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マオ・ツオトンと中国(チョンクワ)共産党の文化革命

東風とマオ・ツオトン

人物の会話に口語体を用いた庶民向けの小説『三国演義』によると、西暦208年の冬、ハン(漢)の末期、チャンチアン(長江)のチュービー(赤壁)の戦いで、ウー(呉)の武将チョウ・ユ(周瑜、175~211)が火を使ってウェイ(魏)の創始者ツァオ・ツァオ(曹操、155~220)の船団を焼き払う戦略を採用し、すべての準備を整えたが、この季節には常に北西からの風が吹き、火攻めでかえって自分達の水軍に延焼する恐れがあった。
逆方向の東南からの風がなかなか来ない時、シュウ(蜀)の軍師ジューガー・リャン(諸葛亮、181~234)が「欲破曹公、宜用火攻。万事倶備、只欠東風(曹操を破りたければ、火攻めを用いるべきです。準備は万端ですが、東からの風だけが足りません)」の一文を書いて見せた。
ジューガー・コンミンが祈祷すると、東南からの風が吹き始めたという。
「万事倶備、只欠東風」の成句は「準備万端だが、肝心のものが足りない」の意味で使われる。

1912年(大正元年)6月、「新譯漢文叢書」第十二編、久保天随(くぼ・てんずい、1875年7月23日~1934年6月1日)譯補『新譯演義三國志』上(至誠堂書店、1円20銭)が刊行された。
チン(清)代(1636~1912)のマオ・ツォンガン(毛宗崗、1632年~1709年)本の全訳だ。

1912年(大正元年)10月8日、「新譯漢文叢書」第十三編、久保天随譯補『新譯演義三國志』下(至誠堂書店)が刊行された。

1932年(昭和7年)、マスクヴァで、シェロコヴァ(Широкова)、ヤンコフスキ(Янковский)編『弁証法的物質主義』第1冊Материалистическая диалектика(Партийное издательство)が刊行された。

1932年(昭和7年)3月、イー・シロコフほか著、35歳の廣島定吉(1896年9月22日~1964年9月17日)、35歳の直井武夫(1897年1月3日~1990年8月22日)共譯『「辯證法的唯物論」敎程ソヴェート黨學校及共産主義高等専門學校用敎科』(白揚社、1円20銭)が刊行された。

1932年(昭和7年)9月、シャンハイ(上海)で、41歳のリー・ダー(李達、1890年10月2日~1966年8月24日)、学生のライ・チョンチェン(雷仲堅)による漢語訳『辯證法唯物論教程』(筆耕堂書店)が刊行された。日本語からの重訳だ。

1933年(昭和8年)5月、シロコフヤンコフスキー編輯 、大野勤稲葉明男共譯『唯物辯證法敎程(上)』(白揚社、1円)が刊行された。

1935年(昭和10年)5月、シロコフヤンコフスキー編輯 、29歳の早川二郎(1906年2月22日~1937年11月8日)、大野勤共譯『唯物辯證法敎科書』(白揚社)が刊行された。

1936年(昭和11年)11月から1937年(昭和12年)4月にかけて、イェンアン(延安)のフェンファン(鳳凰)山麓で43歳のマオ・ツオトン(毛沢東、1893年12月26日~1976年9月9日)は漢語訳の『辯證法唯物論教程』を学習し、1937年(昭和12年)1月から8月にかけて、第2期抗日軍政大学でその内容を漢語で講義した。
実践論」の部分は7月、「矛盾論」の部分は8月に講義された。

1937年(昭和12年)7月7日、ホアペイ(華北)に駐屯していた大日本帝国陸軍中国(チョンクワ)国民党軍が衝突した盧溝橋(ルーコウチャウ)事件が発生した。 
7月11日、日本政府は、満洲、朝鮮、日本本土からの援軍派遣を決定した。その後、満洲および朝鮮からの援軍派遣は実施されたが、出兵をめぐって、第一の仮想敵国を評議会同盟とする陸軍内で激しい論争が展開され、本土からの出兵は7月28日まで延期された。
日本軍は月末までにベイピン(北平)とティエンチン(天津)を占領し、国民党軍との戦闘が始まった。
この戦闘を日本では北支事変と呼んだ。

1937年(昭和12年)11月29日、マスクヴァにいた、多民界共産党(コミンテルン)の支部の中国共産党の理論的指導者の33歳のワン・ミン(王明、1904年4月9日~1974年3月27日)、39歳のカン・ション(康生、1898年11月4日~1975年12月16日)、32歳のチェン・ユン(陳雲、1905年6月13日~1995年4月10日)が飛行機でイェン・アン(延安)に着いた。

ワン・ミン(王明)と43歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の権力闘争が始まった。
評議会同盟の最高指導者の58歳のヨシフ・スターリン(1878年12月18日~1953年3月5日)、多民界共産党(コミンテルン)書記長の56歳のゲオルギ・ディミトロフ(1882年6月18日~1949年7月2日)が支持していたのはマオ・ツオトン(毛沢東)だった。

1937年(昭和12年)12月13日、大日本帝国軍中華民国の首都ナンキン(南京)を占拠した。

1938年(昭和13年)7月、マスクヴァで、多民界共産党(コミンテルン)書記長の56歳のゲオルギ・ディミトロフが、中国共産党の31歳のワン・チアシアン(王稼祥、1906年8月15日~1974年1月25日)に口頭で、44歳のマオ・ツオトン(毛沢東)を中国共産党の最高指導者とするよう指示し、さらに、中国共産党指導者の権威を高めるようにという59歳のスターリンの指示をも伝えた。

1938年(昭和13年)9月14日、中国共産党解放区のイェンアン(延安)で開かれた中国共産党中央政治局会議で、32歳のワン・チアシアン(王稼祥)がディミトロフの指示を伝えた。

1938年(昭和13年)10月1日、評議会同盟で『評議会同盟共産党(ボルシュヴィキ)の歴史』История Всесоюзной коммунистической партии (большевиков). Краткий курс(ОГИЗ)600万部が刊行された。
同書の第4章に、評議会同盟の最高指導者、59歳のスターリン著『弁証法的・歴史的物質主義について』О диалектическом и историческом материализмеが組み込まれた。

1938年(昭和13年)10月、イェンアン(延安)で55人が参加して開かれた中国共産党第6期中央委員会第6回全体会議(9月29日~11月6日)で、44歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が書記処主席として中国共産党の最高指導者となり、彼の唱えたマークス主義の中国化が党の基本方針となった。

1938年(昭和13年)11月20日、44歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が24歳のジャン・チン(江青、1914年3月5日~1991年5月14日)と結婚した。

1939年(昭和14年)8月26日、経済新聞『中外商業新報』で、47歳の吉川英治(1892年8月11日~1962年9月7日)著、48歳の矢野橋村(やの・きょうそん、1890年9月8日~1965年4月17日)挿絵の長篇小説『三國志』の連載が始まった。

ミン(明)代(1366~1644)のリー・ジュオウー(李卓吾、1527年11月19日~1602年5月7日)本を底本とした翻訳、1692年頃刊行された、湖南文山訳『通俗三國志』を下敷きとし、少年時代に愛読した『新譯演義三國志』をも参照した。

ツァオ・ツァオ(曹操)とジューガー・リャン(諸葛亮)を中心に置いた人物描写は日本人向けに脚色され、これが現代日本語の三国物語に大きな影響を与えた。

1940年(昭和15年)5月30日、吉川英治著『三國志巻の一(大日本雄弁会講談社、1円20銭)が刊行された。
装幀は48歳の恩地孝四郎(1891年7月2日~1955年6月3日)だ。

1941年(昭和16年)5月16日、47歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が指導する中国(チョンクワ)共産党解放区のイェンアン(延安)で、中国(チョンクワ)共産党の日刊紙『解放日報』が創刊された。

1943年(昭和18年)3月20日、イェンアン(延安)で、49歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が中国共産党中央政治局主席兼中央書記処主席に就任して中国共産党の独裁者となった。
38歳のワン・ミン(王明)は失脚した。

1943年(昭和18年)5月15日、64歳のスターリン多民界共産党(コミンテルン)を解散した。

1943年(昭和18年)7月4日、『解放日報』に、36歳のワン・チアシアン(王稼祥)が「中国共産党が中国民族を解放する道を与える(中国共産党与中国民族解放的道路)」を発表し、中国的マークス主義は49歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の「マオ・ツオトン(毛沢東)思想」だとした。

1943年(昭和18年)9月5日、『中外商業新報』の51歳の吉川英治著『三國志』の連載が終わった。

1945年(昭和20年)4月23日~6月11日、イェンアン(延安)で、中国共産党第7期全国代表大会が開かれた。
マークス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を通して統一した思想であるマオ・ツオトン(毛沢東)思想を党の指導方針として党規約に盛り込んだ。

1945年(昭和20年)9月10日、中国(チョンクワ)国民党およびチョンホア(中華)民国国民政府率いる国民革命軍中国(チョンクワ)共産党率いる中国(チョンクワ)工農紅軍との内戦が再開した。
この内戦の死者は150万人を越えた。

1945年(昭和20年)10月15日、国民革命軍台湾(タイワン)島に進駐した。

1945年(昭和20年)10月25日、タイワン(台湾)島のタイペイ(台北)で大日本帝国の61歳の安藤利吉(1884年4月3日~ 1946年4月19日)台湾総督兼第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華(チョンホア)民国が台湾島の実効支配を開始した。

1946年(昭和21年)5月15日~1948年6月14日、フーペイ(河北)省ピンシャン(平山)県の中国(チョンクワ)共産党フーペイ(河北)省中央局が日刊機関紙『人民日報』全746号を発行した。

1946年(昭和21年)6月26日、アメリカ連合軍の全面的な支援を受けた58歳のチャン・チェシー(蔣介石、1887年10月31日~1975年4月5日)が中国(チョンクワ)国民党中国(チョンクワ)共産党解放区への進撃を命令し、内戦が再開した。

1946年(昭和21年)9月10日、吉川英治著『三國志巻の十四(大日本雄弁会講談社、15円)が刊行された。

1947年(昭和22年)3月24日、中国(チョンクワ)共産党中国(チョンクワ)解放区抗日軍中国(チョンクワ)人民解放軍に改称した。

1948年(昭和23年)6月15日、フーペイ(河北)省ピンシャン(平山)県で中国(チョンクワ)共産党中央委員会の日刊機関紙『人民日報』が創刊された。

1949年(昭和24年)3月15日、『人民日報』発行所がペイピン(北平)に移転した。

1949年(昭和24年)10月1日、生産労働に従事せず安定した経済的・社会的特権に恵まれ、経験的実用知識とかけ離れた体系的総合知識を共有して結託し、工場労働者・農民階級を搾取する都市定住民知識階級を敵視する55歳のマオ・ツオトンがベイジン(北京)のティエンアン(天安)門の壇上に立ち、中国(チョンクワ)共産党の一党独裁の中華(チョンホア)人民共和国の建国を宣言し、自ら中央人民政府主席に就任した。

1949年(昭和24年)12月7日、中国(チョンクワ)国民党の一党独裁の中華(チョンホア)民国政府が、首都を中国(チョンクワ)共産党に実効支配されたナンキン(南京)から、臨時首都としてタイワン(台湾)島のタイペイ(台北)に移転した。

1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮半島で、56歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の許可を得ることを条件に、評議会同盟の最高指導者71歳のヨシフ・スターリンの許可を得たチョウサン(朝鮮)民主主義人民共和国チョウサン人民軍テハン民国に侵攻し、戦争が勃発した。

1950年(昭和25年)10月8日、中国共産党中央軍事委員会主席の56歳のマオ・ツオトン(毛沢東 )命令で「中国(チョンクワ)人民志願軍」が設立された。
その多くは台湾(タイワン)島に逃げられず、中国共産党に帰順した旧国民政府軍だった。

1950年(昭和25年)10月13日、中華(チョンホア)人民共和国朝鮮戦争への参戦を正式に決定した。

1950年(昭和25年)10月25日、ヤールー川(鴨緑江)の南部で、「中国(チョンクワ)人民志願軍」がテハン民国軍と交戦した。

1950年(昭和25年)12月1日、中華(チョンホア)人民共和国の国営出版社として人民出版社が再建された。

1950年(昭和25年)12月29日、『人民日報』に、マオ・ツオトン(毛沢東)著「実践論」が掲載された。

1951年(昭和26年)10月12日、人民出版社から『マオ・ツオトン(毛沢東)選集』第1巻「1925年~1937年」が刊行された。

1952年(昭和27年)2月、京都で、毛澤東選集刊行会編譯『毛澤東選集』第1巻『第一次国内革命戰爭の時期』(三一書房、280円)が刊行された。

1952年(昭和27年)3月、京都で、毛澤東選集刊行会編譯『毛澤東選集』第2巻『第二次国内革命戰爭の時期』(三一書房、280円)が刊行された。
實践論」が収められた。

1952年(昭和27年)4月1日、『人民日報』に、マオ・ツオトン(毛沢東)著「矛盾論」が掲載された。

1952年(昭和27年)4月10日、人民出版社から『マオ・ツオトン(毛沢東)選集』第2巻「抗日戦争の時期(上)」が刊行された。「矛盾論」が収められた。

1952年(昭和27年)4月28日、日本国が再独立した。
日本国中華(チョンホア)中華民国との国交が回復した。

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