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ボルネオ島に魅了された私の話
赤道直下に位置する世界で3番目に大きな島、ボルネオ島。多数の先住民が暮らし、生物多様性の宝庫といわれるこの島を初めて訪れたのは、大学4年生の時だった。
ボルネオ島は、3つの国ーマレーシア・ブルネイダルサラーム・インドネシアが領有している。ちなみに、インドネシアではカリマンタン島というそうだ。中でも私が訪れたのは、ボルネオ島の最北に位置するマレーシア領の「サバ」という所だった。
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「The Tip of Borneo」
「サバ」と聞くと、日本ではお魚の「鯖」をイメージするだろうか。マレーシアにあるサバという地域は、アルファベットで「SABAH」、中国語で「沙巴」と書く。
西に南シナ海、北東にスールー海、東はセレベス海に囲まれたサバではお魚がたくさん取れるのだが、私は海よりも・・・ジャングルの奥地へと進んだ。
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サバには約40のエスニックグループ、200以上のサブエスニックグループが暮らしているといわれている。数多くの先住民が暮らすその土地で、私は「ドゥスン(Dusun)」と呼ばれる先住民の村に10日間ほどホームステイをした。その時はプログラムを通しての参加で、グループでの滞在であった。
当時、村までの道路はまだ開通しておらず、熱帯雨林の中を何時間もトレッキング。村の生活は、電気や電波は不安定でほとんど使えていなかった。暗くなったらロウソクを灯して、自然と眠たくなる・・・。村人は、田畑を耕し米や野菜を育て、山菜を採り、狩りをして食糧を得ていた。熱帯ならではの、トロピカルフルーツの木もたくさんあった。
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そんな村での10日間ほどの滞在。マレー語もドゥスンの言葉も話せなかった私だったが、村の方々の温かみに触れ、その土地とそこに住む人々、そして彼らの暮らしに魅了されていた。
その後、日本に帰り大学生活に戻るわけだが、ボルネオ島に魅了されてしまった私の頭の中は、「ドゥスンのことを学びたい・・・!!」と、そればかり。しかし時はすでに大学4年生。周りの友人は就職活動に勤しみ、内定している人もいた。
今から「ドゥスンのことを学ぶために大学院に進学したい。」なんて言ったら・・・。
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結局のところ家族と先生と相談し、マレーシア・ボルネオ島サバ州にある「ユニバーシティ・マレーシア・サバ(Universiti Malaysia Sabah)」という大学の大学院への入学を目指すことになった。志望コースは人類学。
人類学を専攻するとなると長期間のフィールドワークがある。研究地で生活しながら調査をする。「マレー語もドゥスン語も話せない私が、果たして先住民の村で一人でやっていけるのか?」。
そこで先生の勧めもあり、大学卒業後は以前10日間滞在したドゥスン人の村に、3ヶ月ほど滞在させていただけないかとお願いすることになった。
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タピオカ芋(キャッサバ)の皮剥きを学ぶ
ただ当時の村は、電波が不安定で、長期ホームステイの受け入れ体制があるわけではなかったので、日本から村へ伺い、直談判することになった。先生方や日本語ガイドさんのサポートもあり、村の暮らしと言語を学ぶことを目的とし、村の幼稚園のお手伝いをしながら3ヶ月ほどお世話いただけることになった。
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子どもたちと一緒にマレー語を学ぶ
当時、外国人一人で村に滞在する者は私が初めてだったそうだ。そんな何もわからない、言葉も通じない私を引き受けてくださった村の方々には、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。
3ヶ月間、村の方と変わらない生活をし、様々な自然の産物を体に取り込んだが、病気をすることもなく、むしろ少々ふっくらして、そして真っ黒になって日本に帰国した。ちなみに帰国して、3ヶ月ぶりに再会した母の一言目は、「きったな〜い!」であった。それから、大学院進学の準備を進め、ついに入学に至った。
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焼畑にて播種作業
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田植え後に村の家族と伝統のタピオカ酒を回し飲み(私のターン)
大学院では、もちろんドゥスンの研究をしたが、人類学者である指導教官の先生が調査地以外の先住民の村にも連れて行ってくれた。そんな中、自分たちの言葉や歴史、文化、伝統技術を知らない人々や村を目の当たりにしたりもした。
私はサバの人々が大好きだ。そして、彼らの暮らす場所、彼らが受け継いできた伝統文化も大好きだ。修士課程で学んだだけの私に何か大きなことができるわけではないが、それらを残していくことに携わらせていただけたらと思った。
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もう第二の故郷
伝統文化といっても様々ではあるが、私は先住民の村を訪れる中で、生活にとけこんだ手工芸は先住民の文化を象徴しており、後世に伝えていくことが先住民のアイデンティティを守ることにも繋がるのではないかと考えた。
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そして、大学院卒業後、「ボルネオ島先住民の伝統文化を守り伝えたい」と想い、現在は日本を拠点にボルネオ手工芸の推進活動をさせていただいている。
サバに暮らす先住民の職人さん方と連携し、伝統を守りながらもそれらを進化させた作品を一緒に考案している。作品は、サバ先住民の手工芸品を専門に扱ったお店「ラヤンラヤン」にて取り扱いさせていただいている。
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