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檸檬読書日記 川端康成に悩まされています。 2月27日-3月5日

2月27日(月)

長田弘『読書からはじまる』を読み終わる。

読書というのは、実を言うと、本を読むということではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうということです。

読書からはじめて、言葉を見つけていく。
読書の可能性を広げてくれる、今まで知らなかった見方を教えてくれる、そんな本だった。
これからも本を読み続けながら、言葉と付き合っていきたい。


『MONKEY』vol.29を読み始める。
今回のテーマは「天才のB面」。天才たちの違った面を見ていくというものらしい。

最初は『変身』などで有名な不条理な小説の多い、フランツ・カフカのB面。
それは、絵。
話同様に独特な絵も書いていた模様。なんとも味がある作品というか落書きのようなものが、いくつか紹介されていた。
最初から興味深い。


おやつー。
お供の飲み物はチャイ。最近ハマっている。
昔は癖が強くて苦手だったけれど、自分好みにすると結構飲みやすくて、美味しい。
八角なしで、チャイの材料を粉状にしたものをスプーン1杯に、好きな紅茶を入れて、牛乳(または豆乳と牛乳半々)に、甘味は砂糖か蜂蜜、あればジンジャーシロップを入れると、生姜が際立っていい感じになる。
寒い時にはピッタリな飲みものだ。



2月28日(火)

井上真偽『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』を読み始める。

前作『その可能性はすでに考えた』の続編。
青髪オッドアイの探偵が、奇跡証明に挑む話。ゴリゴリのミステリー。

今回は、聖女伝説のある里で毒殺事件が起き、その謎を解くというものらしい。
まだ最初だけど、探偵はまだ出てこない模様。
2作目となると、いつもお馴染みの「その可能性はすでに考えた」というフレーズがいつ出てくるのかとソワソワワクワクしてしまう。
早く出てこないかな。


大高忍『マギ』29巻を読む。

(略)相手を殺せば、俺はまた空虚になってしまう。
憎んだ相手は俺の一部なんだ。
殺してもなかったことにはできない。
むしろ、復讐した数だけ、その間必死に生きていた自分の人格が死んでゆく……
俺はもう、この生き方に甘えて空虚になるわけにはいかない。
(略)生きて、前に進むために。

何故、人は終わった後にしか気づけないのだろう。
失った後にしか気づけないように…。
でも、その時は何を言われても驚くぐらい入ってこないし、響かない。そのことしか見えなくなってしまう…。
その経験をいかして何か言葉を探したいけど、果たしてあるのだろうか。見つけたいなあ。



3月1日(水)

2月の時も言っていた気がするが、もう3月…。
でも2月は特にずっと忙しなくて、あっという間だったな。
不思議なことに忙しない時ほど、掃除とか断捨離とかし始めてしまう…。あれは何なんだろう。自分だけなのかな?
3月は畑が本格化してくるから、今月も忙しなくなりそう。


内田洋子『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』を読み始める。
ヴェネツィアの古本屋から始まる、奇跡のノンフィクション。

古い本たちは馴染んできたヴェネツィアの空気をこれまで通りに吸って吐き、ほどほどの湿り気をまとって、居心地が良さそうである。古びても、生きている。
まるでコンドラのようだ。
木造船であるゴンドラは水路から水路を廻り、暮らしの音や匂い、水を吸い上げ、抱え込み、静かに放ち返す。船には、いくつものヴェネツィアが沁み込んでいる。

うーむ、内田洋子さんの作品ははじめて読んだけれど、なかなかに文章が素敵だな。凄く好み。


中見真理『ジーン・シャープ「独裁体制から民主主義へ」』読み始める。
ジーン・シャープの本から「非暴力闘争」を学ぶ本。



3月2日(木)

内田洋子『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』を読む。

本は書店の細胞だ。頻繁に手入れされているおかげで、店内はいつも瑞々しい雰囲気に包まれている。古本なのに、投げやりだったりくたびれたりしていない。〈読んで!読んで!〉。手に取ってもらうのが待ち切れない様子だ。刷り上がったばかりの本のように生き生きしてる。

言葉のチョイスも絶妙で抜群なんだな。「本は書店の細胞」なんだか凄く良い。


井上真偽『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』を読み終える。

前半からすでに推理合戦が始まって、あと半分という辺りで犯人が分かってしまい、あれ、あと半分はどうなっていくんだ?そもそも探偵は?
となるが、流石は井上さん。後半も凄まじい推理合戦だった。
後半は色んな意味でドキドキさせられつつ、何度もこんな抜け道があったのかと驚愕されっぱなしだった。

相変わらずの個性豊かというか癖の強いキャラクターたちに、お馴染みのフレーズ「その可能性はすでに考えた」が出た瞬間、妙な高揚感で惹き込まれる。
何度も推理が覆さされ、最後の最後まで考え抜かれた、いい意味で気の抜けない楽しい作品だった。
是非とも3作目を出してほしいなあ。

井上真偽といえばドラマ化もされた『探偵が早すぎる』も好きなんだよな。
事件を未然に防ぐという、ミステリーではあまりない設定が面白い。
ドラマも続編の続編出てほしいな。ドラマは小説と違ってコメディー感強めだけど、別物とう感じであれはあれで楽しい。



3月3日(金)

川端康成『少年』を読み始める。
川端康成が出会った少年、清野との話。

何かで誰かが紹介していて(あやふや)それをきっかけに読もうと思った作品。(恩田陸さんのエッセイだったかな?)
川端康成といえば『雪国』や『伊豆の踊子』で有名だけど、自分は未だに未読。そもそもどれとして読んだことがなかった。
にもかかわらず、最初が『少年』って…という気もするが、読んでみてびっくり。なんとまあ文章が匠なことか…!

川端康成といえば、欲しいものがあれば借金をしてまで手にいれるという、美術品の蒐集家という、熱狂的イメージがあったけれど、文章はまるで違った。
繊細で、どこか淡白な感じ。それはいい意味で、文章と作者が距離がある気がする。一人称なのに、三人称のような感じ。(説明が下手だな)

そしてところどころで止まって、考えされられてしまう。

私がやたらに本を買うのを無駄づかいすると人思うが、希望と悲哀とか胸にあるからだという子供らしい抗議を歌っている。私は十四歳である。

「希望」は、分かる気がする。本には様々な知識や閃きが詰まっていて、希望を結晶化したものだと思うから。(言っているのは違うかもしれないけれど…)
でも、はてさて「悲哀」とは?
辞書で調べてみたら

「悲哀」かなしく、あわれなこと・さま

だった。そのままだったし、余計に分からなくなった。
そのせいでずっとぐるぐるしている。悲哀、ひあい、かなしい?

基本的に、本を読んでいて、ん?と思っても、自分はあまり立ち止まらない。のだけど、この本はまだ数十ページだというのに、何度も止めさせられている…。考えさせられて、悩まされる。
そもそもこれを14歳の時に歌っているとは…天才なんじゃないだろうか。(皆知ってる)幼い時から小説家になる才気があったんだなあ。



3月4日(土)

川端康成『少年』を読む。

人間はことごとく悪霊につかれている。
(略)
清野の中学校の友人についている悪霊は神性を備えた狸で、私についている悪霊は狐だそうだ。しかも、なかなか執念深い狐だそうだ。

ちょっと面白い。
ここでも淡々とした語り口調なのが、凄く良い。
それにしても「人間はことごとく悪霊につかれている」というのは、興味深いな。言い得て妙な気がするし、何より「ことごとく」とうのが良い。

ああ、私にゆるされた生命のすべてを燃焼しつくしてみたい。

ああ、自分にゆるされた生命のすべてを燃焼しつくせるような、人生でありたい。
なんて。
燃焼しつくして、カラカラになって、やりきった、生ききったと思って生命を終えられたら、それがきっと最高の終わり方なんだろうな。



3月5日(日)

待って待って待って!(うるさい)
何となしに本の最後、本のリストを見たら『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』という本があるのを発見してしまった!
今ちょうど好きになった人と、少し前に好きになった人の手紙のやりとりが載ってる本なんて…!
最高かな。もう買うしかないではないか。ありがとうございます。(何の感謝だ?)


川端康成『少年』を読み終える。

「私のからだはあなたにあげたはるから、どうなとしなはれ。殺すなと生かすなと勝手だっせ。食いなはるか、飼うときなはるか、ほんまに勝手だっせ。」
昨夜もこんなことを平気で言っていた。
「こないに握ってても、目が覚めたら離れてしもうてまんな。」と、強く私の二の腕を抱いた。
私はいとしくてならなかった。
夜なかに目覚めると清野のおろかしい顔が浮いている。どうしたって肉体の美のないところに私のあこがれはもとめられない。

今朝もほんとうに清野の胸や腕や脣や歯の私の手への感触が可愛くてならなかった。一番私を愛していてくれて、私のなにもかもゆるしてくれるにちがいないのは、この少年であろう。

美術品を愛したからなのか、美への探究心というか拘りというか、そういう強さというのが文章にも出ている気がする。

何よりこの美しさを作りだしているのが、生々しさがないところなんじゃないかな、なんて思ったり。
この本の末尾、宇能鴻一郎のエッセイにも「川端の描く女には体臭がない。(略)本作の少年にも体臭感が皆無だ。」とあって、確かに体臭というか、温度がない気がする。生命を持った生き物とうよりも、温度を持たない骨董品のように感じられる。
それがまた良いのだけれど。
個人的には作者と文章に距離感というか、感情が滲まないものが好きだから、この本はまさにそれで凄くよかった。
他の作品も読んで見たくなった。
今気になっているは
『十六歳の日記』
『川端康成異相短編集』
を読んでみたいな。(また斜め上の作品を攻めようとしている…)
長編より短編やエッセイとかがに気になる。
それにしても、川端康成全集は全35巻なのか。ふーん。無理ですね。これこそ悲哀です。

そういえば、未だに「悲哀」が頭の片隅にある。ずっと悩まさせている。
もしかして、悲哀が胸にあるから、埋めるために買っているということなのだろうか。
うーん。もう少し違うニュアンスもあるような気もするけど…。
むむ、まだまだ悩まされ続けそうだ。


散歩していたら、梅の花を見つけた。
早いなあ。そう言っているうちに、すぐに桜の花が咲くんだろうなあ。早いなあ。

ちょうどいいものを見つけた。

『MONKEY』vol.29
シェリル・マッコール「リャード・ブローティガン、車を運転しないことを語る」
タイトルそのまま、小説家で詩人のリャード・ブローティガンは車を運転しない。という話。

私の一番好きな移動手段は、愛する誰かと一緒に歩くことだ。

素敵だなあ。
好きな誰かと散歩して、自分がいいなと思う景色をすぐに共有できるから、散歩って素晴らしい気がする。
いつまでも、のんびり散歩できて景色を美しいと思えたらいいなあ。


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