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#38「よそ見」をする力~郡司ペギオ幸夫『天然知能』より~|学校づくりのスパイス

 今回は前回の連載をふまえ、AIとは異なる人間(や生物)に固有の知の性質とはどのようなものかについて、理学者の郡司ペギオ幸夫氏による『天然知能』(講談社、2019年)を手かがりに考えてみたいと思います。この本は本連載でいつも取り上げている本に比べるとちょっとむずかしく、筆者も理解するのに何度も繰り返し読む必要がありました。

 けれども「百家争鳴」状態のAI論争において、問題の本質をこれほど徹底して突き詰めて考えている著作を筆者はほかに知りません。

「一・五人称」の知性

 本のタイトルの「天然知能」とは、三人称の知性としての「自然知能」、一人称の知性としての「人工知能」と弁別される「一・五人称」の知性であるとされます。この「天然」は、「天然資源」や「天然記念物」の天然ではありません。「あいつは『天然』だよね」というときの「天然」に近いものです。

 まず、自然知能ですが、主観的な経験と切り離して成立する知が自然知能です。「世界にとっての真なる知識を模索し、常に真なる知識に近いと思われる世界」(26頁)を志向するとされます。自然科学をイメージするとわかりやすいかもしれません。

 一方で「知覚したデータだけから思考する=計算する」(28頁)のが人工知能であるといいます。プログラムによってデータを収集し、そのデータの集まりとして世界を理解する点がAIの特徴です。AIにとって知覚されないものは存在しないのと同じです。

 これらに対して天然知能は「知覚されないものに対しても存在を許容する能力」(32頁)と定義されています。「想定外の何者か、予期し得ないことが待ち構えているかもしれないにもかかわらず、その『あなた』と対面している」(32頁)という意味で、「天然知能」は一人称と二人称の間の一・五人称の知と呼ばれています。

 たとえばこの本で紹介されているのは「森のトイレ」と揶揄される「オオウツボカズラ」という植物です。この植物はウツボカズラという食虫植物が大型化したものと考えられるのですが、小動物がオオウツボカズラにまたがって蜜をなめると、蜜に下痢誘引剤が含まれていて排泄をもよおし、それを栄養源に成長しているそうです。この進化は食虫植物が大型化した結果、たまたま小動物を呼び寄せて糞が排泄される結果となり、生存チャンスを広げたものと推測されるそうです。

 このように、「自分の見ている世界のほかにも何かあるんじゃないのか?」という「向こう側感」を持ちながら世界に対面していくのが天然知能であり、それは「感覚が視覚などの単一の感覚に固定されず、複数の感覚が働く」(98頁)ことによって可能となるはずであると氏は指摘しています。


郡司ペギオ幸夫『天然知能』講談社

AI化する人間のリスク

 前回の連載で取り上げた養老孟司氏の『AIの壁』では、人間の知を特徴づけるキーワードとして「五感を通した経験」「欲望の存在とその変化」「思い通りにいかないことの幸運」「分からないことの意味」といったものがあげられました。

 郡司氏の天然知能の考え方を重ねてみると、それらが相互につながって、生物特有の知の像として、一つの輪郭を帯びて見えてきます。

 人が一つの情報源に頼らず感覚器官を複合して事物を認識するとき、その情報の多様性や不整合から、経験外の存在についての直感が得られます。そうした「割り切れなさ」や「分からなさ」を原動力に、主体が未知の対象にも開かれることによって、自らの意思や欲望をもつくり替えてしまうのが人間(生物)の知の特徴です。

 筆者も過去を振り返ってみると、昔抱いていた理想など今思えばつまらないものでした。失敗を重ねて行き詰まり、あちこち「よそ見」をしながら、それなりに活路を見出して生きてきたのですが、今ではそうであったからこそ人生もけっこうおもしろくなったのではと感じています。

 そしてまさに、こうした「よそ見」によってこそ、人間の文化や科学も発展してきたし、生物は環境変動を何度も乗り越えてきたはずです。

 AIの特性を論じる際よく引き合いに出される命題に「将棋盤をひっくり返す発想をAIは思いつくことはできない」というものがあります。ある局面で発想を転換させることができるのは生物の特徴であり、頭でっかちのAIには「よそ見」はできないはずです。

 郡司氏は「天然知能」の性質を端的に「ダサカッコワルイ」と表現しています(231頁)。カッコいいというのは自分の想定が実現することで、それが失敗するのが「カッコワルイ」こと、「ダサい」とは自分が想定しないさまざまな外部が、意図に関係なく入ってきてしまうことだと述べます。

 確かに「将棋盤をひっくり返す人」も、「森のトイレ」もあまりかっこよくはありませんが、しかしそれこそが生物に特有の知のカタチであるというのです。

 ひるがえって現在の学校教育のあり方を考えてみると、このように「よそ見」をして想定外のことを活かす余地は、ますます少なくなってきてしまっているのではないでしょうか? 学校現場でよく使われる「具現化」という言葉は、自分の頭に思い描いた抽象概念をリアルな世界で実現することを意味します。

 郡司氏は次のように述べます。「今まで私たちは、あまりに人工知能的知性を、人間に課し過ぎていたのではないでしょうか? 『知覚可能な全てを考慮して、総合的に判断する能力』、これのみを追い求めてきたのではないでしょうか。しかし、もはやそうしたことは人工知能に任せておけばよい(中略)今はまさに天然知能を全面展開するときなのです」(24頁)。

 「自分の見えていないものがたくさんあるはずだ」という感覚を高め、日々の仕事や暮らしのなかで活かしていくことができれば、私たちの生活はずっと創造的になるだけではなく、その人の目に世界はもっと素敵に映るようになるのではないでしょうか?

【Tips】
▼本当にダサカッコワルイ郡司氏の勇姿はこちら。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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