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檸檬読書日記 俳句には甲子園を、ポーにはお別れを、夏目漱石には愛を。 7月22日-7月28日

7月22日(月)

頭良い人たちの会話って面白い。ずっと見ていたくなる。自分は頭が悪いから全然入っていけないけれど、見ているだけで至福。見れる幸福よ。眺めているだけでニマニマしてしまう。(気持ち悪いな)
もっと会話してくれないかなあ。



森谷明子『春や春』を読む。

父親の影響で俳句好きになった茜は、俳句甲子園に知人が出ていたことを見つける。茜は彼に会うため、俳句を通して友達になったトーコと部を作る。
部に集まってきたのは、俳句は素人ながらもそれぞれに鋭い感性を持っている人達で。
それぞれの個性を生かし俳句甲子園に挑んでいく。

まさに青春。
甲子園、という俳句を闘いにしているからか、俳句自体を楽しむというだけでないのが、闘いのワクワク感があって良かった。
俳句自体の善し悪しだけでなく、相手の俳句をどう詠み解くかの鑑賞点や、批判に対してどう上手く反論するかなども含めて勝敗が決まる。

1人の視点だけでなく、どんどんと変わってはそれぞれに葛藤があって、それがまたドラマを観ているようで引き込まれる。

俳句の魅力は勿論ふんだんにあるけれど、他にも文学、音楽、書道も絡んでいたりするから、1つで2度ならぬ3つも4つも美味しかったりもする。

あまり俳句の知識がなく、今まで俳句の受け止め方が分からなかった。けれどこの本を読んで、少しだけ俳句の楽しみ方が分かった気がする。もっと俳句のことが知りたくなった。
この本、続編なるものもあるようだから、そちらも読みたいなあ。買わねば。


森谷明子といえば、源氏物語も絡んだ紫式部探偵シリーズの最新刊であり完結篇である『源氏供養』が最近出たと知り、飛び上がっている。
このシリーズ好きだから嬉しい。もう完結していて出ないと思っていたから余計に。でもこれで完結かあ、少し残念。でも読むの楽しみ。買いに行かねば。






7月23日(火)


古書店に行ってしまった。
全然本が読めていないのにね。そうです、こういうのをあほうと言うのです。
でも良いのがたくさんあったんだ。欲しかった本が…!

幸田文『父・こんなこと』は、雑誌『&プレミアム』で気になってずっと探していたものだから、もう感激すぎて…。
『雀の手帖』は探していたものではないけど、せっかく出会えたから購入。

渡辺淳一『冬の花火』は、Blueskyで知って欲しかった本。川端康成も引用したことのある歌人・中城ふみ子の話らしく、もう絶対面白いに違いないから手に入れたかった。

柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』は、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』はこの作品に影響を受けたとかなんとか聞いたから、気になっていた。

あとの本も全部欲しかったものだから、見つかって嬉しい。もうウハウハです。



米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む。

山下惣一『食べものはみんな生きていた』の話。


狂牛病や鳥インフルエンザ、食品の偽装表示や遺伝子組み換えなど食の安全を脅かす騒動はあとを絶たない。「農健やかにして食健やか、食健やかにして人健やか」というが、今はその順序が逆にすすんでいる。「そのような食のありようこそが、農を追いつめ、このままなら次世代は『農なき国の食なき民』になりかね」ない。石もコンクリートもパソコンも食べられない。米も野菜も牛も豚も魚も鳥もみんな生き物で、「人間が生きるということは、ほかのものの命をいただくこと」に他ならない。そして、この生き物の命を奪う食の生産現場から遠くかけ離れた生活を送る消費者の無知蒙昧にこそ、現在の危険の根源がある(略)

人は食がなきゃ生きられないのにね。その考えが抜けてきているような。スルッとね。






7月24日(水)


ろく助の塩。
これは本当に良い。干し椎茸、干し貝柱、昆布とかが入っていて、その旨味が凝縮されている。自然な旨み。

塩を使うものなら何に入れても良いし、入れるといつもよりも料理のグレードが上がる。
けれど1番良いのは、米。白米にこの塩をかけると、もう…うまっ。米が止まらなくなる。
塩おむすびって正直どうなのかなあとか、具を入れたいなあとか思ったりもしたけれど、これは本当に具がいらない。塩おむすびってこんなに美味しいのかと感動するし、一層海苔さえもいらないと思う。なんなら、茶碗に米入れて塩をパラパラかけて食べても良いくらい。
これは本当に衝撃的な1品。



エドガー・アラン・ポー『黒猫 ポー傑作選1』を読み終わる。
「跳び蛙」を読み終わる。

冗談好きの王様は、何人もの道化師たちを抱えていた。それら殆どが、低身長症と何か身体に不自由を持つものたちで、王様はそれを笑いものにしていた。
その中の1人に「跳び蛙」という名前の男がいた。彼は足が不自由だが、それを補うように手での運動において優れた才能を盛っていた。しかし決して人気者ではなく。
そんな彼にも友達がいた。人気者のトリペッタという、同じ低身長症の少女。
ある日、2人は王様と7人の大臣に呼ばれる。酒の飲めない「跳び蛙」に酒を無理矢理飲ませ、それを止めようとしたトリペッタの頭に酒を浴びせかけた。
仮面舞踏会のために良い催しを提案しろと言われた「跳び蛙」は、ある提案をする。

1番明快というか、分かりやすかった。ストレートな恐怖。いや、恐怖というか…
人間って怪物や悪魔よりも恐ろしいよなあと。人を人と見ない時の人間って…。だから戦争が出来てしまうのだろうけど。
内容はフィクションでも、背景は事実なだけに何とも言えない気持ちになった。こんなことが実際に起きていたとは…。悪魔って何だろう。

「跳び蛙」は、ずっと屈辱に耐えていた。どんなに笑われても、耐えていた。自分のことなら、何をされても耐えられた。でも…。

んー、上手く書けないけど、複雑な気持ちになる作品だった。人として、史実だったときちんと受け止めなくてはいけないなと思った。

敢えてか分からないけど、この本で上手いなあと思ったのは、編者の人がこの作品を最後に持ってきたということ。
最初の作品『赤き死の仮面』では、仮面舞踏会が開かれる。そして今回の作品『跳び蛙』でも、仮面舞踏会が開かれる。
仮面舞踏会に始まって、仮面舞踏会に終わる。
なんか良いなあと思った。
色んな所を旅をして、戻ってきたような。なんかいい旅だったなという感じを抱かせられた。
上手い。

作品以外にも、せっかくだからと、ポー年譜を読んでみた。
彼の名前「エドガー」は俳優だった両親が『リア王』の登場人物エドガーからとったのではないかとされているらしい。ほぉ。
そしてもう1つ気になったのは、彼がたくさんの人を亡くしているということ。
最初は両親、1歳で父親(これは行方不明ではあるけど)、2歳で母親を亡くしている。22歳で兄を亡くし、25歳では義父の死。その後は若くして結婚した妻にも先立たれている。
ポーの作品は、失うものが多い。死がつきまとい、大概大切な人たちは亡くなっている。または亡くなってしまう。やはり影響が何かしらあったのではないかなあと。
ポーの苦しみや恐怖が、これほどまでに迫ってくるのは…。
そういった背景を思うと、今まで読んだ彼の作品たちが、少しだけ違って見える気がした。

いやぁ、とうとうポーを読み終わってしまった。
どれも良かったなあ。次の2巻、3巻も楽しみ。
でも続けて読むのはもったいないから、次は違うのを少しずつ読んでいこうかな。
んー、何にしよう。



福永武彦『草の花』を読み始める。


私はその百日紅の木に憑かれていた。それは寿康館と呼ばれている広い講堂の背後にある庭の中に、ひとつだけ、ぽつんと立っていた。(略)
それは気味悪く枝々を宙にさらけ出していた。裸の、死んだような、すべすべした枝。私はその側まで魅せられたように近づくと、どうしてもそれを撫でてみないわけには行かなかった。それはまったくすべすべして、赤ん坊の肌のようだった。それでいて、厭らしいように年を取っていた。夏になると、この枝々に幾つもの小さな葉が茂り、そこに百日の間紅い花が簇り咲くなどと、一体どうしたら信じられるか。枝は無意味に、曲がりくねった百の手を天に差出している。それは他の一切のものと、何の関係もなく立っていた。


これが冒頭。
冒頭から引き込んでくる。
心臓を鷲掴みにされた。
なんという巧みな表現力だろう。これ程までに情景を描くのが上手い人、見た事ないかもしれない。

サナトリウムで病気を養っている私は、周りの患者とは違う男・汐見と出会う。彼は死を恐れず、何があっても心を動かすことはなかった。


「君はよくそんなに平気でいられるね、」と私は汐見に言った。
「僕の精神が生きている限りは、」と彼は答えた。「僕という人格は僕のものだよ。」
「大きく出たね。しかしその君の精神とやらは、肉体の泯びることに何の痛手も感じないのかい?」
「肉体は泯びるさ、そんなことは分かっている。分かっているからこそ、僕は僕の精神を大事にしたいのだ。君だってそうだろう。」
「しかし君、肉体が少しずつ参って行くのを見詰めるのは、耐えられないじゃないか。肉体が死んでしまったら精神もへったくれもないんだから。」
「それを見詰めるのが行きていることだ、」と汐見は毅然として言った。


汐見は、自殺行為ともいえる難しい手術を受ける。
そして手術前、彼は私に自分の苦い青春を描いた2冊のノートを手渡す。






7月25日(木)

気圧にやられたー。ぱたり。





7月26日(金)

1日食べなかったら体重ってこんなに減るのか、びっくり。最低を更新してしまった…。スイカは食べたけどほぼ水分だもんなあ。まだお腹空かない。
でもデトックスにはなるからよいかな。毒出し毒出し。本来の断食はもっと長期間だけど、1日でも結構な排出になっている気が、する。

それにしても気圧にはやられっぱなし。悔しい。どうにか勝てるようになりたいなあ。
何も出来ないから退屈なんだよな。本読めないし本読めないし本読めないし…。それが1番つらい。思考は元気なんだけどな。



谷川俊太郎・覚和歌子(能書き)『かっぱ語録』を読む。

谷川俊太郎の詩と、それに対しての覚和歌子の言葉。


私の間違いじゃないあなたの間違いだ
あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ
みんなが間違っていれば誰も気づかない

どう考えても間違いである差別や格差が明るみに出て正されつつあることは時代の進化と言ってもいい。けれど古い基準が変わり、新しい基準が『正しさ』として確立するとき、私たちは間違っていた過去を自分以外のせいにしてしまう。大きな権力を持つ誰かと自分たちとを切り離すという間違いが、戦争という最大の間違いを生んでいる。


死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

太古の昔から数限りなく戦争をくりかえしてきて、無意味な人死にを目の当たりにしてきたにもかかわらず、私たちはまだ何も変えることができない。砲撃の音が聴こえてこなくても、子どもを失った母親の嗚咽を目の当たりにすることがなくても、戦争は海の向こうで起きているのではない。私たちの地球で私たちが起こしている。


表紙は何とも緩いけれど、ハッとさせられる言葉が多かった。両方とも見えているなあというか、きちんと見ているという感じだから、読んでいて言葉が染み込んでくる。






7月27日(土)

今回の『芸術新潮』は舟越桂かぁ。気になる。
本屋で見て良かったら買おうかな。



しばらくテレビは同じのばっかかあ…。ちぇっ。
血まみれが芸術というなら自分には芸術は分からないなあ。
村山槐多の血とは違う。彼は自分の血という感じがする。
そういえば宮廷道化師があったのも。






7月28日(日)


ドリップコーヒーを貰ったらから、珈琲ゼリー作って、コーヒーに入れて飲む。ダブルコーヒー。

ゼリーたっぷり


珈琲ゼリーには甘味を加えなかったけれど、結構苦味がガツンとくるから、甘味を入れた方がより良かったかも。次回あったらそうしよう。



雨がコンスタントに降ってくれて嬉しい。おかげで毎日水やりしなくてもすんでいる。助かる。ありがたやー。
このまま降ったり晴れたりを繰り返してほしいなあ。



石井千湖『文豪たちの友情』を読む。
「夏目漱石と門下生たち」編を読み終わる。

門下生たちの夏目愛が凄い。
小宮豊隆は自分の父親になってくださいと長ーい手紙を送ったり。
内田百閒もまた変わった愛情を持っていた。


(略)漱石の机と同じ寸法の机を誂えたり、鼻毛が植え付けられた原稿用紙をもらったり、先生が相撲を見ることや謡をうたうことを(自分の文学者像に合わないからという理由で)不満に思ったり…。


んー、何だか百間らしい。
夏目漱石は、とにかく愛されている。というか男には異様にモテたようで。そういう人っているよなあ。

エピソードで面白いなと思ったのが、鈴木三重吉の話。


(略)ある日、夏目家にこそ泥が入った。盗まれたものを調べていると、ちょうど机に置いてあった三重吉からの手紙が障子の外までのびている。紙の行き先を追っていったら、畑の中にたどりつき、端っこには大便がたんまりたれてあったのだとか。あまりにも紙が長かったせいか、トイレットペーパー代わりに使われたのだ。


なんという不届き者か。でもちょっと笑ってしまう。

後は芥川龍之介のエピソードも興味深かった。
芥川龍之介と他2人は、自分たちの作品を読んでもらうため、夏目漱石に送ったところ、芥川龍之介宛に感想が届いた。
それは芥川龍之介を励ますもので、この時にもらった言葉「ずんずん御進みなさい」に背中を押された芥川龍之介は、堀辰雄の詩が送られた時、同じように「そのままずんずんお進みなさい」と書いて送ったのだとか。
なんと素敵な話だろう。

夏目漱石の周り、少しはゴタゴタもあったみたいだけれど、全体的にほっこりしていいなぁ。皆の夏目漱石愛が凄く伝わってくる。

『吾輩は猫である』で面白いエピソードもあって、確認したいから、早く読みたいなあ。まずは買わなくては。(これ何回も言っている気がするけど…)





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
毎日毎日暑くて、尚且つ天気も不安定で体調を崩しがちですが、皆様どうかお気をつけください。この夏を無事乗り越えられますよう、祈っております。
ではでは。

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