「 情報の引力に感情を委ねない/感覚を巻き込まない感情の曖昧さについて/祈りとは 」2023/08/22

「(死を悲しむのは)情緒的な感情というより、一種のモラルです。」
生や死について思いを巡らすことが多かった私。
この簡潔な一文は衝撃的だった。

今の私は己の死というものへの恐怖が薄いことに気づいた。
この表現は一見不思議だが、「死=怖くて悲しいこと」という解釈が深く根付いており、自分にも当たり前にその公式が成り立つと疑わずに過ごしていた。

宗教や、倫理学、哲学、そんな分野に惹かれる。
自分なりに「生死」について人知れず言葉を拾い集め、思いを巡らせてきた。

やがて、ふと、「死」は何も怖くないんじゃないか、と思うに至った。
冷酷かもしれない、それでも生まれた感情の主として責任を持ってこの思いを大切にしたいと思うのだ。

「怖い」「不安」「嬉しい」「楽しい」「落ち着く」
感情は誰かの意向に沿わせるようにして結びつけることではない。
自分以外の誰にもコントロールをさせてはいけないはずなのに、
自分の感情は自分だけのもののはずなのに、反している事実があまりにも多すぎやしないか。どうだろう。

「流行」というものにも昔から疑問がある。
流行に乗れてる方がいい?素敵?
その思考にどうしても馴染めないでいる。
流行だからといって、自分の好みに重ならない場合もあるはずで、
流行に乗っている人は、翻って自分の好みや意志が極端に弱いことの表明になっていないだろうか。それって愚かとは言わないのだろうか。
その素敵さがどうしても私は分からない。

周りの皆が「楽しい」というから、きっと楽しいはずだ。
その入口から入ったら「楽しい」に自ずと傾く可能性の方が高まるのではないか。
引っ張られてしまうのではないか。少なからずそこに引力は生まれていると思う。
なによりみんなが「楽しい」というのなら、その感情の波の高さがどうであれ「楽しい」といっておいた方がきっと楽だ。

そんなことを考えると己の感情って一体何なんだろうと思ってしまう。
誰かの模倣に過ぎないのではないだろうか。
色々な情報から発せられる引力に知らないうちに引っ張られて感情は動いているのではないか。

模倣で作られた私の感情。そもそも「私らしさ」なんてものは存在しないのではないか。
まして、情報過多の時代、「私らしさ」を確立するなんてほぼ不可能に近いのではないか。

「熱い」「痛い」「美味しい」他の感覚を巻き込む感情と
「幸せ」「好き」「いいな」「美しい」等という感覚器官を巻き込まない感情とはしっかり峻別すべきなのかもしれない。
感覚が作動しないからこそ、本当の自分の情動なのか、はたまた周囲の引力によって引き起こされた情動なのかはっきりしないところがある。
とても大切な感情に思えるけれど、想像以上にあやふやで心もとないものだ。だからこそその手綱を他者に奪われる可能性も大いに孕んでいるということ。忘れずにいたい。

ヨガのインストラクターを生業にしている。
最後のポーズ、シャバアサナ。屍のポーズというものがある。
仰向けになり目を閉じる、楽に体を広げ、ヨガマットに全てを委ねる安らぎのポーズだ。5分ほどの長めのキープを行う。

静かに横たわるお客様を前に、インストラクターの私は密かに手を合わせ目を閉じる。
いつからか祈りをするようになった。
「お客様が幸せな日々を送れますように」
「幸福が訪れますように」
「辛く苦しいことが少しでも軽やかになりますように」
「どうか健康であり続けますように」
そんなことを胸に抱きながら手を合わせていた。

この密かな祈りに何か効果があるとは思わないけれど、この時間が来るたびに最近の私は人知れずどうしようもない葛藤に駆られてしまう。

そもそも幸せってなんだ?
辛く苦しいことがいつかの大きな幸福に繋がるかもしれない。そうしたら取り除かれない方がいいのかもしれない。
健康で長生きすること=幸せではないかもしれないな。

そして全ては偶然に支配されていることだ。
どんなに願っても祈っても何も変わらないような気持ちは拭いきれない。
あまりにも無力だ。

そんなことをぐるぐる考えているとあっという間に終わりの時間がやって来てしまうのだ。

「死」や「困難」が不幸でも恐怖でないとしたら、全ては偶然であり自身の選択は無力だとしたら、私は一体何を祈ればいいのだろう。

崩れていく。虚しさ。
祈りとは何だろう。
そんなことを考える。

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