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八紘一宇と田中智學『日本國體の研究』
田中智學と國柱會
1873年(明治6年)10月14日、大日本帝国が新たに神武天皇即位日を定め直し、「2月11日」を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。
2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅(1833年11月25日~1885年2月5日)が審査して決定した。
1881年(明治14年)4月28日、日蓮(1222年~1282年)の教えを伝える日蓮宗に疑問をもった19歳の田中智學(田中巴之助、1861年12月14日~1939年11月17日)が横浜に、在家信者が日蓮の正しい教えを学ぶ団体「蓮華會(れんげかい)」を設立した。
1884年(明治17年)1月、22歳の田中智學が東京・浅草の正法寺(しょうほうじ)に移り、活動を始めた。
1885年(明治18年)1月、23歳の田中智學が「蓮華會」に代わる「立正安國會(りっしょうあんこくかい)」を設立した。
1914年(大正3年)11月3日、52歳の田中智學が立正安國會に代わる「國柱會(こくちゅうかい)」を設立した。
「國柱」は、日蓮が佐渡流罪中に記した『開目抄』にある三大誓願「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」に由来する。
1915年(大正4年)12月22日、中央公論社が、28歳の嶋中雄作(しまなか・ゆうさく、1887年2月2日~1949年1月17日)が編集長の進歩的な女性向けの読物本位の総合月刊誌『婦人公論』を新年号(1円20銭)で創刊した。
口絵は37歳の鏑木清方(かぶらき・きよかた、1878年8月31日~1972年3月2日)だった。
1919年(大正8年)3月2日~6日、マスクヴァで、「多民界共産党(カムニスティーチェスキ・インテルナツィオーナル)」(「コミンテルン(Komintern)」)創立大会が開かれた。
1919年(大正8年)4月3日、34歳の山本實彦(やまもと・さねひこ、1885年1月5日~1952年7月1日)の創業した出版社の改造社が欧州大戦による連合王国を中心とする戦後世界秩序の大転換を受け、現行の社会道徳規範に飽き足りず、進歩的な道徳規範を求める冒険的な少数新興知識層向けの総合雑誌『改造』を創刊号(60銭)で創刊した。
1920年(大正9年)11月頃、24歳の宮澤賢治(1896年8月27日~1933年9月21日)が國柱會に入会した。
1921年(大正10年)10月21日発行、44歳の北尾日大(きたお・にちだい、1877年6月28日~1946年5月29日)著『日蓮宗法要式』(平楽寺書店、3円50銭)、第一篇「常時法式」、第一「日課信行式」、(三)「要式」、七「囘向(ゑかう)」より引用する(14頁)。
本法開顕一大事因縁の逐ふ所、本化眞應の妙土大日本神國に於て、閻浮同歸の大戒壇建立成就の暁を期し、生々世々の誓願、専ら先づ日本國土上下同和、皇運國威隆大正明にして德化六合に及び、遂に世界萬國齊しく茲妙土と眞法とに歸向して、通一佛土の妙相を現せんことを憶念するのみ。
究極の完全な純粋状態の実現という不可能な妄想にとらわれ、原理的に消去不能であるばかりか事実上無害な不純物、異質物すら過剰に恐れる独善的で偏執的な潔癖主義者は一定数いる。
1922年(大正11年)4月23日、60歳の田中巴之助著『日本國體の研究』(天業民報社、2円)が刊行された。
第十四章「八紘一宇」 第百廿九莭「忠孝の延長」より引用する(664~667頁)。
「人類一如」といへばとて、人種も風俗もノベラに一つにするといふのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、國家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を發揮し、粲然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨歸する、それが爰にいふ統一である。
であるから、その意義を間違へざる爲め、特に
「道義的世界統一」
の名で區別して、世にありふれた惡侵略的世界統一と一つに思はれない樣にしてある。
「養生」を骨とし、「重暉」を肉とし、「積慶」を皮とした「日本国體」が、人間性情の上に何と映出するかといふと、それは個人の修束と社會的攝理の上に、忠孝として顕はれて民性となつて居る、即ち「日本国體」の性情化したものである。時に忠孝を国體と呼ぶこともある、それは「因中説果」の格で言つたのである。
忠孝といふものは、「日本国體」のあらはれである、そうして其れが又人間一切の道德の中心であり、根原である、愛でも義でもこの忠孝の洗禮を受けたのでなければ、その道德は無根據である、忠孝は国體の精華として光發して居る、忠孝の觀念は、直ちに眞理の實行面的發動である、忠孝は活きた眞理である。人間迷悟善惡の堺は、それの有ると無しで定まる、忠孝は良き人間の都てゞある、同時に良き國家の表現である、忠孝のない、若しくはその意識を缺いた、或ひはその本源に觸れない人や國は、倶に病める人及び國である、忠孝を舊い道德である樣に考えへて居るのは、忠孝を能く知らないからである、詳しい話はあとでするが、先づ一わたり忠孝とは日本国體の性情化して民族精神となツたものであるといふことだけを合點して置く必要がある、即ち忠孝を觀念としたものが思想、それを實行するのが道德として、扨て人間の一切はこれを根本中心とするものだといふ主義を、國の精神として、すべてをこの立場に置く萬事をこの標準で决して行かうといふのが、道義的統一の大方針である、世界人類を還元し整一する目安として忠孝を世界的に宣傳する、あらゆる片々道學を一蹴して、人類を忠孝化する使命が日本國民の天職である、その源頭は堂々たる人類一如の正觀から發して光輝燦爛たる大文明である、これで行り遂げようといふ世界統一だ、故に之を「八紘一宇」と宣言されて、忠孝の擴充を豫想されての結論が、世界は一つ家だといふ意義に歸する、所謂「忠孝の延長」である、忠孝を一人一家の道德だと解して居るうちは、忠も孝も根本的意義を爲さない、「根なし草」の水に浮べる風情である、忠孝を以て人生の根本義とするところに日本建國の性命はある。それが世界的發見たる法華經から裏書されて、「日本国體」の内容が純眞純正の大道であることを見出した、それが「法華開顕」の「王法佛法冥合一體」の大化導となつて、本化の使命が、日本の使命と包合して、三秘開顕の国體觀は明晰に世界的大文化の中心となつたのである。
「閻浮同歸」といふことを、俗諦譯したのが「八紘一宇」である、
「閻浮同歸」は妙法から反映した地上の結論である、
「八紘一宇」は養生から反響した永久の使命である、淺露偏見に慣れた頭から、「八紘一宇」や「六合一都」の言を、單の形容であつて、そんな事々しい内容を有つたものでないなど速斷し、小規模な部落を總稱して八紘とか六合とか言つたものであらうぐらゐに考へるものがあるやも知れないがそれは古人の言つた『卑劣のものは之を卑劣にし高尚のものは之を高尚にす』といふ場であらう、
「八紘一宇」は何から響いて來たかといふと、上に宣言された「養生」からの響きである、正義公道といふものは、世界的宇宙的のものであつて、决して部落的のものでない、それから來る響だから、ヤハリ世界的宇宙的の音がする筈ではないか、銅の鈴は銅の音がする、銀の鈴は銀の音金の鈴は金の音がする、無外の大道たる「養生」の大道品から割出した「八紘一宇」だ、嚴粛にして公明なる道義的世界統一でなくて何としよう、國は小さいが質が神聖なのだから、遠慮なく本然の價値を高唱するが宣い、堂々と考察するが可い、そこに世界の光はある。
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2023年(令和5年)2月28日発行、「朝日新書」、69歳の島田裕巳(しまだ・ひろみ、1953年11月8日~)著『新宗教 戦後政争史』(朝日新聞出版、本体890円)、第3章「法華・日蓮信仰としての新宗教」より引用する(119頁)。
日本には八紘一宇の精神に従って世界を統一する義務があるが、それは忠孝といった道徳的な意義にもとづくものであるから、悪侵略的世界統一にはあたらないというのである。
八紘一宇ということばは、『日本書紀』にある「掩八紘而爲宇」に由来する。それは、『日本書紀』の神武天皇の即位前紀未年三月の条にあるもので、「八紘を掩ひて宇と爲む」と読み下しされる。八紘は、中国の思想書『淮南子』地形訓に出てくるもので、地の果てを意味し、それから転じて天下、全世界を意味するものとなった。したがって、「掩八紘而爲宇」は、世界全体をおおって一つの家にするという意味になる。
智學において、日蓮に対する信仰はこうして国体論へと発展していった。日蓮自身は、天皇という存在を必ずしも重要視してはいなかった。ところが、日蓮の生きた鎌倉時代とは異なり、明治の社会における天皇は最高権力者に祀り上げられた。智學はそれを踏まえ、天皇を『三大秘法抄』で言及された賢王としてとらえたのだ。
1934年(昭和9年)10月25日、51歳の高村光太郎(1883年3月13日~1956年4月2日)、30歳の宮澤淸六(1904年4月1日~2001年6月12日)、31歳の草野心平(1903年5月12日~1988年11月12日)、36歳の横光利一(よこみつ・りいち、1898年3月17日~1947年12月30日)編輯「宮澤賢治全集」第3巻『作品』(文圃堂書店、2円50銭)が刊行された。
遺稿「銀河鐵道の夜」が初めて公表された。
紀元二千六百年
1935年(昭和10年)10月1日、内閣総理大臣の67歳の岡田啓介(1868年2月14日~ 1952年10月17日)を会長とする「紀元二千六百年祝典準備委員会」が発足し、橿原(かしはら)神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。
1937年(昭和12年)4月24日、34歳の秩父宮雍仁(ちちぶのみや・やすひと、1902年6月25日~1953年1月4日)親王総裁、内閣総理大臣の45歳の近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891年10月12日~1945年12月16日)副総裁、73歳の德川家達(とくがわ・いえさと、1863年8月24日~1940年6月5日)会長の「紀元二千六百年奉祝會」が設立された。
1937年(昭和12年)7月7日、「恩賜財團紀元二千六百年奉祝會」が発足した。
1937年(昭和12年)7月7日、朝鮮総督府警察部警務局外事課長の45歳の相川勝六(1891年12月6日~ 1973年10月3日)が宮崎県知事に就任した。
1937年(昭和12年)7月7日、ホアペイ(華北)に駐屯していた大日本帝国陸軍と中国(チョンクワ)国民党軍が衝突した盧溝橋(ルーコウチャウ)事件が発生した。
7月11日、日本政府は、満洲、朝鮮、日本本土からの援軍派遣を決定した。その後、満洲および朝鮮からの援軍派遣は実施されたが、出兵をめぐって、第一の仮想敵国を評議会同盟とする陸軍内で激しい論争が展開され、本土からの出兵は7月28日まで延期された。
日本軍は月末までにベイピン(北平)とティエンチン(天津)を占領し、国民党軍との戦闘が始まった。
この戦闘を日本では北支事変と呼んだ。
1937年(昭和12年)11月24日、45歳の相川勝六宮崎県知事の発案により、宮崎県が、中等学校、青年学校、小学校、男女青年団の若者たちにより勤労倍化の見本を県民に示す「祖国振興隊」を結成した。
1938年(昭和13年)10月13日、宮崎県県庁3階に、「紀元二千六百年宮崎県奉祝會」「祝典事務局」が置かれた。
1939年(昭和14年)3月にドイチュ人帝界で結成された、ヒットゥラ青年団(Hitler Jugend)の10歳から14歳までの少年の部門は「ドイチュ人年少民族団(Deutsche Jungvolk,DJ)」と呼ばれた。
1939年(昭和14年)9月5日、宮崎県知事だった47歳の相川勝六が広島県知事に就任した。
1939年(昭和14年)12月11日、後任の宮崎県知事の42歳の長谷川透(はせがわ・とおる、1897年4月~1977年6月13日)が八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の正面に刻む37歳の秩父宮の揮毫「八紘一宇」を持って、広島県知事の相川勝六を訪ねた。
1939年(昭和14年)12月12日、相川勝六が厳島神社に参拝の後、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の裏面に刻む文字「紀元二千六百年」を執筆した。
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1940年(昭和15年)2月11日に発行された、神武天皇が日本を建国して2600年目の紀元二千六百年記念切手の10銭切手には「鮎と厳瓮(いつべ)」の図柄と「八紘一宇」の標語が赤色で印刷された。
記紀神話によると、ヤマト征服に向かう途中の彦火火出見(ヒコホホデノミコト)(後の神武天皇)は、天香久山(あまのかぐやま)の社の土で厳瓮(酒を入れる容器)を焼き、これを川に沈め、魚が酔って流されるなら、建国の大業は達せられるであろうと予言した上で、厳瓮を沈めると、大小の魚が浮かび上がったので、戦の勝利を確信したとされる。
2銭切手には「金鵄(きんし)」の図柄が黄色で印刷された。
彦火火出見がヤマトの指導者の一人、長髄彦(ナガスネヒコ)と戦っている際に、金色の鵄(トビ)が彦火火出見の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。
大東亜共榮圏
1940年(昭和15年)8月1日、60歳の外相・松岡洋右(まつおか・ようすけ、1880年3月4日~1946年6月27日)が談話で「大東亜共榮圏」の語を用いた。
1940年(昭和15年)9月10日、51歳の陸軍中將・石原莞爾(いしわら・かんじ、1889年1月18日~1949年8月15日)述の政治煽動冊子『最終戰爭論』(立命館出版部、40銭)が刊行された。
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2003年6月20日、「講談社現代新書」、小川忠(1959年~)著『原理主義とは何か:アメリカ、中東から日本まで』(講談社、本体720円)が刊行された。
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2007年6月20日、「新潮選書」、小川忠著『テロと救済の原理主義』(新潮社、本体1,100円)が刊行された。
2011年3月20日、大田俊寛(おおた・としひろ、1974年~)著『オウム真理教の精神史:ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、本体2,300円)が刊行された。
装丁は芦澤泰偉(あしざわ・たいい、1948年~)だ。
第4章「原理主義:終末への恐怖と欲望」、1「原理主義とは何か」、「「原理主義」概念の起源とその一般化」より引用する(171~172頁)。
このように原理主義とは、狭義においては、二〇世紀に現れたキリスト教の一宗派を指す概念であるが、その特徴を一般化することにより、キリスト教以外の宗教に見られる現象にも応用することが可能であると考えられる。すなわち原理主義においては、特定の文書が聖典として絶対視され、近代社会の諸原則は宗教的聖典の重要性に劣る二次的なもの、あるいはそれに反するものとして退けられる。世俗国家が主権性を掌握している現在の世界秩序は誤ったものであり、不可避的に破局に直面するか、善の勢力と悪の勢力のあいだに勃発する「最終戦争」により、いずれ終焉を迎える。そしてその後には、神が主権性が[ママ]掌握する神権的な国家が登場し、終末を生き延びた善なる者たちがそこに住まうことになる――以上のような要素が、原理主義という思想の論理的骨格となる。箇条書きで列挙すれば、(1)聖典の絶対視、(2)善悪二元論的な世界観、(3)終末論、(4)神権政治的ユートピア思想、といったものが、原理主義の主な要素と見なしうるだろう。
キリスト教以外にどのような宗教の形態が原理主義的と考えられるのかについては、小川忠の著作である『原理主義とは何か』や『テロと救済の原理主義』を参照していただきたいが、一例を挙げれば、小川は日本仏教のなかの日蓮宗、特に近代以降の日蓮主義の運動を、原理主義的なものの一つと見なしている。日蓮は『立正安国論』において『法華経』の至上性を主張し、その教えを護持すれば国家は安泰となるが、これを軽んじれば内乱や侵略などのさまざまな災厄が招来されるということを論じた。日蓮のこういた思考法は、近代の日蓮主義においていっそう拡大される。日蓮主義とは、田中智学(一八六一~一九三九)によって主唱された在俗信徒による仏教運動であり、田中の教えに深く心酔した軍人の石原莞爾(一八八九~一九四九)は、近く「最終戦争」が勃発するということを予測した(『最終戦争論』として一九四二年に公刊)。石原によれば、世界はやがて、八紘一宇という道義的な絆によって結ばれた東亜連盟(「王道」)と、軍事的覇権を掌握したアメリカ(「覇道」)によって二分され、両勢力によって最終戦争が行われる。その戦争に勝利して、世界を道義的な絆によって統一し、「王道楽土」を実現することこそが、日蓮主義の究極的な目標とされるのである。
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1940年(昭和15年)10月1日~11月30日、宮崎郵便局の「日向(ひゅうが)建国博覧会」会場内臨時出張所で、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)に高千穂峯(たかちほのみね)と瑞雲を配した図案の「紀元二千六百年日向建国博覧会記念スタンプ」が押印された。
1940年(昭和15年)10月5日~12月5日、宮崎市の47歳の岩切章太郎(いわきり ・しょうたろう、1893年5月8日~1985年7月16日)会頭の宮崎商工会議所が日本民族の故郷である日向(ひゅうが)を全国に顕揚することを目的とする「日向(ひゅうが)建国博覧会」を開催した。
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1940年(昭和15年)11月25日、神武天皇が東遷前の皇居跡と伝わる宮崎市の宮崎神宮の元宮元宮(皇宮屋)「皇宮神社」の北部に、宮崎県奉祝会が中心となり、紀元二千六百年奉祝事業として、日名子実三(ひなご・じつぞう、1892年10月24日~1945年4月25日)設計の高さ36.4mの八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が県内から動員された学徒を中心とする延べ約66,500人の労働により竣工し、落成式典がおこなわれた。
塔の正面に、秩父宮雍仁親王が揮毫した「八紘一宇」の文字が刻まれた。四方に武人である「荒御魂(あらみたま)」、商工人である「和御魂(にぎみたま)」、農耕人である「幸御魂(さちみたま)」、漁人である「奇御魂(くしみたま)」の信楽焼の四神像が配置された。
当時、日本で最も高い建築物だった。
1941年(昭和16年)3月1日、「国民学校令」が公布され、同年4月からそれ以前の小学校が、ドイチュ人帝界で義務教育学校を意味する「民族学校(Volksschule)」に倣って、「皇國ノ道ニ則リテ初等普通敎育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス」「国民学校」に改められた。
国民学校は初等科6年、高等科2年で、ほかに特修科(1年) をおくこともできた。
国民学校初等科の教科は「国民科」(修身・国語・国史・地理)、「理数科」(算数・理科)、「体鍛科」(体操・武道)、「芸能科」(音楽・習字・図画・工作・女子に関しては裁縫)とされた。
國民学校生徒は、「ドイチュ人年少民族団」に倣って、「皇國の年少の民」という意味で「少國民」と呼ばれるようになった。
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1942年(昭和17年)10月1日、当時の日本で最も高い山と最も高い建築物を組み合わせた「富士山と八紘之基柱」の図案の4銭切手が発行された。
1943年(昭和18年)3月10日、62歳の高須芳次郎(1880年4月13日~1948年2月2日)著『少國民の國體讀本』(フタバ書院成光館、1円80銭)が刊行された。
六「八紘爲宇(はつこういう)の國是(こくぜ)定まる」より引用する(80~81頁)。
紀元元年二月十一日に、神武天皇は大和の畝傍山の南東にある橿原の地に、大きな御殿をおつくりになつて、天皇の御位にお卽きになられました。それについて天皇は、
上は則ち乾靈國を授くるの德に答へ、下は則ち皇孫正を養ひたまふ。心を弘めん。然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と爲んこと、亦可からずや。
とおほせられてをります。その御仰せの意味は「上は天照大神がこの國をおさづけくだされた大きい御恩にこたへ、下は皇孫がやしなつてこられた正しい道をひろめよう。さうして後に國のなかをよく治めるために都を開き、天下をすべて睦しい一つの家のやうにしたいではないか」といふことと拜察いたします。このおほせごとにしたがつて御代代の天皇は、神武天皇とおなじく、天照大神の御神勅を尊まれ、國を重んじ、民をいつくしみ、わざはひをはらひ、正しい道をひろめたまうて、立派な御政治を御續けなされたのであります。
「八紘を掩ひて宇と爲ん」
この一番大切な御言葉は、これを漢文で書くと八紘爲宇となります。八紘は四方と四隅のこと、爲宇は、一つの家のやうにするといふことです。つまり、長い間、御祖先が實際に行はれた正しい道の御精神を世界中に押しひろめて、たたかひやあらそひのない、おだやかで朗らかな平和の光のもとに、世界の國國全部が、各々その處を得て安んじほがらかなひとつの家のやうに樂しんでくらしてゆくやうにありたひといふ、まことにありがたいおぼしめしなのであります。
大日本帝国の敗戦と日本国の平和
1945年(昭和20年)9月2日、大日本帝国がアメリカ連合国軍の占領統治下に入った。
1946年(昭和21年)1月12日、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の名称が廃され、「八紘一宇」の碑文と武人の象徴である荒御魂(あらみたま)像が取り除かれた。。塔内部の奉安庫に収納されていた秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去・処分の対象となったが、宮崎県職員によって密かに運び出され、宮崎神宮の倉庫内に隠された。
1946年(昭和21年)5月13日、占領軍(GHQ)の「日本郵便切手及通貨ノ図案ニ就テノ禁止事項ニ関スル件」と題する指令で靖国神社の1円切手や勅額切手等が使用禁止となった。
しかし、それらの例外を除き、軍国主義、神道の象徴の図案の切手が使われていた。
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1946年(昭和21年)8月1日、GHQの指導の下、逓信省の発行する郵便切手の国名表示を「大日本帝國郵便」から「日本郵便」に変更し、「民主図案」を採用した新普通切手の第1号として、葛飾北斎(かつしか・ほくさい、1760年~1849年)の富士山の図版画集「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」中の「山下白雨(さんかはくう)」を図案にした1円切手が発行された。
1947年(昭和22年)6月29日、占領の最高責任者、67歳のダグラス・マカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日~1964年4月5日)の意向で、逓信省は軍国主義、国家神道に関わる図案の郵便切手、郵便葉書の発売停止を全国の郵便局に指示した。
発売禁止となった郵便切手、郵便葉書には、乃木希典(のぎ・まれすけ、1849年12月25日~1912年9月13日)大将の2銭切手、東郷平八郎(1848年1月27日~1934年5月30日)元帥の4銭切手、5銭切手、7銭切手、富士山と八紘之基柱の4銭切手が含まれていた。
さらに同年7月23日付の逓信省令でそれらの使用を禁止した。
同年8月31日限りで、該当する切手・葉書に関しては、手持ち分についても全面的に使用を禁止し、使用可能な切手と交換させることになった。
1947年(昭和22年)10月26日に公布された「刑法の一部を改正する法律」で、天皇・太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太孫・皇族・神宮・皇陵に対して不敬の行為をする罪、不敬罪が廃止された。
1952年(昭和27年)4月28日、日本国が領域主権を回復した。
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1954年(昭和29年)10月15日~12月5日、宮崎市の宮崎神宮周辺で宮崎県宮崎市県下各市町村主催「南国宮崎産業観光大博覧会」が催された。
八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の名称が「平和の塔」と改められた。
1957年(昭和32年)4月、宮崎県が「八紘台」の名称を通称の「平和台公園」に改めた。
1962年(昭和37年)10月5日、「平和の塔」の宮崎交通が寄贈した荒御魂像が復元された。
1965年(昭和40年)1月30日、「平和の塔」の「八紘一宇」の文字が復元された。
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1988年(昭和63年)2月25日、1986年(昭和61年)秋からの『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)の連載小説をまとめた、66歳の寺内大吉(1921年10月6日~2008年9月6日)著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』上・下(毎日新聞社、各1,300円)が刊行された。
1995年(平成7年)7月11日発売の月刊総合誌『中央公論』(中央公論社)8月号(750円)に、69歳の丸谷才一(まるや・さいいち、1925年8月27日~2012年10月13日)と61歳の山崎正和(やまざき・まさかず、1934年3月26日~2020年8月19日)の連載対談「20世紀を読む」4「近代日本と日蓮主義」が掲載された。
寺内大吉著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』をめぐる対談だ。
1996年(平成8年)4月10日、丸谷才一・山崎正和著『二十世紀を読む』(中央公論社、税込み1,500円)が刊行された。
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1996年(平成8年)10月18日、「中公文庫」、寺内大吉著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』上・下(中央公論新社、各税込み960円)が刊行された。
1999年(平成11年)12月18日発行、「中公文庫」、丸谷才一・山崎正和著『二十世紀を読む』(中央公論社、本体590円)、「近代日本と日蓮主義」より丸谷の発言を引用する(112~113頁)。
これは昭和史の前半は日蓮宗信者たちによって動かされた、というのが主題の本です。事実、昭和前半の歴史を大きく乱した人々には、日蓮宗の熱烈な信者が非常に多かった。まず、『日本改造法案大綱』をあらわして、クーデターを煽動し続けた北一輝。彼は、朝晩必ず法華経を読瀉――読瀉というのは汚い言葉だと著者も言っていますが、これは一気呵成に読み下す、読誦するという意味でしょう――して、霊感や夢告を得たと、自分で称しています。二・二六事件のときなんか、「人なし勇将真崎(甚三郎)あり」というお告げがったなんて言って、青年将校たちを操りました。
それから西田税も、大川周明から離れて北一輝の弟子になると、法華信者になりました。二人の影響下にあって二・二六事件を起こした陸軍将校たちは、磯部浅一、村中孝次、香田清貞、安藤輝三など、みなそうでしたし、五・一五事件では海軍の三上卓は、「日蓮の我れ国の柱とならんという心境で、犬養首相狙撃の引き金を引いた」と、法廷で述べています。
同じく五・一五事件の塚野道雄は、「日蓮主義以外に道はなかった」と、法廷で陳述しました。五・一五事件では海軍の山岸宏も、日蓮信者でした。それから血盟団のテロリスト。井上日昭、菱沼五郎もそうでした。永田鉄山暗殺の相沢三郎――これは法華信者ではなかったんですが、北一輝を尊敬していて、その尊敬の理由のひとつに熱烈な日蓮信者だということを挙げています――の特別弁護人になった満井佐吉は、日蓮信者でした。神道寄りの日蓮信者だったと書いてありますね。
そして、なかんずく満洲事変を立案した石原莞爾。彼は日蓮信者で、思想体系の重要な部分は日蓮宗です。明治から昭和にかけて活躍した国柱会の田中智学の系統に属する日蓮宗の信者に、大正九年ごろからなりました。
山崎の発言を引用する(125~126頁)。
山崎 田中智学は十九世紀半ばに生まれた人ですが、国柱会は大正三(一九一四)年にできているんですね。隆盛に向かい始めるのが大正十年ごろからで、昭和初年に最隆盛期を迎える。たとえば石原莞爾とか、宮沢賢治が入るのも、そのころなんですね。
このことを、私は非常に意味があると思っているんです。他でも書いたことですが、これは、日本にインテリというものが生まれた時期なんですね。大正七(一九一八)年に大学の増設が認められたのですが、そこで、いわゆる「インテリ」が出てくる。「インテリ」とはつまり、アカデミーでもないし草の根でもない、その中間にいる人のことです。平たくいえば昔の『中央公論』を読み「岩波文庫」を読み、そして「大学は出たけれど」と嘆いていた人たちです。
そういう人たちが急増してくるのは、もちろん昭和初年になってからですが、その芽生えが大正末期に生まれてきた。インテリ特有の誇りと不安と、もむひとつ言えば怨恨とが育ってきた時代に、まさに国柱会が隆盛を迎えた。
丸谷 国柱会は、ほぼ大逆事件を契機にして生まれたといっていいだろうと思います。一九一〇年に幸徳秋水の大逆事件があって、一九一四年に国柱会が始まりました。ですから、大逆事件を契機にして生まれたといっていいでしょう。いま山崎さんがおっしゃった知識人の発生の先駆的状態が、すでにこのころあったわけですね。
山崎の発言を引用する(127~128頁)。
山崎 明治の初期、日本をつくった連中はエリートだったんですね。この場合のエリートとは、古典的な国文・漢文の教養があるか、あるいは西洋の知識を直接に体験的に持っている人たちです。彼らが明治の一代目をつくったわけです。それは、学問の世界も軍隊の世界もそうだったわけですね。そこにはいわばアカデミーがあって、森歐外とか西周とか、山県有朋のような人たちがいたわけです。
丸谷 外人教師から直接習った人ですね。
山崎 彼らはまず、人がびっくりするような給料をもらっている。そして丸谷さんがおっしゃるように、外人教師から直接に習っているし、留学もしています。彼らは、国家をつくるという使命感を持ち、広く何もかも知っている「百科辞書」的な知識人でした。
ところがやがて大正のころになると、アカデミーも二代目になります。威張っていることは威張っていますが、二代目のアカデミーはことごとく専門化するんですね。他のことは知らない。「おれの知識は深いよ」と言い、ℋ広く浅く学ぶ人のことを、ジャーナリストといって軽蔑する。同時に、専門化と裏腹に、反時事性というか、時代の問題などに関わるのは学者のすることではない、永遠に関わるのが学者であると考えているのが、二代目になったわけです。
そういう二代目アカデミーの下に、先ほど言った草の根でもない、アカデミーでもない、インテリが生まれたときにどうなるかというと、万事につけてアカデミーとは反対のことをやりたくなる。まず、時事的問題に発言したい。現に彼らは、自分や家族の体験を通じて、貧困を知り、社会的な問題を知っているわけですから、当然、時事的になる。その上に、アカデミーの専門家と競争したって勝てっこないわけですから、逆に浅く広く、総合的にものを考える。総合雑誌とはよく言ったもので、それに対応して総合雑誌も生まれた。
この二つを足すと、つまり時事性と総合性を足すと、「イデオロギー」という答えが出てきます。要するに社会を改造する、世の中を直すという考え方が出てくる。だから多くのインテリは、少なくとも頭のなかではみんな、社会改造論者であったわけですね。
2011年(平成23年)4月、「大正大学まんだらライブラリー」12、13、寺内大吉著『化城の昭和史:二・二六事件への道と日蓮主義者』上・下(大正大学出版会、本体各724円)が刊行された。
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