花緑青

毒性の涙

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改めて、わたしと病気のこととか

以前「わたしのこと」という題で自己紹介をしましたが、それから半年ほどが過ぎたので、改めて自己紹介をしようと思います。 今回は、前回から変わったことと、患っている病気のことについて詳しくお話するつもりです。もしよければ、前回の記事にも目を通していただけると幸いです。 改めまして、花緑青(ハナロクショウ)と申します。 昨年の秋に無事誕生日を迎え、20歳になりました。 19歳だったときのわたしは十の位が変わってしまうことにすごく怯えていたけれど、変わってしまったのは数字だけで、

    • 救われないね

      はじめて精神科に足を踏み入れた日から何年が経っただろう。あの日から人生が変わった、と言ったら大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、何も大袈裟じゃないくらい、精神疾患はわたしの人生に多大な影響を及ぼした。どこまでがその病気のせいで、どこまでが自分のせいなのか、いくら考えても分からないしもう考えたくもないけれど、あるときからわたしの人生は、生活は、精神疾患とともにあった。 この病気になってどれだけのものを失っただろう。当たり前のように手にするはずだった幸せとか、日常とか、未来とか

      • 夢のおわり

        上の記事でも書いたように、わたしは5月末から躁状態に入っていた。入ったばかりのときは、この状態が躁状態と言えるものなのかどうか(もしかしたらただの元気ではないだろうか…)と思ったときもあったが、今なら自信を持ってはっきりと言える。躁状態だったんだよ、と。理由は明白、躁状態が約3週間続いた今、わたしの気分が落ちていくのを感じているからだ。毎日、躁状態の終わりを痛感している。 躁状態というものは決して永遠に続くものではないこと、ちゃんと分かっているのに、渦中にいるとまるで永遠じ

        • くもりのちはれ、躁のち鬱

          長く続いた鬱が終わった。 わたしは春のはじまりである3月〜4月は体調を崩しやすく、例年通り今年もひどい鬱状態に陥った。自分はこの時期に落ち込みやすいということもちゃんと自覚していたし、それなりに心構えもしていたつもりだったけれど、それでもだめだった。 希死念慮にすべてのエネルギーを吸い取られ、一日中横たわっていることしかできない毎日。起きている間は「死んでしまえ」「なんで生きているんだ」「早く死ぬべき」というような思考が四六時中、片時も静まることなく生きているわたしを死へと誘

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        改めて、わたしと病気のこととか

          死にたくてもいいよ

          死にたい、と思うことがある。これは今に始まったことではなく、ずっと昔からそう思うことがあった。だから、はじめて死にたいと思った日のことはもう覚えていない。いつの日からか、死にたい気持ちが心に芽生え、気づいたときには喜怒哀楽と同じくらい“感じて当たり前のもの”になっていた。 だから、いわゆる普通の人は死にたいと思わないということを知ったとき、心の底から驚いた。それと同時に、自分が普通ではないということをぐさりと突きつけられたような気がしてショックも受けた。死にたいと思わないっ

          死にたくてもいいよ

          ”普通”に生きたい

          “普通に生きる” ふつうに、いきる。当たり前のことのようだけど、実は当たり前ではない。普通に生きられるという幸せを、普通に生きていたときは“幸せ”として認識できていなかった。 それが幸せだったということに気づけたのは、それを失ってからだった。 “普通に生きたい” 失ってからというもの、普通に生きたいというのがわたしの切実な思いだ。簡単なことのように思えるが、これがなにより難しい。普通に生きられないことにもう何年も苦しんでいる。 こういう話をするとよく言われることがある。

          ”普通”に生きたい

          匿名さんへのお手紙

          わたしのX(旧Twitter)には、waveboxという匿名のメッセージツールを設置している。 最初の頃は、わたしへの簡単な質問や応援などのメッセージをいただくことが多かったのだが、waveboxを続けていくうちに気づけばそれだけではなく、抱えているつらい気持ちや悩みごとなどの相談もいただくようになってきた。まったく予想していなかったことゆえに、自分でもびっくりしているのが正直な気持ちだ。 ありがたいことに最近では、メッセージを送ってくださる方が増えたことによってわたしの返信

          匿名さんへのお手紙

          “死”という選択肢

          生きていく中でなにか選択を迫られるとき、常にわたしには“死ぬ”という選択肢が存在している。いつからだろう。はじめて本気で自死を意識したときからだろうか。あるとき、ふっと気づいてしまったんだと思う。「そっか、死ねばいいんだ」と。 自分の中に死という選択肢が増えてしまってからというもの、わたしはちょっとしたことでも死にたくなってしまうようになった。多分、死が身近なものになりすぎているのだと思う。 たとえば、生きていると頑張らなければいけない場面というのがあるが、そのときも「頑張

          “死”という選択肢

          希死念慮はそこにいる

          もがけばもがくほど深く溺れていってしまうような鬱からはどうにか抜け出せたようで、今は鬱でも躁でもない曖昧なところをぷかぷかと浮かんでいる。それは心地がいいように思えて、実はそうでもない。どっちつかずな状態がなんだか気持ち悪いのだ。これをもし“穏やか”と呼ぶのなら、あんなにほしかったはずの穏やかさを受け付けなくなっていることを少し悲しく思う。 鬱のときはあんなに死にたかったのに、今はそこまでではない。死ななくちゃいけない!というような切迫した希死念慮は過ぎ去ってくれたようだ。

          希死念慮はそこにいる

          置いていかないで

          4月になった。春を感じるぽかぽかとした陽気が、気持ちいいけれどどこか落ち着かない。春は、世の中全体が一歩前に進んだような空気感があって、わたしはまた一歩分、置いていかれたのだなあと感じる。 数年前までとなりを歩いていたはずのあの子は、今は二歩、三歩、いや、もっと先を歩いている。わたしが転んだり、立ち止まったりしている間にも着実に進み続けていたのだからあたりまえだ。 できることなら一緒に歩いていたかった。けれどもう、わたしとあの子では歩いている道が違うのかもしれない。わたしの

          置いていかないで

          もう限界

          限界だ、限界だって思うのに今もこうして生きてしまっているせいで限界だということを証明できない。死ねば、限界だったんだねって認めてもらえる、わたしがほんとうにしんどかったんだってことを証明できるのに。 って、わたしは一体、誰に認めてほしいんだろう。分からない、ただ自分のしんどさが嘘じゃなかったって、口だけじゃなかったって、自分に証明したいのかもしれない。しんどくてなにもできないわたしを「甘えんな」と責めることしかできない自分自身に。 苦しい、なんでこんなに苦しいのか分からない

          もう限界

          幸せになっていいんだよ

          幸せになりたい。幸せになりたいはずなのに、幸せを感じるとどこか落ち着かなくなるのはなんでだろう。幸せって思ったとき、まるで心のバランスをとるみたいに、わざと落ち込むようなことを考えている自分がいる。幸せでいることが怖いのか、はたまた許せないのか、幸せを幸せのままにしておけない。確証はないけれどやってくるであろういつかの苦しみに怯えて、今の幸せを抱きしめることができないのだ。自分が幸せになることをいちばん妨害しているのは、自分自身なのかもしれないなと思う。 ずっと不幸だった、

          幸せになっていいんだよ

          おいしいって笑うため

          食べること=悪という思考が消えない。 食べている間ずっと、とんでもない罪を犯しているような気持ちになる。食べることが正しいことだと言われても、定着してしまったこの思考は深くまで根付いていて、そう簡単に上書きされない。だからどうしても、食べている自分を許せない。 それなのに一日中食べもののことを考えてしまう執着と、人一倍ある食欲。こんな自分が気持ち悪くて仕方がない。 食べることが唯一の治療方法だから、食べなくてはいけない。食べずに痩せてしまったら、また入院することになるからだ

          おいしいって笑うため

          繰り返す日々

          起きているから思考が頭の中を騒々しく駆け巡るのに、それでも寝たくない夜がある。明日が来てほしくないから、寝るのを先延ばしにして夜を引き延ばして、今日に居座ろうとする。寝ても起きても朝日は昇って明日はやってくるのに、わたしは今晩も“寝ない”という無意味な抵抗をしてしまう、このまま夜の闇にとけて消えてしまえたらいいのに、とかばかなことを思いながら。 明日が来てほしくない。明日もまた同じような日々を繰り返すだけなのだと思うと、一体なんのために生きているのだろうと漠然とした虚無感に

          繰り返す日々

          失った普通

          一粒ひとつぶが光に照らされ、つやつやと輝く。お椀によそわれた白ごはんを目の前にしたわたしは、心の根っこ、深いところから熱いなにかがふつふつと湧き出てくるのを感じた。勢いよく湧き出てきたそれは一瞬にして頭からつま先まで身体中に浸透し、そして脳みそは信号を出す。 「食べてはいけない」「気持ち悪い」 湧き出てきたものの正体は、食べものに対する燃えたぎるような嫌悪感だった。 頭が勝手にカロリーを計算し始める。一杯約150g、約230kcal。 そうなるともう、目の前にある白ごはん

          失った普通

          自分に疲れた

          当たり前のことだけれど、生きていく限り自分との付き合いが続くわけで、ふとしたときにそのことを意識して途方もない気持ちになります。 人生、自分でどうこうしなければ、どんなに生きていたくなくても生きてしまう。終わりが見えないくらい先まで、自分と一緒にい続けないといけないわけです。もういいよ、じゅうぶんだよ、と逃げ出したくなります。 わたしはわたし自身に疲れてしまいました、わたしとしてこの世界で生きていくことに限界を感じています。それはもう、何度も、何度も。それなのに、人生はまだ

          自分に疲れた