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死にたくてもいいよ

死にたい、と思うことがある。これは今に始まったことではなく、ずっと昔からそう思うことがあった。だから、はじめて死にたいと思った日のことはもう覚えていない。いつの日からか、死にたい気持ちが心に芽生え、気づいたときには喜怒哀楽と同じくらい“感じて当たり前のもの”になっていた。

だから、いわゆる普通の人は死にたいと思わないということを知ったとき、心の底から驚いた。それと同時に、自分が普通ではないということをぐさりと突きつけられたような気がしてショックも受けた。死にたいと思わないってどんな感じなんだろう、その感覚がどうしても分からなくて、単純に不思議だった。

でもたしかに、わたしだって生まれたときから「死にたい」と産声をあげていたわけではないし、幼稚園児や小学校低学年の頃は死を意識して生活などしていなかった。けれどもう、そんな純粋な心で生きていた頃の記憶なんてないようなもので、今では何をしていても死にたい気持ちが存在している。


わたしは、死にたいと思ってしまう自分が嫌だった。
なぜならわたしは幸せなはずだから。死を望んでいいほど不幸せではないから。衣食住、不自由ない生活をさせてもらっていながら、死にたいだなんてわがままだと思った。もっとしんどい環境で強く生きている人がいると思うと、すぐに死にたくなる弱い自分が嫌だった。

それでも死にたい気持ちは消えなかった。死にたい気持ちを抱えながら生き続けているうちに、自分は死にたいということでいろんなことから逃げているだけなんじゃないかと思うようになった。だって死んでないじゃないか、ともうひとりの自分が言うのだ。死にたいと言いながら死なない自分。それはまるで死にたい気持ちを都合のいい言い訳にしているようで、それでも死にたいと思う自分が嫌だった。


だけど、嫌だ嫌だと思っていても、死にたいと思う自分を責めて罵っても、死にたい気持ちが消えることはなかった。むしろ、さらに苦しくなった。
でも、そりゃそうだなって思った。わたしにとって死にたい気持ちを否定するということは、嬉しくなったり悲しくなったりする気持ちを否定しているようなものだから。当たり前に感じてしまうものを認められず、否定ばかりしてしまったら、よりつらくなるに決まっている。

だからわたしは、死にたい気持ちを抱くことを否定しないようにした。死にたいと思う自分を責めるのも罵るのも、やめた。
肯定もしていないけれど、否定もしない。ただ、死にたいと感じている気持ちに寄り添い、受け入れる。「そりゃ死にたくもなるよね〜」と言うように。

でもこれが実は難しい。わたしもいまだに、そう思えるときと思えないときがある。だけど、死にたい気持ちを否定せず受け入れるような心持ちでいるだけで、自責によって生まれていた苦しみは感じることが少なくなった。結果、苦しみが減ったように感じている。

切迫した“死ななきゃいけない”や衝動による“死のう”などの積極的な死にたい気持ちではなく、心にずっとあるような積極的ではない“死にたい”については否定しなくていいとわたしは思っている。

死にたいと思ってもいいんだよ。
死にたいと思いながらでも生きていていいんだよ。
死にたいのに生きていてくれてありがとう。

同じく死にたい気持ちを抱えているどこかの誰かに、この思いを共有できたらいいな。

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