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”普通”に生きたい

“普通に生きる”
ふつうに、いきる。当たり前のことのようだけど、実は当たり前ではない。普通に生きられるという幸せを、普通に生きていたときは“幸せ”として認識できていなかった。
それが幸せだったということに気づけたのは、それを失ってからだった。

“普通に生きたい”
失ってからというもの、普通に生きたいというのがわたしの切実な思いだ。簡単なことのように思えるが、これがなにより難しい。普通に生きられないことにもう何年も苦しんでいる。


こういう話をするとよく言われることがある。
「普通って何?」と。
たしかに、普通というのは人によって違うものだ。考え方だけではなく、育った環境や今の生活状況などにより、想像する普通は異なってくると思う。人それぞれ、いろんな普通がある。だから、普通って何?という問いにはひとことでは答えられない。

だけど、“普通”というものは、みんなそれぞれなんとなく思い描けるものだと思う。明確なひとつの答えにはならないが、自分にとっての普通というものは分かるはずだ。

もちろん、わたしにもある。
そして、わたしの思い描く“普通”から今のわたしはかけ離れているのだ。それがつらい、苦しい。
つまり、“普通に生きたい”というのは、わたしにとっての普通。誰かにとっての普通とかではなくて、わたしの思い描く、普通。


ここまで書いていて、自分でも囚われていることを自覚している。自分がいまだに、過去の普通――とっくのとうに失い、今となっては理想となってしまった普通――に囚われていることくらい分かっている。
普通なんて人それぞれ違うほど曖昧なもの、そんなものに囚われて苦しんでいるなんてあほらしいかもしれない。それも分かっているのだ。

だけど、今のわたしにとっての普通を“普通”として受け入れられない。病気によって、当たり前のことが当たり前じゃなくなった。普通だったことが普通じゃなくなって、逆に普通じゃなかったことが自分にとっての普通になった。なにもかもが変わった。わたしはその、変わった普通を受け入れられないのだ。

変わってしまった自分、多くを失った自分。
それでも昔の元気だったわたしが思い描く普通が、いつまで経ってもわたしの“普通”なのである。

だからわたしは、普通に生きられないのが苦しい。

わたしの思い描く普通が、過去のものから今のものに変わらない限り、新しい普通を受け入れない限り、わたしは苦しんだまま、普通に生きたいと願うのだろう。

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