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檸檬読書日記 芥川龍之介に脱帽です。 8月7日-8月13日

8月7日(月)

斉藤倫『さいごのゆうれい』を読み始める。児童書。

夏休み、田舎のおばあちゃんの家に預けられた少年・ハジメは、小さな女の子の幽霊・ネムに出会う。
「かなしみ」や「こうかい」が消えた世界で、世界を取り戻し、幽霊を救う話。

(略)ネムは、首をのばすようにして、いった。「頭を、なでてもいいよ」
その髪に、ぼくは、おそるおそる、ふれた。つるつるしていた。
「もっと、もじゃもじゃしないと!」
ネムは、激しく、いった。
ぼくは、もじゃもじゃした。

この場面好き。
それにしても、斉藤さん(というと、トレンディエンジェルを思い出すな。どうでもいいけど)の作品、初めて読んだけれど、区切りが独特だなあ。

後、この場面も好き。
きんぴらを、買ってきた方が安いし美味しいこともある。なのに何故つくるのかという話。

「きんぴらを買ってきちゃうと、きんぴらを買ってきたって、なるでしょ」
(略)
「きんぴらって、ものは、ないわけ」
「どういうこと?」
「きんぴらってものはなくて、ごぼうと、にんじんと、大豆からつくったおしょうゆと、さとうと、みりんと、ごまと、たかのつめと、そういうものがあるってこと、ほうとうはね。買ってきてばかりだと、それが、わからなくなるでしょ。そういうことが、いやだから、つくるのかもね」

んー、何だか少し分かる気がする。
作られたものは、見た目だけでは何が入っているか、何を使っているか分からない。
簡単で安くて美味しいかもしれないけれど、その代償に何が来るかは分からないよなあ。



8月8日(火)

古本屋の近くまで来たから、欲しいと思っていた角川文庫の古い版、芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』がないかなと思い、ふらっと寄ってみた。
そしたら奇跡的にあって、大喜び。即座に購入。


そして、るんるん気分で余計な本まで買ってしまった。何故…。
本との出会いは一期一会と言うから…と、もごもごと言い訳をしてみる。けれど鬼のような天使に「それでも芥川龍之介の本だけと決めていただろう!」とピシャリと言われる。反省します。
こんなんだから積読本が全く減らぬ。寧ろ増えていく。本当に反省しよ。
暫く買うのは新刊だけにしよ。(え)

帰ってきて、買った芥川龍之介の本をぱらっと見てみたら、読みたいと思っていた「葬儀記」が数ページだけで驚く。思ったより少ない。
「葬儀記」だけ読みたいと思っていたけれど、流石にもったいないからちゃんと最初から読もうかな。

そう思って、最初の「老年」を読んでみだら、驚いた。芥川龍之介、凄い。
内容は、若い頃は輝いていた男が、今は衰え見る影もないという、素朴なもの。

なのだが、その消失感からくる感情をえがくのが天才的なのだ。
とはいえ、自分が衰えたことを嘆くのではなく、周りの視点からあの人は昔は…と語られる。それがまた、余計に心を抉ってくる。

これは孤独なのだろうか悲しさななのだろうか、おそらくどれでもなくて…。かといえ、明快な言葉にするのは難しい。
読んでいると、空洞を感じる。体に空いた空洞に、スースーと風が通りぬてけいくような感じ。(ちょっと意味が分からない)

それだけでなく、自分が今まさに物語の中に入って、この冷たい空気を肌で感じてるような、そんな感覚を覚えるのだ。
画面などでその様子を見ているでもなく、もっと間近で実際にその場にいるような感覚。
惹き込む力が、それだけ強いのかもしれない。
特に最後

雪はやむけしきもない。……

これで完全に持っていかれる。空洞に風が、最後に強く吹き抜けていくような、視界を雪で覆われたような感覚になる。消失感がのしかかり、何処までも穴を広げてくる。
本当に凄い。この人、天才なのではないだろうか。(皆知っている)

正直、今まで芥川龍之介に対してあまり興味を持てずにいた。集英社文庫の『地獄変』を読んだ時は、何となく凄いなあとはは思えど、それ止まりだった。
けれどようやく、何故人気があるのか分かった気がする。「老年」を読んで、見方が変わった。
いや、もしかしたら、今までは分からなかった魅力をようやく気づける段階になったのかもしれない。自分が成長したのかも。
やはり、本には読み頃があるのかもしれない。

これから少しずつ読んでいこう。わくわく。


藤野可織『ピエタとトランジ』を読み始める。

天才探偵のトランジと、助手のピエタ。トランジの周りは常に死があり、事件が絶えない。それも、トランジは事件を誘発する体質だった。

(略)消波ブロックって、どこか正しくない感じがする。製造メーカーが盛大にサイズをまちがってつくっちゃった不良品で、本来は手のひらサイズだったはずだ、という気がする。

自分もずっと思っていた。絶対サイズが間違っている気がする。
ドラえもんの秘密道具「ビックライト」で、小さかったのを大きくしたような、違和感を感じる。そう思うのは、ピエタと自分だけなのだろうか。



8月9日(水)

久しぶりにかき氷を食べた。
そうしたら、半分食べた当たりで寒くて寒くて仕方なくなって、ブルブル震えが止まらなくなった。
唇までなんだか青くなっていると言われ、結局少し残してしまった…。申し訳ない。
そもそも想像よりも、2倍くらい量があったからと、言い訳してみる。
冷たい飲み物もあまり飲まないし、アイスも滅多に食べないからかもしれないけど、ここまで耐性がないとは驚きだ。



8月10日(木)

女の人が双子の赤ちゃんを抱えていて、重いから1人持ってと言われ、赤ちゃんを抱っこすることになった、という夢を見た。

自分は苦手ながらも必死にあやし、抱かれた赤ちゃんは終始きゃっきゃっと楽しそうにしていた。
女の人は「疲れた」と言って、乳母車に抱えていた赤ちゃんを下ろす。
乳母車があるなら、見知らぬ自分に預けなくても良かったのでは?と思いながら見ていたら、下ろされた赤ちゃんが明瞭な声で
「あっ、ありがとうございます」
と言った。
「おお、随分礼儀正しい赤ちゃんですね」
と、自分は妙に感動。

目を覚ました瞬間「いや、そこじゃないだろ!」と突っ込んでしまった。生後数ヶ月くらいの赤ちゃんなのだから、そんな喋れる訳がない。

ふとした時にこの話をしてみたら、自分はにまっと笑っただけなのに、凄い笑ってて、釣られて自分もケラケラ笑ってしまった。


斉藤倫『さいごのゆうれい』を読み終わる。

これが〈かなしみ〉なんだ。

ものすごく、うつろで。
足をふんばっていないと、そこに飲みこまれてしまう、洞穴のようなもの。
それが、かなしみ。

見えないのに、水みたいに、ひとを重くするんだ。

思っていた以上に深い話だった。
何故あまり話題になっていないのか不思議なくらい。課題図書になっても良さそうなのにな。
ただ結構深いから、子どもには少し難しいのだろうか。うーん。

本の中では、世界から「かなしみ」が消えている。
感情から哀がなくなった世界は、幸せなのだろうか。
「かなしみ」がなくなれば、無くなったことに苦しむことも辛さを感じることもない。
辛さがなくなるなら、それはいいことなのかもしれない。けれど、自分はそれでも「かなしみ」はあってほしいなと思う。
人は感情があるから、罪も犯すし誤ちも犯す。(ということを、名探偵コナンの映画(船のやつ)で、哀ちゃんが言っていたような)
けれど同時に、感情があるから気づくこともたくさんあるし、罪を罪と誤ちを誤ちと認められるのではないかなとも思う。
そして「かなしみ」があるから、何かを大切に思ったり好きになったり愛することができるのではないかなあ。
なんて、思ったり。

んー、なんとも気づきの多い本だった。
作画の西村ツチカが好きで読んでみたのだが、読んでよかった。目当てだった西村さんの挿絵もたくさんあって、大満足。

最後の場面で出てくる、幽霊「ネム」の由来もぐっとくる、悲しみがいっぱいで、けれど素敵な物語だった。



8月11日(金)

畑の向日葵の野性味が凄くて驚いてるいる。
向日葵は、1本に1輪咲くものかと思っていたら、今回初めて植えてみてビックリ。1本に1輪咲いたら、その後脇からどんどん出てきて、どんどん咲いてくる。
凄いもっさりしている。
まあでも、それだけたくさん向日葵の種が採れるから良いか。


芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』を読む。
「ひょっとこ」を読み終わる。

芥川龍之介の文章が、何故こんなにまで惹き込んでくるのか、分かった気がする。
彼の作品は、何処までも現実的だからなのかもしれない。あえて幻想的にはさせないことで、物語との境目をなくして、入り込ませる。読者を物語の1部として組み込むのが上手いのかもしれない。

橋の上から見ると、川は亜鉛坂(とたんいた)のように、白く日を反射して、時々、通りすぎる川蒸気がその上に眩しい横波の鍍金をかけている。そうして、その滑かな水面を、陽気な太鼓の音、笛の音、三味線の音が虱(しらみ)のようにむず痒く刺している。

そう思ったのは、この場面。
「三味線が虱のようにむず痒く刺している。」
特に、この部分。
本来なら「三味線の音が聴こえる」でも良いはずで、はたまた「三味線の音が揺らしている」(もっといい例えがありそうだが、自分にはこれが限界だった)など、物語らしくあやふやに突き放してもいいと思うのだ。
けれど、芥川龍之介はあえて綺麗なままにはせず、「虱のようにむず痒く」と幻想を壊し現実に突き落としてくる。
もしかしたら『羅生門』の主人公のニキビもその役割なもかも。
なんて、思ったり。
まともに読んだのが短編2作だけだというのに、何知ったかぶりしているんだという話だけど。

この場面の少し前

船は川下から、一二艘ずつ、引き潮の川を上って来る。大抵(ていてい)は天馬に帆木綿の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、艏(みよし)には、旗を立てたり古風な幟(のぼり)を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔っているらしい。幕の間から、お揃いの手拭いを、吉原かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳をうっているのが見える。首をふりながら、苦しそうに何か唄っているのが見える。それが橋の上にいる人間から見ると、滑稽としか思われない。お囃子をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあっ」という哂(わら)い声が起こる。中には「莫迦」と言う声も聞える。

この部分も面白い。
愉快な宴会に誘い込むような、ユーモアさがある。まるで歌のようで、今で言うラップみたい。
本当に上手いなあ。
こんなに乗せといて、急に「虱のようにむず痒く」と突き放すんだもんなあ。現実に引き戻す。この加減に皆まいっていまうのだろうか。

「ひょっとこ」は、仮面を被って踊る男の話で、
なかなかに興味深かった。

しかし面の下にあった平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。

人は皆、ある程度の仮面をつけていると思う。
表面だけでは分からなくて、たとえ笑顔であっても、中身は違ったりする。
だからよくよく見極めなくてはなあといつも思う。
でも仮面をつけるのが悪いという訳でもなく、結局仮面をつけるのは、自分のためもあるけれど、人のためでもある気がする。

物語の仮面は、おそらくもっと後ろ向きなものだと思うけれど。
頭の悪い自分では、芥川龍之介の仮面の意図を正確に読み解くことは出来ない。けれど、色々と考えさせられた。

それにしても、自分では芥川龍之介の良さを全然表現出来ていないな…。
「老年」も「ひょっとこ」も、素晴らしい作品なのに、自分のへぼい文章では全く伝えられないのがもどかしい。
自分は基本的に直感人間だから、それを言葉にして表現するのが苦手なんだよなあ。(それなら何で読書感想文など書いているんだという話だけど)
誰か「老年」か「ひょっとこ」の感想を書いている人いないかなあ。この感覚を上手く表してくれている方はいないだろうか。
芥川龍之介の他の作品も気になるから、今日からパトロール始めようかな。

まだ2作しか読んでいないけれど、芥川龍之介に俄然興味が湧いてしまった。
とりあえず、角川文庫(古い版)の芥川龍之介シリーズ(?)を揃えてみようかな。全部でおそらく7冊で、後6冊。それなら集められそう。
新しい方がもっと揃えやすそうだけれど、表紙が古い版のやつの方が好みなんだよなあ。
天野喜孝という方が書いてるらしく、芥川龍之介の作品にピッタリな気がする。艶美で、見ていると惹き込まれて溶かされるような、味のある絵が素敵。
また古本屋に行かなくてはな。(嫌な予感)



8月12日(土)

藤野可織『ピエタとトランジ』を読み終わる。

狂いが凄かった。
先週読んだ、デイジー・ジョンソン『九月と七月の姉妹』も相当だったけれど、この本の比ではなかった。

物語は主人公たちが高校生の時から始まり、少しずつ成長して、最後は老婆にまで成長する。
けれど周りはどんどんいなくなり、2人だけが残されていく。
それでも2人には何の問題もなく、お互いがお互いがいればいいとう感じ。執着と依存の関係で、だけど、友情や愛情とは少し違う。お互いが好きだから一緒にいるというよりも、自分を保つために一緒にいるという感じがした。
自分が自分であるために。

本当に、一般的な常識はどこへやらという感じだった。
殺人事件が次々起きるものの、かといえミステリーという感じではなく、サスペンスといった感じで、これはどこに向かっているのだろうかとドキドキする。
所々に爆弾があり、これがここに繋がってくるのかという驚きもあって、なんとも気の抜かない小説だった。
兎にも角にも、凄い狂っている、に尽きる話だった。


中国が沖縄を欲しがっているのは、台湾を取るためと聞いた。
昔、台湾を取ろうとした時は、山にこもってしまい失敗した。だから沖縄を取って、山に逃げらないようにすればいいと考えているのだとか。

そもそも何故中国が台湾を欲しがっているのかというと、中国国民の念願というよりかは、トップ1人だけの望みらしい。誰も(中国の誰も)なしえなかったことをして、自分が歴史に名を残す最高の人物であると知らしめるために。

これが実際、何処まで本当か分からない。(台湾と沖縄を取ろうとしているのは事実だけど)
けれどこれが本当だったら、もうどうしようもないなと思ってしまった。
国民のためでも国のためでもない、自分のためにやることに、説得も話し合いも出来るだろうか…。
まあそれでも、諦めたら駄目だよなあ。話し合いを放棄したら、それこそ本当の終わりになってしまう。

そんなことしなくても、中国ではあなたこそ最高の人物ですよとヨイショすれば良いのかな。ヨイショヨイショ。
でも実際、あれほどの広大な国をまとめあげているのだから、それだけで充分凄いことだと思うんだけど。それだけでは駄目なのだろうか。

とりあえず、日本側が仲を悪くしないようにしてほしいなあ。



8月13日(日)


人参の種がいい感じになった。これから種取り。(散らばってるの、少し虫みたいだな…)


ポロポロと取って、集めたら結構採れた。
2~3個分で、瓶にいっぱいになってしまった。まだまだたくさんあるけど、これで充分だな。
凄い採れた。
それにしても1本の人参から2、30個くらいの束が出来るのは凄いな。売れるくらい採れる。
人参、良いな。種採った後の枝?房?もなかなかに可愛い。ドライフラワーみたい。
後は、この種から上手く成ってくれると良いなあ。


森見登美彦『太陽と乙女』を読む。

東京を出た志賀直哉が一時滞在し、『暗夜行路』の人物のモデルになった長屋に、作者(森見登美彦)が訪れた話。

その長屋を出たあと、公園のベンチに腰かけていると、のそのそと猫がやってきた。まことに堂々とした貫禄のある猫だったので、私はその猫をひそかに「尾道の志賀先生」と呼ぶことにした。志賀先生は私のかたわらで丸くなって日なたぼっこをはじめた。こちらを怖がるような素振りはまったく見せない。さすが志賀先生だけのことはある。そういうわけで私はしばらくの間、愛嬌ある志賀先生のとなりでボンヤリと過ごしたのである。
(略)
高畑町の北には春日大社の森が広がっている。(略)これがまた、いかにも煩悩が蒸発してしまいそうな森なのである。「煩悩なくして小説なし!」と胸のうちで呟きながら春の森を抜けていくとき、私は木漏れ日の中に超然と佇んでいる一頭の鹿を見つけた。
すかさず「奈良の志賀先生」と呼ぶことに決めた。

やはりこの人、考え方が面白い。
自分のところにも志賀先生が通りかからないだろうか。
でも鹿は当然としても、今あまり猫も見かけなくなったなあ。野生の猫が減っているのだろうか。はたまた、全く気にしていないせいで、毎度スルーしているのか。
今度から気にするようにしよう。


嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「滝田樗陰」編を読み終わる。

知らない人だなあと思ったら、文豪というよりも、文豪を育てた「中央公論」の編集長だった。
滝田樗陰はかなりの敏腕で、中央公論を押し上げた人物らしい。

何より新人を発掘するのが上手く、室生犀星や佐藤春夫、芥川龍之介を見つけ出したのも彼らしい。そして滝田樗陰が無名ながらも売れると確信し、押し出したからこそ有名作家になったとも書かれていた。
凄い。文豪好きにとっては、なんと有難い存在か。
昔はあまり縁がなかったけれど、最近「中央公論」を良く読む身としては、本当に様様な存在だな。

もしかしたらと思って調べてみたら、やはりあった。

杉森久英『滝田樗陰-『中央公論』名編集者の生涯』

これは絶対面白そう。
室生犀星、芥川龍之介、谷崎潤一郎とのエピソードがあるかなと期待して読んでみようかな。


最近noteで、芥川龍之介の記事をちょこちょこ見ているのだが、「羅生門」「鼻」「河童」「地獄変」「トロッコ」「蜜柑」など、有名なものは多けれど、「老年」や「ひょっとこ」は見つからない。相当マイナーな作品なのだろうか。
まあ有名なものも知らない作品も、興味深いからいいのだけれど。
引き続きパトロールをしていこう。



ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に素敵なことが訪れますよう、祈っております。
ではでは。

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