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希死念慮はそこにいる

もがけばもがくほど深く溺れていってしまうような鬱からはどうにか抜け出せたようで、今は鬱でも躁でもない曖昧なところをぷかぷかと浮かんでいる。それは心地がいいように思えて、実はそうでもない。どっちつかずな状態がなんだか気持ち悪いのだ。これをもし“穏やか”と呼ぶのなら、あんなにほしかったはずの穏やかさを受け付けなくなっていることを少し悲しく思う。

鬱のときはあんなに死にたかったのに、今はそこまでではない。死ななくちゃいけない!というような切迫した希死念慮は過ぎ去ってくれたようだ。だけれど、希死念慮自体は消えてはくれないようで、心の奥底で息を潜めている。姿を表し襲ってこないだけで、その存在は今も常に感じている。だから、穏やか?な今も「死にたいなあ」とぼんやりと考えることはある。でもそれと同時に「死ねないだろうなあ」とも考える。

自ら死んでしまうとき、それはきっと死ぬ怖さよりも生きる怖さのほうが大きくなったときだと思う。死ぬ怖さというのは、失敗する怖さというのも含めて。わたしがこの命を投げ捨てようとしたときはそうだった、このまま生きてしまうことのほうが怖くて、死ぬほうがましだと思ったから死のうとした。今思えば、鬱によって死への恐怖心が薄れ、その分生きることが恐ろしく感じられていたようにも思う。

だけれど今は、生きる怖さよりも死ぬ怖さのほうが大きい。死ぬのが怖いというより、失敗して変に生き残ってしまうのが怖い。そうやって冷静なところが残っているから、今もこうやって生きてしまっている。死ぬときはきっと「今なら死ねる」「今死ぬしかない」というような衝動で行動に移すのだ。そのとき、失敗したときのことを考える冷静さなんていらない。
今のわたしは、死ぬには絶望が足りない。冷静さを失うほど絶望しきっていない、だから死ねないだろうなあと思う。

でも、死ねないからといって希死念慮がなくなるわけではない。多分もう希死念慮とはこれから一生、それこそ死ぬまでは付き合っていくもので、消えることはないのだと思う。
どうせ生きてしまうのに、死にたいと思ってしまう。そのせいで、生きていることが=死ぬことすらできないに変換されて罪悪感を抱いてしまう。
今もなお存在し続けている希死念慮が、次いつ大きな衝動となり襲ってくるかなんて分からない。今だって束の間の穏やかさだ。
どうせ生きてしまうのなら、死にたいなんて思いたくないのに。希死念慮はすぐそばにいて、わたしの心の隙を狙い続けている。

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