八紘一宇と田中智學『日本國體の研究』
田中智學と國柱會
1873年(明治6年)10月14日、大日本帝国が新たに神武天皇即位日を定め直し、「2月11日」を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。
2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅(1833年11月25日~1885年2月5日)が審査して決定した。
1881年(明治14年)4月28日、日蓮(1222年~1282年)の教えを伝える日蓮宗に疑問をもった19歳の田中智學(田中巴之助、1861年12月14日~1939年11月17日)が横浜に、在家信者が日蓮の正しい教えを学ぶ団体「蓮華會(れんげかい)」を設立した。
1884年(明治17年)1月、22歳の田中智學が東京・浅草の正法寺(しょうほうじ)に移り、活動を始めた。
1885年(明治18年)1月、23歳の田中智學が「蓮華會」に代わる「立正安國會(りっしょうあんこくかい)」を設立した。
1914年(大正3年)11月3日、52歳の田中智學が立正安國會に代わる「國柱會(こくちゅうかい)」を設立した。
「國柱」は、日蓮が佐渡流罪中に記した『開目抄』にある三大誓願「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」に由来する。
1915年(大正4年)12月22日、中央公論社が、28歳の嶋中雄作(しまなか・ゆうさく、1887年2月2日~1949年1月17日)が編集長の進歩的な女性向けの読物本位の総合月刊誌『婦人公論』を新年号(1円20銭)で創刊した。
口絵は37歳の鏑木清方(かぶらき・きよかた、1878年8月31日~1972年3月2日)だった。
1919年(大正8年)3月2日~6日、マスクヴァで、「多民界共産党(カムニスティーチェスキ・インテルナツィオーナル)」(「コミンテルン(Komintern)」)創立大会が開かれた。
1919年(大正8年)4月3日、34歳の山本實彦(やまもと・さねひこ、1885年1月5日~1952年7月1日)の創業した出版社の改造社が欧州大戦による連合王国を中心とする戦後世界秩序の大転換を受け、現行の社会道徳規範に飽き足りず、進歩的な道徳規範を求める冒険的な少数新興知識層向けの総合雑誌『改造』を創刊号(60銭)で創刊した。
1920年(大正9年)11月頃、24歳の宮澤賢治(1896年8月27日~1933年9月21日)が國柱會に入会した。
1921年(大正10年)10月21日発行、44歳の北尾日大(きたお・にちだい、1877年6月28日~1946年5月29日)著『日蓮宗法要式』(平楽寺書店、3円50銭)、第一篇「常時法式」、第一「日課信行式」、(三)「要式」、七「囘向(ゑかう)」より引用する(14頁)。
究極の完全な純粋状態の実現という不可能な妄想にとらわれ、原理的に消去不能であるばかりか事実上無害な不純物、異質物すら過剰に恐れる独善的で偏執的な潔癖主義者は一定数いる。
1922年(大正11年)4月23日、60歳の田中巴之助著『日本國體の研究』(天業民報社、2円)が刊行された。
第十四章「八紘一宇」 第百廿九莭「忠孝の延長」より引用する(664~667頁)。
2023年(令和5年)2月28日発行、「朝日新書」、69歳の島田裕巳(しまだ・ひろみ、1953年11月8日~)著『新宗教 戦後政争史』(朝日新聞出版、本体890円)、第3章「法華・日蓮信仰としての新宗教」より引用する(119頁)。
1934年(昭和9年)10月25日、51歳の高村光太郎(1883年3月13日~1956年4月2日)、30歳の宮澤淸六(1904年4月1日~2001年6月12日)、31歳の草野心平(1903年5月12日~1988年11月12日)、36歳の横光利一(よこみつ・りいち、1898年3月17日~1947年12月30日)編輯「宮澤賢治全集」第3巻『作品』(文圃堂書店、2円50銭)が刊行された。
遺稿「銀河鐵道の夜」が初めて公表された。
紀元二千六百年
1935年(昭和10年)10月1日、内閣総理大臣の67歳の岡田啓介(1868年2月14日~ 1952年10月17日)を会長とする「紀元二千六百年祝典準備委員会」が発足し、橿原(かしはら)神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。
1937年(昭和12年)4月24日、34歳の秩父宮雍仁(ちちぶのみや・やすひと、1902年6月25日~1953年1月4日)親王総裁、内閣総理大臣の45歳の近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891年10月12日~1945年12月16日)副総裁、73歳の德川家達(とくがわ・いえさと、1863年8月24日~1940年6月5日)会長の「紀元二千六百年奉祝會」が設立された。
1937年(昭和12年)7月7日、「恩賜財團紀元二千六百年奉祝會」が発足した。
1937年(昭和12年)7月7日、朝鮮総督府警察部警務局外事課長の45歳の相川勝六(1891年12月6日~ 1973年10月3日)が宮崎県知事に就任した。
1937年(昭和12年)7月7日、ホアペイ(華北)に駐屯していた大日本帝国陸軍と中国(チョンクワ)国民党軍が衝突した盧溝橋(ルーコウチャウ)事件が発生した。
7月11日、日本政府は、満洲、朝鮮、日本本土からの援軍派遣を決定した。その後、満洲および朝鮮からの援軍派遣は実施されたが、出兵をめぐって、第一の仮想敵国を評議会同盟とする陸軍内で激しい論争が展開され、本土からの出兵は7月28日まで延期された。
日本軍は月末までにベイピン(北平)とティエンチン(天津)を占領し、国民党軍との戦闘が始まった。
この戦闘を日本では北支事変と呼んだ。
1937年(昭和12年)11月24日、45歳の相川勝六宮崎県知事の発案により、宮崎県が、中等学校、青年学校、小学校、男女青年団の若者たちにより勤労倍化の見本を県民に示す「祖国振興隊」を結成した。
1938年(昭和13年)10月13日、宮崎県県庁3階に、「紀元二千六百年宮崎県奉祝會」「祝典事務局」が置かれた。
1939年(昭和14年)3月にドイチュ人帝界で結成された、ヒットゥラ青年団(Hitler Jugend)の10歳から14歳までの少年の部門は「ドイチュ人年少民族団(Deutsche Jungvolk,DJ)」と呼ばれた。
1939年(昭和14年)9月5日、宮崎県知事だった47歳の相川勝六が広島県知事に就任した。
1939年(昭和14年)12月11日、後任の宮崎県知事の42歳の長谷川透(はせがわ・とおる、1897年4月~1977年6月13日)が八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の正面に刻む37歳の秩父宮の揮毫「八紘一宇」を持って、広島県知事の相川勝六を訪ねた。
1939年(昭和14年)12月12日、相川勝六が厳島神社に参拝の後、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の裏面に刻む文字「紀元二千六百年」を執筆した。
1940年(昭和15年)2月11日に発行された、神武天皇が日本を建国して2600年目の紀元二千六百年記念切手の10銭切手には「鮎と厳瓮(いつべ)」の図柄と「八紘一宇」の標語が赤色で印刷された。
記紀神話によると、ヤマト征服に向かう途中の彦火火出見(ヒコホホデノミコト)(後の神武天皇)は、天香久山(あまのかぐやま)の社の土で厳瓮(酒を入れる容器)を焼き、これを川に沈め、魚が酔って流されるなら、建国の大業は達せられるであろうと予言した上で、厳瓮を沈めると、大小の魚が浮かび上がったので、戦の勝利を確信したとされる。
2銭切手には「金鵄(きんし)」の図柄が黄色で印刷された。
彦火火出見がヤマトの指導者の一人、長髄彦(ナガスネヒコ)と戦っている際に、金色の鵄(トビ)が彦火火出見の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。
大東亜共榮圏
1940年(昭和15年)8月1日、60歳の外相・松岡洋右(まつおか・ようすけ、1880年3月4日~1946年6月27日)が談話で「大東亜共榮圏」の語を用いた。
1940年(昭和15年)9月10日、51歳の陸軍中將・石原莞爾(いしわら・かんじ、1889年1月18日~1949年8月15日)述の政治煽動冊子『最終戰爭論』(立命館出版部、40銭)が刊行された。
2003年6月20日、「講談社現代新書」、小川忠(1959年~)著『原理主義とは何か:アメリカ、中東から日本まで』(講談社、本体720円)が刊行された。
2007年6月20日、「新潮選書」、小川忠著『テロと救済の原理主義』(新潮社、本体1,100円)が刊行された。
2011年3月20日、大田俊寛(おおた・としひろ、1974年~)著『オウム真理教の精神史:ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、本体2,300円)が刊行された。
装丁は芦澤泰偉(あしざわ・たいい、1948年~)だ。
第4章「原理主義:終末への恐怖と欲望」、1「原理主義とは何か」、「「原理主義」概念の起源とその一般化」より引用する(171~172頁)。
1940年(昭和15年)10月1日~11月30日、宮崎郵便局の「日向(ひゅうが)建国博覧会」会場内臨時出張所で、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)に高千穂峯(たかちほのみね)と瑞雲を配した図案の「紀元二千六百年日向建国博覧会記念スタンプ」が押印された。
1940年(昭和15年)10月5日~12月5日、宮崎市の47歳の岩切章太郎(いわきり ・しょうたろう、1893年5月8日~1985年7月16日)会頭の宮崎商工会議所が日本民族の故郷である日向(ひゅうが)を全国に顕揚することを目的とする「日向(ひゅうが)建国博覧会」を開催した。
1940年(昭和15年)11月25日、神武天皇が東遷前の皇居跡と伝わる宮崎市の宮崎神宮の元宮元宮(皇宮屋)「皇宮神社」の北部に、宮崎県奉祝会が中心となり、紀元二千六百年奉祝事業として、日名子実三(ひなご・じつぞう、1892年10月24日~1945年4月25日)設計の高さ36.4mの八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が県内から動員された学徒を中心とする延べ約66,500人の労働により竣工し、落成式典がおこなわれた。
塔の正面に、秩父宮雍仁親王が揮毫した「八紘一宇」の文字が刻まれた。四方に武人である「荒御魂(あらみたま)」、商工人である「和御魂(にぎみたま)」、農耕人である「幸御魂(さちみたま)」、漁人である「奇御魂(くしみたま)」の信楽焼の四神像が配置された。
当時、日本で最も高い建築物だった。
1941年(昭和16年)3月1日、「国民学校令」が公布され、同年4月からそれ以前の小学校が、ドイチュ人帝界で義務教育学校を意味する「民族学校(Volksschule)」に倣って、「皇國ノ道ニ則リテ初等普通敎育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス」「国民学校」に改められた。
国民学校は初等科6年、高等科2年で、ほかに特修科(1年) をおくこともできた。
国民学校初等科の教科は「国民科」(修身・国語・国史・地理)、「理数科」(算数・理科)、「体鍛科」(体操・武道)、「芸能科」(音楽・習字・図画・工作・女子に関しては裁縫)とされた。
國民学校生徒は、「ドイチュ人年少民族団」に倣って、「皇國の年少の民」という意味で「少國民」と呼ばれるようになった。
1942年(昭和17年)10月1日、当時の日本で最も高い山と最も高い建築物を組み合わせた「富士山と八紘之基柱」の図案の4銭切手が発行された。
1943年(昭和18年)3月10日、62歳の高須芳次郎(1880年4月13日~1948年2月2日)著『少國民の國體讀本』(フタバ書院成光館、1円80銭)が刊行された。
六「八紘爲宇(はつこういう)の國是(こくぜ)定まる」より引用する(80~81頁)。
大日本帝国の敗戦と日本国の平和
1945年(昭和20年)9月2日、大日本帝国がアメリカ連合国軍の占領統治下に入った。
1946年(昭和21年)1月12日、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の名称が廃され、「八紘一宇」の碑文と武人の象徴である荒御魂(あらみたま)像が取り除かれた。。塔内部の奉安庫に収納されていた秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去・処分の対象となったが、宮崎県職員によって密かに運び出され、宮崎神宮の倉庫内に隠された。
1946年(昭和21年)5月13日、占領軍(GHQ)の「日本郵便切手及通貨ノ図案ニ就テノ禁止事項ニ関スル件」と題する指令で靖国神社の1円切手や勅額切手等が使用禁止となった。
しかし、それらの例外を除き、軍国主義、神道の象徴の図案の切手が使われていた。
1946年(昭和21年)8月1日、GHQの指導の下、逓信省の発行する郵便切手の国名表示を「大日本帝國郵便」から「日本郵便」に変更し、「民主図案」を採用した新普通切手の第1号として、葛飾北斎(かつしか・ほくさい、1760年~1849年)の富士山の図版画集「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」中の「山下白雨(さんかはくう)」を図案にした1円切手が発行された。
1947年(昭和22年)6月29日、占領の最高責任者、67歳のダグラス・マカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日~1964年4月5日)の意向で、逓信省は軍国主義、国家神道に関わる図案の郵便切手、郵便葉書の発売停止を全国の郵便局に指示した。
発売禁止となった郵便切手、郵便葉書には、乃木希典(のぎ・まれすけ、1849年12月25日~1912年9月13日)大将の2銭切手、東郷平八郎(1848年1月27日~1934年5月30日)元帥の4銭切手、5銭切手、7銭切手、富士山と八紘之基柱の4銭切手が含まれていた。
さらに同年7月23日付の逓信省令でそれらの使用を禁止した。
同年8月31日限りで、該当する切手・葉書に関しては、手持ち分についても全面的に使用を禁止し、使用可能な切手と交換させることになった。
1947年(昭和22年)10月26日に公布された「刑法の一部を改正する法律」で、天皇・太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太孫・皇族・神宮・皇陵に対して不敬の行為をする罪、不敬罪が廃止された。
1952年(昭和27年)4月28日、日本国が領域主権を回復した。
1954年(昭和29年)10月15日~12月5日、宮崎市の宮崎神宮周辺で宮崎県宮崎市県下各市町村主催「南国宮崎産業観光大博覧会」が催された。
八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の名称が「平和の塔」と改められた。
1957年(昭和32年)4月、宮崎県が「八紘台」の名称を通称の「平和台公園」に改めた。
1962年(昭和37年)10月5日、「平和の塔」の宮崎交通が寄贈した荒御魂像が復元された。
1965年(昭和40年)1月30日、「平和の塔」の「八紘一宇」の文字が復元された。
1988年(昭和63年)2月25日、1986年(昭和61年)秋からの『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)の連載小説をまとめた、66歳の寺内大吉(1921年10月6日~2008年9月6日)著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』上・下(毎日新聞社、各1,300円)が刊行された。
1995年(平成7年)7月11日発売の月刊総合誌『中央公論』(中央公論社)8月号(750円)に、69歳の丸谷才一(まるや・さいいち、1925年8月27日~2012年10月13日)と61歳の山崎正和(やまざき・まさかず、1934年3月26日~2020年8月19日)の連載対談「20世紀を読む」4「近代日本と日蓮主義」が掲載された。
寺内大吉著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』をめぐる対談だ。
1996年(平成8年)4月10日、丸谷才一・山崎正和著『二十世紀を読む』(中央公論社、税込み1,500円)が刊行された。
1996年(平成8年)10月18日、「中公文庫」、寺内大吉著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』上・下(中央公論新社、各税込み960円)が刊行された。
1999年(平成11年)12月18日発行、「中公文庫」、丸谷才一・山崎正和著『二十世紀を読む』(中央公論社、本体590円)、「近代日本と日蓮主義」より丸谷の発言を引用する(112~113頁)。
山崎の発言を引用する(125~126頁)。
山崎の発言を引用する(127~128頁)。
2011年(平成23年)4月、「大正大学まんだらライブラリー」12、13、寺内大吉著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』上・下(大正大学出版会、本体各724円)が刊行された。
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