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#52「四角い学校」のリスク~藤森照信『藤森照信 建築が人にはたらきかけること』より~|学校づくりのスパイス

 前回は自然を鏡にすることで、私たちはより安心して変化を受け入れられるのではないか、という提案をしてみました。しかし自然とは、人にとって常にそうした「心のよすが」であったばかりではありません。天変地異の経験や魑魅魍魎の伝説にも象徴されるように、自然には得体の知れない、畏れの対象としての側面が昔も今もついてまわります。

 今回は『藤森照信 建築が人にはたらきかけること』(平凡社、2020年)を手がかりに、こうした「未知の存在としての自然」と教育との関係について考えてみます。

言葉にできない自然

 この本の筆者である藤森氏は建築史学者であると同時に、自身で建築物を手がける建築家でもあります。「建築界以外の人が、私の仕事に関心を持ってくれてるのは、自然を建築に取り込む表現に関心があるからでしょう」(121頁)と本書では語られています。その背景には自然信仰があり「山を核にして自然のなかには大事なものが宿っていて、最期、死んだら山に帰っていくんだと思っています」(65~66頁)とも述べられています。

 確かに氏の作品を見ると、一般の建築のイメージからすると、ちょっと違和感のある、ヘンテコなかたちをしたものが多数あります。筆者は氏が建築家として最初に手がけた、長野県茅野市にある神長官守矢(じんちょうかんもりや)史料館に行ったことがあるのですが、中に入ると壁の一面に無数のシカとイノシシの頭が飾られていて、ちょっとギョッとしたのを憶えています。

 では、どのようにして自然のモチーフを建築に取り込もうとしているのか? これについて、氏は多くを語っていません……否、次のように語ることを避けているのです。

 「当たり前ですが、理論化は、言葉によってしかできない。言葉は、人間が生み出した最も抽象的なもののひとつです。一方、ものをつくることは自分の中の酵母のようなものがぐずぐずとした発酵状態にあって、そこから生まれてくる。言葉で理論化することは、そこに強い光を当てるようなもので、だいたい酵母は死ぬ。そうした建築家を歴史家として見聞きしてきたから、自作の理論化には長年、用心してきました」(106頁)。

藤森照信『藤森照信 建築が人にはたらきかけること』平凡社

「四角い」学校

 ところで、きわめてアバウトな言い方をすると人間のつくったものの多くは、四角いかたちをしています。四角形という形状が最も制作しやすく活用も容易だからです。学校という場所も、校舎、教室、黒板、教科書等々、四角形を基調としたものがほとんどであるといってもよいのではないでしょうか?

 そして、この「四角くすると扱いやすくなる」ということは、人の思考にも当てはまると筆者は考えます。四角は大体タテとヨコの軸で境界をつくっていきます。このかたちで物事をイメージすると、いろいろな現象の定義が容易になり操作しやすくなるのです。

 わかりやすいのが教員育成指標です。横軸に能力をとり、縦軸に時間(成熟段階)をとって、四角い枠組みに当てはめると説明が容易になり、研修体系等も作成しやすくなります。ただ問題は……現実の教員はそんなふうに仕事したり成長したりはしていないということです。実際の人間はもっと行き当たりばったりで紆余曲折のなかを生きています。

 一方で地形でも草木でも動物でも、自然のつくり出したものに四角いものは、ほぼありません。藤森氏の建築作品も実はあまり四角くはありません。

 ぜひ、ちょっと検索してみてほしいのですが、氏の作品は、山のようなかたちをしていたり、屋根の上に木が植わっていたり、飛行船のような格好で宙づりにされていたりしていて、普通の建造物のイメージからすると、ちょっと唐突な感じを受けるのはこのためなのかもしれません。

 そして四角くないもの――子どもはその最たるものでしょう――をむりやりに四角に当てはめてしまうと、本来のしなやかさを失っていく可能性があります。杓子定規で融通の利かないことを「四角四面」(英語でも“Square”)と表現することがありますが、言い得て妙です。

 今日の社会環境からすると無理からぬところもありますが、学校は昨今ますます四角くなってきているように感じてしまいます。何がよくて何が悪いのか? 児童・生徒は何を学んでどう成長するのか? 他人をどう呼びどう接すべきか?といった指標や規準で人の思考や行動が固められた学校の中では、それ以外のものを感じとったり心を配ったりすることが、感覚的に少しずつむずかしくなってくるのではないかと筆者は危惧します。

 たとえば、世界の不条理や社会の矛盾、性や愛憎、そして死といったものはいずれも、私たちが生身の人間として生きる営みそのものの一部ですが、これらを指標や規準のなかに押し込めて理解することは不可能です。

「わけのわからないもの」とのふれ合い

 藤森氏は「科学的な思考が自然を捉えるようになるのは生態学においてですが、そう古いことではない。自然というわけのわからないものの全体は、未だに捉えられていない」(121頁)と述べています。自然を「わけのわからないもの」と捉え、また理論化することも回避しつつ、氏は自身の建築に自然を取り入れようとしてきたようです。

 宮崎駿監督の映画「もののけ姫」にも象徴的に表現されているように、日本には昔から、人里離れた辺境の地やそこに住む人々や動植物と、畏れを感じつつも一定の接点を持って生活してきた歴史があります。他方で「わけのわからないもの」は排除してしまうのが今日の学校教育の特徴ではないでしょうか?

 自然への畏れや憧れは、人が生きる営みの中核にあるものと筆者は考えます。学校という場が生身の人間として生きる感覚から遊離してしまうとすれば、それは子どもにとって不幸なことです。わけのわからない「自然」をうまく取り込むことができれば、学校の教育活動ももっとスリリングなものになるのではないかと筆者は考えるのですがどうでしょうか?

【Tips】
藤森さん独特の自然観がおもしろい!

「土、木、草、石―自然素材の自由なアプローチ 藤森照信インタビュー」MATERIAL、2016年10月29日

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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