1963年の映画劇『光る海』とテレビ教養と読書人文学
女子大学無用論
日本における女子大学無用論の先駆けは、月刊文芸誌『新潮』(新潮社)1957年(昭和32年)3月号掲載の46歳の東京大学講師、中屋健一(1910年12月9日~1987年3月28日)の2年間の女子大での非常勤講師の経験に基づく「女子大学無用論」だ。
月刊総合評論誌『文藝春秋』(文藝春秋新社)1959年(昭和34年)6月号に58歳の大宅壮一(1900年9月13日~1970年11月22日)「女子大学という名の幼稚園」が掲載された。進学者が激増し始めた日本の大学の文学部などで男子学生よりも女子学生の比率が高くなり、1960年(昭和35年)3月以後、論壇で「女子大生亡国論」が流行した。
「女子大生亡国論」という言葉は『週刊新潮』(新潮社)1962年(昭和37年)3月5日号掲載の「早大国文科の美人の級友」という記事の中の見出しが初出だ。
上流中間層の女性向け総合評論誌『婦人公論』(中央公論社)1962年(昭和37年)3月号に54歳の早稲田大学教授の暉峻康隆(1908年2月1日~2001年4月2日)「女子学生世にはばかる」、『婦人公論』1962年(昭和37年)4月号に47歳の慶應義塾大学教授の池田彌三郎(1914年12月21日~1982年7月5日)「大学女禍論:女子学生世にはばかる」が掲載された。
石坂洋次郎『光る海』
1962年(昭和37年)11月13日、『朝日新聞』朝刊の連載『あすへの教育』第3部「大学」23「女子学生」より引用する。
1962年(昭和37年)11月24日から1963年(昭和38年)11月28日まで、『朝日新聞』朝刊に、石坂洋次郎(1900年1月25日~1986年10月7日)の長篇小説『光る海』が連載された。
挿画は中村琢二(1897年4月1日~1988年1月31日)だ。
同時代の日本を舞台とするこの小説の物語と人物像は現実ばなれしているが、誇張されたテレビと週刊誌の時代の新しい大卒者像とその発言を通じて、現代日本の性的禁忌、家族の形、結婚の形、相続の形の自由化、多様化などについて考えさせられる。
2011年(平成23年)10月25日、69歳の竹内洋(1942年1月8日~ )著『革新幻想の戦後史』(中央公論新社、本体2,800円)が刊行された。
装丁は桂川潤(1958年~2021年7月5日)だ。
帯表紙に「左派にあらざればインテリにあらず、という空気はどのように醸されたのか」「戦後社会では、さまざまな空間を革新勢力が席巻していった。しかしそうした雰囲気は、多分に焚きつけられ、煽られたものであった。誰が、どのように時代の気分を誘導したのだろうか。また、それはどのように、その後のねじれた結果をもたらしたのか。膨大な文献資料から聴き取り調査までを駆使し、今につながるその全貌に迫る。」とある。
2015年(平成27年)9月25日、「中公文庫」、竹内洋著『革新幻想の戦後史』上・下(中央公論新社、各巻・本体880円)が刊行された。
下巻の解説は井上義和(1973年~)「「隠れ保守」の生き残り戦略」だ。
同書の終章「革新幻想の帰趨」、1「石坂洋次郎の時代」より引用する(251頁)。
1963年(昭和38年)12月10日発行、石坂洋次郎『光る海』(新潮社、450円)が刊行された。
装幀は55歳の脇田和(1908年6月7日~2005年11月27日)だ。
1963年の映画劇『光る海』
1963年(昭和38年)12月26日、石坂洋次郎原作、39歳の池田一朗(1923年9月30日~1989年11月4日)脚本、37歳の中平康(なかひら・こう、1926年1月3日~1978年9月11日)監督の総天然色映画劇『光る海』(125分)が公開された。
主演は18歳の吉永小百合(1945年3月13日~)、20歳の浜田光夫(1943年10月1日~)、21歳の十朱幸代(1942年11月23日~)、16歳の和泉雅子(1947年7月31日~)、44歳の高峰三枝子(1918年12月2日~1990年5月27日)だ。
撮影監督は山崎善弘だ。音楽作曲は34歳の黛敏郎(1929年2月20日~1997年4月10日)だ。
同時上映は、35歳の松尾昭典(1928年11月5日~ 2010年7月12日)監督、19歳の高橋英樹(1944年2月10日~)、16歳の和泉雅子主演の総天然色の映画劇『男の紋章:風雲双つ竜』(91分)だった。
1964年(昭和39年)1月15日、ビクターレコードから、日活映画主題歌、吉永小百合、ビクター・オーケストラ「光る海」(3分07秒)、「こんにちは二十才」(2分58秒)のシングル盤(VS-1181、290円)が発売された。
「光る海」の作詩は61歳の佐伯孝夫(1902年11月22日~1981年3月18日)、作曲・編曲は42歳の吉田正(1921年1月20日~1998年6月10日)だ。
映画劇『光る海』のあらすじ(ネタバレ)
映画『光る海』のあらすじを記す。ネタバレあり。
ナレーションは32歳の小池朝雄(1931年3月18日~1985年3月23日)。城南大学(ロケ地は学習院大学)第35回卒業式。
英文科は女33人に対して男7人。学生服の野坂孝雄(浜田光夫)、向井達夫(山内賢、1943年12月9日~2011年9月24日)、浅沼一郎(和田浩治、1944年1月28日~1986年7月6日)、長沢三津雄(市村博、1939年3月15日~)、木村健五(杉山俊夫、1941年7月22日~)、川田千太郎(亀山靖博、1941年8月7日~)、倉橋守(木下雅弘、1938年2月14日~)。
女子学生はこの7人を1954年(昭和29年)4月26日公開の映画劇『七人の侍』(207分)にちなんで「七人のサムライ」と呼んでいる。
クラスの最優等生・葉山和子(十朱幸代)ほか女学生はほぼ全員振り袖だが、自意識過剰な変わり者の石田美枝子(吉永小百合)だけは黒い洋服に眼鏡、飼い犬のアメリカンコッカースパニエルのベベを連れて来る。
ベベは、当時人気のあったフランスの映画女優ブリジットゥ・バルド(Brigitte Bardot、1934年9月28日~)の愛称だ。頭文字B.B.と同じ発音で「赤ん坊」を意味するフランス語”bébé”をかけている。
学長(山本嘉次郎、1902年3月15日~1974年9月21日)が卒業証書を卒業生に手渡す。美枝子はころんで脚をくじくが、孝雄に支えられる。
雄弁で率直な毒舌家の美枝子とその毒舌に負けない孝雄は気軽に悪口を言い合える仲だ。
卒業式のあと、ピラミッド校舎(1960年(昭和35年)8月竣工)の前で、美枝子は綸子の和服の母・雪子(高峰三枝子)に孝雄を紹介する。雪子は美枝子が5歳の時、離婚した。銀座裏でバーを経営している。
英文科の茶話会。渡部(わたべ)教授(浜村純、1906年2月7日~1995年6月21日)が喋っている。
浅沼「今日はみんなの美しく圧倒されるような振り袖姿を見て、僕は反動的にこの頃流行りの女子学生亡国論て言葉を……そう興奮しないでくれよ。僕は反動的にと言っただろう。つまりだ、僕の言葉をまともな表現に直しゃ、oh, wonderful, oh, beautifulってことになる」
「秋風辞(しゅうふうのじ)」
みんなの帰ったあとの茶話会の会場で、孝雄は和子と二人で、忘れ物がないか確かめながら、前漢(ぜんかん、紀元前206年~8年)の44歳の武帝(前141年3月9日~前87年3月29日)が汾河を渡る船の中で群臣と宴を開いて遊び、そのおりに胸中にわいた感懐を歌った詩「秋風辞」を引用する。
「歓楽極兮哀情多か。こういう会ってえと必ず忘れ物をする。ぼんやりしたのが一人や二人」
孝雄は美枝子の忘れた白いハンドバッグを見つける。孝雄が財布の中の札を数えると一万円札(1958年(昭和33年)12月1日発行開始。図柄は聖徳太子の肖像)が1枚、千円札(1950年(昭和25年)1月7日発行開始。図柄は聖徳太子の肖像。 1963年(昭和38年)11月1日発行の新札の図柄は伊藤博文の肖像)が6枚、百円札(1953年(昭和28年)12月1日発行開始。図柄は板垣退助の肖像)が3枚入っている。
孝雄がハンドバッグを届けに美枝子の家に行き、客間で待っていると、美枝子は眼鏡をはずし振り袖で出てくる。これから赤坂のホテルオークラ(1962年(昭和37年)5月20日開業)に出かけ、父と会うのだという。
孝雄は車で彼女を送る。美枝子の父・田島清二(宮口精二、1913年11月15日~1985年4月12日)が待っている。
孝雄に離婚した理由を聞かれた田島は、母一人子一人で溺愛され、母子密着が成人するまで長く続いたこと、結婚後もその母と同居したが、母と雪子の性格が合わなかったので、美枝子が5歳の時、雪子が美枝子を連れて家を出たのだと説明する。だが、美枝子は5歳だった自分が離婚の原因だと言い出す。
5歳の美枝子の回想場面。母と言い争う祖母・田島安子(原泉、1905年2月11日~1989年5月21日)を美枝子は物差しで叩く。
このことが母と祖母が別れる原因となったのだという。
黒人霊歌「聖者の行進」
帰りの車の中で、助手席の美枝子は黒人霊歌「聖者の行進」When The Saints Go Marching Inを口ずさむ。”Oh, when the saints go marching in”
運転席の孝雄も唱和する。"Oh, when the saints go marching in. I want to be in that number. When the saints go marching in".
美枝子は"Once again!"と言い、二人は車を降りたあとも歌い続ける。
「さびしいな、今夜は。男と女の間で結婚や恋愛なんて考えないでキスしてもいい場合があるんじゃないのかしら」。
美枝子は目を閉じる。孝雄は驚きながらも、卒業証書を手にしたまま、美枝子にキスをし、あわてて去る。
当時の大卒の初任給は2万円くらいだった。ナレーション「三月経った。あの呑気な学生たちももういっぱしの社会人だ。毎日ゼニを稼ぐために働き、あるいはいい旦那さんをキャッチするために牙を研いでいる。楽じゃないよな、まったく」
和子はおじの矢崎庄二郎(森雅之、1911年1月13日~1973年10月7日)が経営する矢崎商事の庶務課で事務員として働いている。浅沼も和子の推薦で入社した。だが和子と庄二郎の縁故関係は社内では秘密にしている。
夜、アサヒビール吾妻橋ビヤホールで、浅沼、孝雄、和子が話をする。浅沼は大学2年の時から同棲している1歳年下の妊娠9か月の彼女・栄子がいるのだという。その晩、孝雄と和子は栄子(松尾嘉代、1943年3月17日~)に会いに行く。
和子が栄子のお腹を触らせてもらうため、孝雄と浅沼が外に追い出される間、ラジオのニュースでアナウンサーが1963年(昭和38年)3月31日に東京都台東区入谷町で起きた吉展(よしのぶ)ちゃん(4歳)誘拐事件の捜査状況を報じている。
ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」、村田英雄「王将」
和子の家の2階の縁側で和子の妹のポニーテールにワンピースの高校3年生・久美子(和泉雅子)が足の爪を切りながら、「振り向かないで、イェイ・イェイ・イェイ・イェイ、お願いだから」と、1962年(昭和37年)2月にシングル盤が発売され、同年8月11日公開の総天然色の20歳の双子のザ・ピーナッツ主演の映画劇『私と私』(90分)の劇中で歌われた、45歳の岩谷時子(1916年3月28日~2013年10月25日)作詩、30歳の宮川泰(1931年3月18日~2006年3月21日)作曲、ザ・ピーナッツの歌「ふりむかないで」を歌っている。
久美子が1階に下りると、客間で孝雄が立ったまま、ピアノでたどたどしく「聖者の行進」を弾いている。
久美子は居間で孝雄に結婚してほしいと言い、高校1年の時、初めて孝雄が遊びに来た時から好きだったと言う。高校2年までは無口だった久美子はその年の初めに陰毛が生え始め、女としての自信がついて、性格が一変したのだという。
ウイスキーを持ってきた和子は久美子を追い出し、居間で孝雄と話す。「あたしね、栄子さんのお腹に触らせてもらったの。動いたわ、赤ちゃん。あたし、その動きを掌に感じた時、女に生れてホントによかったと思った。自分が生きている感じがグッと迫ってくるの。あの感じ、男の人にもわからせてあげたいな。そうすれば自分を吹けば飛ぶような将棋の駒みたいに思うにちがいないわ」。
「吹けば飛ぶような将棋の駒」は、1961年(昭和36年)9月にシングル盤が発売された、69歳の西條八十(1892年1月15日~1970年8月12日)作詩、29歳の船村徹(1932年6月12日~2017年2月16日)作曲、1962年(昭和37年)11月23日公開の映画劇『王将』(92分)の主題歌でもある32歳の村田英雄(1929年1月17日~2002年6月13日)の歌「王将」の歌詞だ。
百円亭主
外で手をつないで歩きながら、孝雄は快適な新婚生活の家計について和子に訊く。
「百円亭主」は昭和30年代半ばの流行語で、1959年(昭和34年)4月12日号(30円)で創刊された男性向けの週刊総合誌『週刊現代』(講談社)1959年5月10日号に「百円亭主は一等亭主か?:女房関白が生んだわびしい現実」の記事が載った。
出版社に就職した向井が、書き貯めてあるだろう原稿を預けてもらおうと、作家志望の美枝子に会いに来る。美枝子は小田急線の線路横の講演でベべを遊ばせている。
美枝子が家に戻ると、女中・長谷倉きく子(飯田蝶子、1897年4月17日~ 1972年12月26日)が、銀座裏のバー「きこり」の雪子がその日必要な実印を家に忘れたという電話があったと報告する。三枝子は向井を連れて「きこり」に実印を届けに行く。
新橋の料亭で男友達の矢崎と会う雪子は、美枝子と向井も連れて行く。向井の月給は手取り2万円くらいだという。雪子の手元に残る収入は月30万円くらいだという。雪子は和子のおじが母の知り合いだったことを初めて知る。矢崎の妻も雪子を気に入っているという。
雪子はバーを閉め、貸しビルを建てるので、その件で世話になっている矢崎に実印を預ける。
雪子は来週から軽井沢に転地するという胃潰瘍で弱っている矢崎の妻から電話で何度か、矢崎に内緒で、美枝子と一緒に遊びに来てほしいと言われているという。
賛美歌「妹背(いもせ)をちぎる」
教会で賛美歌430「妹背をちぎる」の「祝いのむしろ 祝しませ」が歌われ、急病の牧師の弟の代理の教師・島田登里子(ミヤコ蝶々、1920年7月6日~2000年10月12日)が浅沼と栄子の結婚の誓約式をおこなう。
和子、美枝子、久美子、孝雄、向井、木村が立ち会う。
陣痛が来て、栄子は渋谷消防署の救急車で孝雄の実家の野坂病院に運ばれる。産室で、院長・野坂淳平(清水将夫、1908年10月5日~1975年10月5日)と看護婦・花田(奈良岡朋子、1929年12月1日~2023年3月23日)が栄子のお産に立ち会う。和子と美枝子も見守る。美枝子は気を失う。
淳平の妻・里子(高野由美、1918年1月23日~)と、浅沼、孝雄、孝雄の弟の高校生・次郎(太田博之、1947年11月25日~)、向井、久美子は居間で待っていたが、淳平が無事男の子が生まれたと報告に来る。
「かっこいい」の流行語と「現代っ子」の時代
ゴールデン赤坂の歌手になった木村がその夜歌うというので、浅沼、高校生の久美子と次郎以外の全員が聞きに行く。踊った後、みんなとテーブルについた孝雄はTBSに就職し、営業部に配属されたが月給は手取り2万円くらいだと言う。
シックスガイーズ(河辺公一とスイングジャイアンツ)のボーカルが木村だ。木村の歌。
強そうで美しい外見や服装で、臨機応変な身体能力と判断力の成熟した男性に対して用いる「圧倒されるほど見事」の意味の一言で高揚する気分を即座に言い表す「かっこいい」の語は戦時期の大日本帝国陸軍で偉大な軍人の形容として流行した。
1950年代末頃、戦争の記憶が希薄になり、口語芸術表現に敏感なテレビ放送関係者、音楽・お笑い芸能人の間で、何かの賞賛に費やす時間、説明の手間の無駄を極端に省いた「かっこいい」の語が流行った。
生活水準が豊かになり、余暇と娯楽に使うお金の増えた大衆層にテレビが普及し始めた1961年(昭和36年)6月に日本テレビで放映が始まった毎週日曜18:30~19:00の牛乳石鹸提供、日本テレビと渡辺プロダクション制作、ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツがレギュラー出演者のバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』の放送作家・青島幸男(あおしま ・ゆきお、1932年7月17日~2006年12月20日)が口語を用いた半ば即興のお笑い芸で「かっこいい」の語を多用した。
1962年(昭和36年)、テレビ番組と週刊誌、月刊誌の娯楽記事を通じて「かっこいい」の語が大衆的に大流行した。
「性的魅力で感情を揺さぶられる」という意味の主に女性が使った「グッと来る」という新語が流行したのもこの頃だ。
『週刊平凡』(平凡出版)1959年(昭和34年)11月25日号(40円)に、24歳の団令子(1935年3月26日~2003年11月24日)、23歳の中島そのみ(1936年1月2日~)、26歳の重山規子(1933年9月6日~)の「お姐ちゃんトリオの男性論:こんな男性にゃグッとくる」が掲載された。
1961年(昭和36年)3月31日発行、30歳の川崎市住吉小学校教師で教育評論家の阿部進(1930年6月11日~2017年8月10日)著『現代子供気質』(新評論、330円)のIV「子どもと戦争」、1「戦争とはどんなもの?」に(1)「「太平洋の嵐」―かっこいいのな」の見出しがある。
19年前の大日本帝国とアメリカの戦争を描く、39歳の松林宗惠(まつばやし・しゅうえ、1920年7月7日~2009年8月15日)監督の総天然色の映画劇『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(118分)は1960年(昭和35年)4月26日に公開された。
併映は、源氏鶏太(1912年4月19日~1985年9月12日)原作、46歳の森繁久彌(もりしげ・ひさや、1913年5月4日~2009年11月10日)主演の総天然色の映画劇『新・三等重役 当るも八卦の巻』(84分)だった。
1962年(昭和37年)8月2日、「三一新書」、文:阿部進、え:24歳の石森章太郎(1938年1月25日~1998年1月28日)『新版現代子ども気質:これが現代っ子だ!』(三一書房、230円)が刊行された。
戦争の恐怖や飢餓や極貧の不安を体験したことのない平和で豊かな世代の子どもを意味する「現代っ子」の新語はこれ以後広まった。
戦後に生まれ育ち、幼児期から絵物語、漫画劇に親しんだ当時の子どもは戦争における高度科学兵器による大破壊を直接体験ではなく、漫画劇、映画劇で疑似体験することにより美化していると考えられることがあった。
2008年(平成20年)5月31日、オンデマンドの復刻版、「Shinhyoron Selection」、阿部進著『現代子ども気質:わかっちゃァいねえんだなァ』(新評論、4,180円)が刊行された。
水野イサオ(1924年~)撮影、20歳の飯田久彦(1941年8月23日~)、16歳の吉永小百合が表紙モデルの若者向け芸能娯楽雑誌『平凡』(平凡出版)1962年(昭和37年)3月号(100円)の特集は、「かっこいいチャコ」こと飯田久彦、「かっこいいスピッツ」こと17歳の松島アキラ(1944年7月5日~)、「かっこいいタカシ」こと21歳の藤木孝(1940年3月5日~2020年9月20日)「かっこいい野郎ども:ホイホイ!バカにしてる!」、17歳の高橋英樹、平野こうじ、23歳の千葉真一(1939年1月22日~2021年8月19日)、18歳の浜田光夫「平凡かっこいい教室:流行に強くなる方法」、「可愛いトリオ・スリーファンキーズ:お嬢さんスッテキですね!」、14歳の弘田三枝子(1947年2月5日~2020年7月21日)、15歳の中尾ミエ(1946年6月6日~)、16歳の松島トモ子(1945年7月10日~)、13歳の田代みどり(1948年4月22日~)「子供じゃないの」だった。
「ホイホイ」は藤木の相槌代わりの口癖、「バカにしてる」は飯田の口癖だ。
1963年(昭和38年)5月30日、「ミリオンブックス」、34歳の羽仁進(はに・すすむ、1928年10月10日~)著『未来っ子誕生:そのビジョンとプラン』(講談社、220円)が刊行された。
装幀は26歳の山下勇三(1936年5月30日~2008年1月31日)、カットは35歳の久里洋二(1928年4月9日~)だ。
「生産的思考はイメージによる思考」を引用する(210~211頁)。
1964年(昭和39年)5月発行、「教育問題新書」、33歳の佐藤忠男(1930年10月6日~2022年3月17日)著『少年の理想主義:立身出世主義教育の矛盾』(明治図書出版、360円)、「現代の少年のアコガレと理想」の第一節は、1「〝カッコイイ〟価値観の由来」と題され、「いまの子どもが、価値観の基準として、カッコイイ、ということばをしきりに使うことは良く知られている。恰好の良さとは何か? これははなはだ定義しにくい粗雑な概念であるが、言い得て妙なことばなので、いつかおとなの世界にまで浸透してきてしまっている。」(9頁)と述べられている。
『朝日新聞』1964年(昭和39年)7月19日朝刊「流行語 みんなで考えよう」に北九州市の25歳の会社員・吉田希代子さんの発言が引用された。
『ニッケ・アベック歌合戦』
1963年(昭和38年)8月9日(金)、軽井沢に、前日の夕方汽車で来た、矢崎の妻を見舞いに来た雪子と美枝子がいる。ポニーテールの美枝子は気が向いたら行くと言って馬に乗って去る。
ホテル(ロケ地は万平ホテル)の矢崎の妻・信子(田中絹代、1909年11月29日~1977年3月21日)が雪子を迎える。
ドイチュ語が多少わかる信子は矢崎に内緒にしているが、自分は間もなく胃癌(MagenKrebs)で死ぬと打ち明け、自分が死んだら、子供たちと揉めないよう、子供もつくらず、遺産相続も放棄するという条件で、矢崎の妻になってほしいと頼む。
美枝子も馬に乗って来る。向井からの電話で、美枝子が新人賞に応募した短篇も長篇も及第だというので美枝子は大喜びする。
美枝子は信子と初対面にもかかわらず、突然、客間のテレビに駆け寄り、スイッチを入れる。すると画面には何も映らないが、ツイストの音楽が流れ始める。
美枝子は、1962年(昭和37年)10月8日から、日本テレビで毎週月曜19:30~20:00に放映されていた、拍子木を軽快に打ちながらのアベック(恋人同士)の素人の男女の出演者への質問「あなたのお名前なんてえの?」の決まり文句で知られた日本毛織(ニッケ)提供の歌謡番組『ニッケ・アベック歌合戦』の司会者、トニー谷(1917年10月14日~1987年7月16日)の物まねで、ふざけて「あなたの商売なんざんす。女流作家でござります」と言って、ツイストを踊り出し、雪子にもツイストを踊らせる。
トニー谷は、ラジオ時代の1953年(昭和28年)にアメリカから独立して間もない日本で「レディース・アンド・ゼンツルメン、アンド・おとっつぁん・おっかさん!」のようなイングリッシュ語を交えた口語日本語の漫談で一世を風靡する人気芸人になった。
その夜、矢崎も軽井沢に来る。
ルクレーティウス『物の自然について』
ナレーター「そして9月も半ば過ぎたある日のことである」。「東京 矢崎家」。
和子と美枝子がやって来る。矢崎の長男・高雄(木浦佑三)、矢崎の長女・麻子(南寿美子、1931年2月24日~)、矢崎の次女・文子(天路圭子、1935年2月14日~)も呼ばれていた。
この家族会議で初めて、信子は矢崎たちに胃癌で間もなく死ぬことを打ち明ける。
この言葉の出典は、実際には、古代ヘラスの哲学者エピクーロス(Epikouros、紀元前341年~ 紀元前270年)の失われた著作『自然について』On Nature 37巻の内容を踏まえた、ローマの哲学者ルクレーティウス(Titus Lucretius Carus、紀元前99年頃~紀元前55年)の六巻からなる哲学詩『物の自然について』De rerum natura(On The Nature of Things)第2巻だ。
フランスの哲学者ミシェル・ドゥ・モンテーニュ(Michel de Montaigne、1533年2月28日~1592年9月13日)『随想録』Essais第20章「哲学することは死ぬことを学ぶことだ」Philosopher, c'est apprendre à mourirの翻訳、1935年(昭和10年)4月10日、39歳の關根秀雄(1895年9月17日~1987年7月27日)譯『モンテーニュ隨想錄』1(白水社、4円)、第二十章「哲學するのはいかに死すべきかを學ぶためであること」にあるルクレティウスの引用(168頁)を踏まえている。
ちなみに、關川秀雄(1908年12月1日~1977年12月16日)監督、東横映画『日本戦歿学生の手記:きけ、わだつみの声』(109分。1950年6月15日公開)で、大木助教授(信欣三、1910年7月9日~ 1988年12月26日)は東大文學部佛蘭西文學科の最後の講義で「モンテーニュの「哲学をする理由は死に親しむことである」”Philosopher, c'est apprendre à mourir”この終わりの一節を申し上げて、お許しを願いたいと思います」と言う。
1934年(昭和9年)3月29日、夜、東京日本橋の偕樂園で、内務省警保局長の47歳の松本學(1886年11月20日~1974年3月27日)が43歳の直木三十五(なおき・さんじゅうご、1891年2月12日~1934年2月24日)ら作家を招き、精神文化統制を目的とする国家官僚と国民作家の親睦団体「文藝懇話會」を創立した。
1936年(昭和11年)5月26日、文藝懇話會が総会を開き、49歳の松本學、47歳の菊池寛(きくち・かん、1888年12月26日~1948年3月6日)ら18名の委員により、「勲章」その他の64歳の德田秋聲(とくだ・しゅうせい、1872年2月1日~1943年11月18日)、飜譯『モンテーニュ隨想錄』の40歳の關根秀雄の2名を文藝懇話會賞昭和十年度受賞者に決定し、それぞれ1千円を贈呈した。
2016年(平成28年)4月15日発行、68歳の鈴木貞美(1947年9月22日~)著『『文藝春秋』の戦争:戦前期リベラリズムの帰趨』(筑摩書房、本体1,800円)、第三章「『文藝春秋』と日中戦争」より引用する(133~134頁)。
1959年(昭和34年)5月発行、「世界大思想全集」、「哲学・文芸思想篇3:キケロー ルクレチウス」(河出書房、350円)に、ルクレチウス著、57歳の田中美知太郎(1902年1月1日~1985年12月18日)、岩田義一訳『宇宙論』が収められた。
1910年(明治43年)のスィリル・ベイリー(Cyril Bailey、1871年4月13日~1957年12月5日)によるイングリッシュ語訳を引用する。
1961年(昭和36年)8月25日、「岩波文庫」6440-6442、ルクレーティウス著、57歳の樋口勝彦(1904年4月24日~1964年3月19日)訳『物の本質について』(岩波書店、120円)が刊行された。
1965年(昭和40年)6月10日発行、「世界古典文学全集」第21巻(第15回配本)『ウェルギリウス ルクレティウス』(筑摩書房、900円)が刊行された。
ルクレティウス著、岩田義一、39歳の藤沢令夫(1925年6月14日~2004年2月28日)訳『事物の本性について:宇宙論』が収められた。
2011年(平成23年)9月、ニュー・ヨークで、68歳のスティーヴン・グリーンブラットゥ(Stephen Greenblatt、1943年11月7日 ~)著『急転換:いかにして世界は近代になったか』The Swerve: How the World Became Modern(W. W. Norton & Company)が刊行された。
ポーッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini、1380年2月11日~1459年10月30日)が1417年にルクレティーウス『物の自然について』の最後の写本を再発見した出来事の歴史的意義を考察している。
2012年(平成24年)11月1日、スティーヴン・グリーンブラット著、河野純治(1962年~)訳『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(柏書房、本体2,200円)が刊行された。
2020年(令和2年)8月4日、「書物誕生:あたらしい古典入門」、小池澄夫(1949年~2011年)、瀬口昌久(1959年~)著『ルクレティウス『事物の本性について』:愉しや、嵐の海に』(岩波書店、本体2,700円)が刊行された。
『論語』
信子は自分の死後、矢崎と雪子が再婚することを望んでいる。矢崎は信子と美枝子が、自分と雪子の再婚を決めつけるのは不愉快だと怒るが、信子は「パパはご機嫌よくないようですけれど、「鳥の死なんとするや、その声悲し」だと思って聞き流して下さいな」と『論語』泰伯第八の四の曾子の臨終の際の言葉を引用する。
「鳥の将に死なんとする、その鳴くや哀し。人の将に死なんとする、其の言ふや善し」は、「鳥の死にぎわの悲鳴には、人の胸をえぐるような悲痛さがこもっている。人が死を前にして言うことばには、真実がこもっている」という意味だ。
その1週間後の1963年(昭和38年)9月26日。ナレーター「信子は予告通り、その一週間後に息をひきとった。享年52歳であった。それから二月ほど後のことである」
葉山の家。おやつに呼ばれた久美子が両親に性教育についての持論を話す。
久美子「五つか六つの頃かな。あたし、パパとママと同じ部屋へ寝ていたでしょ。そして夜中にふっと目が覚めると、ママの寝床が空っぽで、パパの寝床で寝んでいるのを何べんも見かけたわ。それに対して子供の私は、「ママはお化けの夢を見て怖かったんでパパの寝床に入って抱かれて寝ているんだと思っていたの。ああ、天使のように無邪気だったんだなあ、あたしって」
母「ああ、こんな娘が生まれるとわかってたら、あたし、お化けの夢なんか見るんじゃなかったわ」
久美子「大切な問題なのにな。日本の親たちは幼児の育て方について本質的に反省すべきだと思うわ。年頃になってセックスの問題で急に厳しくしつけようとしたって」
久美子は自分の恋人の第一候補でもある孝雄の弟・次郎と協力して自分が和子と孝雄に結婚を決意するよう仕向けると言う。
久美子は次郎と日比谷公園の噴水の前で待ち合わせ、次郎に、和子と孝雄を結婚させる策を指示する。
その後、久美子はTBSを訪ね、孝雄を呼び出し、あんみつ屋であんみつ3杯をおごらせる。久美子は、最近、和子が寝言で孝雄の名前を呼び、「抱いて。あたしを抱いて」と言うのだと嘘をつく。
一方、矢崎商事を訪ねた次郎は、応接室で和子に対して、孝雄が寝言で和子の名前を言い、「君を抱かせてくれないか」とか「キスしよう」と言うのだと嘘をつく。和子はそれを聞いて喜ぶ。
「津軽よされ節」、『葵上(あおいのうえ)』、「高砂(たかさご)」、「婚礼の合唱」
ある日の昼、奥の窓の向こうに東京タワーの見える港区虎ノ門のホテルオークラのレストランで、美枝子は、2億8千万円くらいの資産をもつという父に雪子の再婚を報告し、お祝いに、伊勢丹で売っている13万6千円の秋冬向けの極上の大島紬を贈るよう勧める。
その後、雪子は伊勢丹から届いた大島紬を受け取る。17年、独身生活を続けた雪子は、遺産相続問題を起こさないよう、石田姓のままで矢崎と暮らすつもりだと言う。雪子は矢崎との初夜が不安だと久美子に打ち明ける。
久美子は手を打って室内を歩きながら東北の民謡「津軽よされ節」を歌う。
神社で矢崎と雪子、矢崎の子供3人と、美枝子、和子が立ち会い、結婚式がおこなわれる。
羽田空港のレストランで北海道に5日の予定で新婚旅行に行く矢崎と雪子を囲み、矢崎の子供3人と、和子、八重子が食事をする。雪子は美枝子を連れ出し、二人だけで立ち話をする。
美枝子は和子を家に誘うが、和子は6時にボウリングセンターで孝雄と待ち合わせている。二人は騙されたことに気づくが、和子は騙されたふりをしようと言い、孝雄に結婚を申し込む。
芝公園の電話ボックスから、和子と一緒にいる孝雄が、一人で寂しい美枝子に電話し、婚約したことを報告する。
孝雄と和子の乗ったタクシーのラジオから、世阿弥(ぜあみ)『葵上(あおいのうえ)』の光源氏の愛人であった六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊が破れ車に乗って現れ、光源氏の愛を失った恨みを綿々と述べ、葵上の枕元に立って、責め苛み、幽界へ連れ去ろうとする「枕の段」の地謡が流れている。
運転手(佐野浅夫、1925年8月13日~2022年6月28日)が謡曲をやると聞いた孝雄は、高砂・住吉の松の精である老夫婦が高砂の浦で、夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ、結婚式での定番「高砂(たかさご)」をやってほしいと頼む。
運転手はラジオを切り、「高砂」を謡う。「高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて」
美枝子がテーブルで椅子に座ったベベと向き合ってサッポロビールを飲んでいると、札幌のホテルの雪子から電話がある。雪子は泊まっている部屋の寝台の枕元に赤いバラの鉢が飾ってあることを美枝子に教える。
「思い出したわ、ママ。橋本多佳子[1899年1月15日~1963年5月29日]っていう女流俳人の句に、「薔薇崩る激しきことの起こる如」ってあったわ」
美枝子は「矢崎正二郎とママのバカ、バカ!」と怒鳴って電話を切ると畳に臥せって泣き出す。女中きく子が心配して見に来る。
日活国際会館6階から9階を占めていた日活ホテルで、美枝子の『風は死んだ』出版記念会。美枝子のスピーチを最前列で聴いているのは孝雄と和子だ。
美枝子は両手で指揮しながらリヒャルトゥ・ヴァークナー(Richard Wagner、1813年5月22日~1883年2月13日)作曲の歌劇『ローフングリン』 Lohengrin(1850年8月28日初演)第3幕・第1場において歌われる「婚礼の合唱」Treulich geführtの英語訳「婚礼の合唱」Bridal chorusをゆっくりと歌い始め、一同が唱和する。
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