起こるか起こらないか/自分の人生を左右したと思えるほど--/大切な子供の頃の思い出も--/あと何回 心に浮かべるか/4~5回 思い出すのがせいぜいだ/あと何回 満月をながめるか/せいぜい20回/だが人は 無限の機会があると思う」


これを最後に言うというのは、興味深い。
本の方にはなかった、1粒の光のような、救いのように思えた。
苦しかった出来事も、また起きるかなど分からず、終わってしまえば、思い出と化し、その思い出も幾度と思い起こすものではない。人生の時間においての、ほんの数回や数分。
囚われるのではなく、進め、というものなのかなと自分は勝手に解釈した。けど、まあ違うかもしれない。
でもそういう感じの救いの言葉だったらいいなと思った。

大分脱線したけれど、坂本龍一さんも音楽で携わった映画版『シェルタリング・スカイ』をより観たくなってしまった。早くDVD見つけたいなあ。

坂本さんがガンにより手術し入院している際の話。


毎日のようにパートナーが差し入れに来てくれても(略)面会禁止なので直接話すことができない。それで、いつしか病院の向かいの車道を挟み、互いに手を振り合う習慣ができました。(略)
すぐそばにいるのに会えないから「ロミオとジュリエットみたいだね」なんて言い合い、この習慣に「ロミジュリ」という名がつきました。(略)その後も入院するだびに、彼女はそうしてくれました。ベタな言い方だけど、辛いときにこそ愛に救われると思いました。


なんて素敵な話だろうか。
想像して胸を押さえた。




10月26日(木)

アンネ・フランク『アンネの童話』を読む。


(略)「世のなかには自分の楽しみ、自分の悲しみ、それ以外のこともあるのだ。(略)与えられるすべてのよいものを喜ぶのだ。他人の悲しみも忘れないで慰めておやり。だれでも、子どもだろうと小人だろうと妖精だろうと、たがいに助けあえるのだからね。(略)」


なんて深いんだ。
自分に持って生まれたもの、環境を嘆き恨むのではなく、受け止め、どうやったら喜びになるかを考えて、自分を変えていくことが大事なのだろうなあ。

最近、常に思う。
こうやって生まれたことには意味があるのだから、ある程度は受け止めて、上手く付き合っていかなくてはいけないよなあと。
そうやって言うと、差別とか言われそうだし、苦しさが分からないでもない(いや、実際は全然分かってないのかもしれない。でも、想像は出来る)けれど、意味を見出すか吹っ切れてしまう方が、自分のためにもなるのではないかなあと、思ったり。

嘆きや怒りや争いを増やすよりも、その方が楽な気がするんだけどなあ。
それに伴う不便さだって、見方を変えれば、良いものになるかもしれない。それにものは違えど、不便さは平等に与えられている気がする。自分とは違うから、分かりづらいだけで。

自分自身のことばかりでなくて、他の人の悲しみにも気づいて、性別国籍人種関係なく、支え合って生きていけたらいいのになあ。


お腹で雷が鳴っている。
冷凍庫に放置していた、屑プリンなるものを食べたら、雷が轟いた。
賞味期限が結構過ぎていたけれど、冷凍しているし大丈夫だろうと食べてしまったけれど、駄目だった。普通にアウトだった。
でも、一緒に食べた人はケロッとしていて、平気そうなのが解せない。自分が弱すぎるのか…そうか…。ゴロゴロ。




10月27日(金)

最近赤とんぼを良く見かける。秋だなあ。
この前も畑にたくさんいて、横になっている棒にとまっていた。3匹も。しかもその3匹が、全部同じ方向にとまっているものだから、面白かった。整列!という感じで。

赤とんぼと言えば、新美南吉『赤とんぼ』が有名だよなあ。
赤とんぼと、かあいいおじょうちゃんとの、少ししんみりとする話。


赤とんぼは(略)、じっと近づいて来る人々を見ています。
一番最初にかけて来たのは、赤いリボンの帽子をかぶったかあいいおじょうちゃんでした。
(略)
赤とんぼは、かあいいおじょうちゃんの赤いリボンにとまってみたくなりました。


個人的にはこの部分が好き。赤とんぼとかあいいおじょうちゃんとの交流が愛しくなるけど、それだけに切ない。


淋しい秋の夕方など、赤とんぼは、尾花の穂先にとまって、あのかあいいおじょうちゃんを思い出しています。


坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読む。

原発の話。


「長期的になりますが、(原発は)すぐに止めろと言っても止まらないので、われわれができることは、電力会社への依存を減らしていくということです。(略)少しでも電力会社への依存を減らせば、私たちのお金が電力会社に行ってしまって、そういうお金が原発やそれらの施設になってしまうわけですから、そういうところに払うお金を少しでも減らしていくということは大事だと思います。
言ってみれば、たかが電気です。
たかが電気のために、なんで命を危険に晒さなくてはいけないのでしょうか。(略)
たかが電気のために、この美しい日本、国の未来である子供の命を危険に晒すようなことはするべきではありません。お金より命です。経済より生命。子供を守りましょう。日本の国土を守りましょう。(略)」


電気が当たり前ではなくなったら、変わるのだろうか。日本はとにかく、明るすぎまる。


嬉しいことがあった。
また頑張れそう。
人の好みが千差万別であって良かったと、こういう時に思う。だからきっと、どんな人でもいるはずなんだ。いないと思えても、きっといるはず。多くはない時は、分かりづらいかもしれない。なかなか見つからないから、いないと思ってしまうかもしれない。でも、きっといる。この世界はおそらく、そういう仕組みで出来ている。ゼロにはならない。
そう思えなくても、実際はそうでなくても、そう思った方が楽しい。動ける。
なんて、思ったり。




10月28日(土)

念願の本屋へ。
熟成させておいた1万円分の図書カード、今が使い時だろうと思い持っていく。

たくさんありすぎて困った。見て選べる幸せよ。
とりあえず欲しかった『MONKEY』と『ニングル』はあったから確実として、他が迷った。
小説とか、文庫とか、比較的値段が低いものをたくさんでも良かったけれど、あえてなかなか買えないものに絞った結果、全部重いものになってしまった。重すぎて肩が崩壊するかと思った。

買った本


本以外にも、良い品物がたくさんあって(全部食料品)、しかもそれらの殆どがこれまた重いものだから、肩が…。明日はきっと肩が終わっている。

もう楽しくて楽しくて、楽しすぎて、これはいかんなと思うくらいだった。
別に遠い訳ではないから、直ぐにまた行ってもいいし、また一緒に行ってくれるらしいけど、こんな幸せなことが頻繁に起きてはいけない、というか危ないから、暫く我慢だな。

でもやっぱり、大きい本屋もいいけれど、街の本屋も好きなんだよなあ。出来ないかなあ。




10月29日(日)

想像通り、肩が痛い。というか重い。首までゴキゴキだ。まあ仕方ないけど。


坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読み終わる。

坂本さんは、最後まで音楽と共に生きた人だったのだなあ。
正直、自分は坂本龍一さんのことを殆ど知らない。亡くなる前に、明治神宮の件で再開発計画に対して抗議していたと知り、興味を持った。だからこそ、この本にも興味を持っていたのだが…。如何せん、知識がなさすぎた。

この本は、殆どが坂本龍一さんの最後の日々や活動を辿るもので(とはいえ、読む前にそういうものだと知ってはいたけど)、読みながらも常に取り残され状態になっていた。もったいないことをした。
音楽を手がけた映画も、名前は知っているが、どれも観た事がない。(映画は基本ジブリしか観ないからなあ)

それでも、興味深く楽しかった。ただ、坂本龍一さんを知っていれば知っているほど、この本は楽しさが増すのだと思う。もったいないことをした。(また言ってる)
まず最初の自伝『音楽は自由にする』を読めば良かったのかもしれない。

この本の中で何よりも面白いなと思ったのは、巻末。坂本さんに変わって鈴木正文が書いた、あとがき。
その中に坂本龍一さんの日記が載っていて、それがまた良かった。実は、こういうのを求めていた。見せるために整えられたものではなく、剥き出しの文章。これが本にならないかなあ。

後、坂本さんが鈴木さんにすすめていた、永井荷風『日和下駄』が気になった。
そして、坂本さんの読書経験や対談などが収録されているらしい『坂本図書』。
どちらもいつか読みたいな。




五十嵐大介『海獣の子供』(全5巻)を読み終わる。

最早芸術だった。
正直、内容は理解出来ていない部分の方が多い。頭の弱い自分には、難解過ぎた。
けれど世界の神秘に触れてしまったような、自然の恐ろしさと尊さを感じられる作品だった。
まるで神話のような。

何より、絵が素晴らしい。芸術だ。爆発はしないけど、深海に沈められた。
1ページ1ページ、それぞれにそれだけで1枚の絵のようで、力強く惹き込まれる。
海の中に沈められて苦しいような恐怖のようなものを感じるのに、このままでいたいと思うような、寧ろもっと沈んで知りたいと思うような、危うさと好奇心で一杯になる。

そしてあの中には、羨ましさが詰まっている。
特別な存在、自然と共にあるような海に対して、その傍にいられた琉花にも、羨ましいと思ってしまう。
自分も溶け込めたらなあ。

1度沈められたら戻れなくなる。惹き込まれすぎて、好きすぎて、読まなきゃ良かったと思った。こんな素晴らしい作品とはもう出会えないかもしれないと思うと、読んでしまったのが惜しいとさえ感じた。
でも、読んで良かった。出会えて良かった。
最高の作品だった。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「坪内逍遥」編を読み終わる。

小説家であり名前は知ってはいるものの、よく分からない。知識といえば、勧善懲悪など現実ではありえない。と、今までの小説を否定し、新しい道を開いた人、くらいかなあ。
それで森鴎外と論争で負けたんだよなあ。

追悼文は、葬儀を早稲田大学が仕切ったことから、そちらの方面の人が多い。160ほどの追悼文が寄せられたのだとか。凄い。
抜粋したいところがたくさんあるが、長くなるから省略。まとめるなら、結構出来た人であったんだなと感じた。
私利私欲がなく、だが熱く、遊女であった妻とは仲が良すぎて、他人の夫婦もそれを見て仲が直るほどだったらしい。そして誰であろうと手を抜かず、森鴎外が亡くなった時も、論敵だったにも拘わらず死を悼む談話を出している。


坪内逍遥は死ぬ寸前(略)「人は私を幸福な人間だと言うが、私は三十歳から苦しんで来た。人のように口へ出しては言わぬだけだ」と、沈痛な一言を残した。


でもだからこそ、苦しみも多かったのかもしれないなあ。




やはり長い…。うーん。

今週は久々に「読書記録」がなかったから、楽だったな。でも久々にやったら、やはり1つのものを突き詰めて書けるから、楽しいなと思った。大変だけど、楽しい。
これからは、1ヶ月に1本限定にしてやろうかなあ。(勝手にしろよという話だけど)
丁度今読んでいる本が良すぎるから(プラス長くなりそう)書きたくなっているところだし…。

ということで、11月の何処かで何かしらの記録記事を投稿する、かも。

まあ、どうでもいい話だったな。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に幸福が訪れますよう、祈っております。
ではでは。


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