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「福は内、鬼も内」!?...節分に現れる「鬼」の正体ー柳田國男を読む外伝_01ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

①『柳田國男全集 2』ちくま文庫(1989)
②『柳田國男全集 4』ちくま文庫(1989)
③『折口信夫全集 第十五巻』 中央文庫(1976)

序論

 「鬼嫁」「餓鬼」「鬼婆」「鬼上司」.....
近頃でも尚、耳にすることができる接頭語としての「鬼」は、談笑時に友人や上司らのぎこちない笑みと共に発せられる言葉というイメージがどうしても先行してしまいます。鬼滅が出てこないあたり、ジェネレーションギャッ(ry

「鬼かわ」やら少し年季の入った「鬼友」といった、いわゆる若者言葉に掛かれば、そのイメージも緩解する訳ですが、やはり、どうしても畏怖の念を感じてしまうのは、我々の鬼に対する固定観念の強さを物語る一つの指標とも言えるかと思います。

そうした観念も相まってか、節分の豆まきを見て、「あれ、鬼への虐待じゃん」「ギャン泣きする子供」などと嘆く声もチラホラと聞こえます。

これも時代的な要請かと嘆息する人がおりましょうが、私が幼少の頃から普通に耳にしていたことなので、最近の現象と片付けるのもあじけない。

といつもならここで、またしても何も知らない柳田國男先生を召喚し、本論催促コールという定番ルートをぶちかますのですが、今回はタイトルにもある通り、柳田國男を読む『外伝』でございます。

まぁ、「民俗学で鬼と言えば折口信夫博士でしょ」と暗に宮本常一氏からのご紹介があり()、尚且つ、私も彼の書物を読んでいて、チェックをつけていた所であるもんですから、いっそ、ここでメモ録を増やそうと。そいで、読者諸賢の皆さんに1mmでも豆知識をご共有しようと思い至りまして、今回は、柳田國男氏を通して、折口信夫氏を召喚いたします(白目

昔話から今日に至るまで、魔改造()を加えられつつ、我々の生活に根強く生きる「鬼」について、少しお伺いしていきましょう。

本論

節分の鬼

 「福は内」「鬼は外」は、節分において、スーパー、メディア等で喧伝されてはおりますが、「鬼は内」や「鬼も内」というワードを聞いたことはあるでしょうか?鬼を祀る寺社の祭り行事で見聞することもありますし、今は聞けますかね?古い商家さんなんかも「鬼は内」とよく掛け声をしていたものでした。

室町頃から発祥した、狂言の『節分』でも、今日に近しい、豆撒きや厄払いを伺うことができます。

私も学生時代に見学した覚えがありまして、「これは蓬莱の鬼でござる」と隠れ蓑等で正体を隠す鬼に対し、留守番の女房がフルシカトするさまには、クスッと笑いが起きていました。

閑話休題。あれこれ女房を口説き出す鬼にあって、正体を現すと女房は恐がり出す。やりとりしている中で、女房側はそれが本意なら宝物をくれと。鬼はそれならと身につけていた蓑や小槌を渡し、これでわしは亭主じゃと慢心すると「福は内」「鬼は外」と女房は鬼を追い払う...

と確かそんな内容で、当時も「まぁー鬼物語のテンプレやな」ぐらいの感想だったと記憶しております。しかし、ここには、当然蓬莱といった外国の文化等が混在していたとはいえ、我が国の風習文化にも繋がるヒントが眠っておりました。

福をもたらす鬼について

 まずは鬼が宝物を所持していた点。これは、全国の関連ある寺社や古い商家さんの節分の文句にも繋がるもので、鬼とは恐ろしいだけの存在ではなく、宝物というか何かめでたいものを持っていると考えられていたことが伺えます。

折口氏はここで、武家の節分行事とりわけ九鬼家の異式を甲子夜話から引用しています。

年先の事なり御城にて予九鬼和泉守(隆國)に問には世に云ふ貴家にては節分の夜主人闇室に座せば鬼形の賓來りて對座す小石を水に入れ吸物に出す鑿々として音あり人目には見えずとこの事ありやと云しに答に拙家曾て件のことなし節分の夜は主人恵方に向ひ座に就ば歳男豆を持出尋常の如くうつなり但世と異なるは其唱を鬼は内福は内富は内といふ是は上の間の主人の座せし所にて言て豆を主人に打つくるなり次の間をうつには鬼は内福は内鬼は内と唱ふ...

③ 148頁

家来らが豆撒きをしていたようで、これも奇習として史料には記録されていますが、「鬼は内」といった観念は案外広く共有されていたことの何よりの証左と言い得るでしょう。

十返舎一九の『貧福蜻蛉返』でも興味深い咄があるようで、節分の晩に独身者が「鬼は外」と定型句を発していた所、鬼が入ってきた。独身者は「いや、鬼は外と言ったろ?」というと鬼は「いや、おれは天邪鬼だから」と返す。そこで独身者は「金は欲しくない」なの「病気になりたい」なのオール逆張りを展開すると家が大変栄え、「鬼も一生居てくれ」と言うと鬼はそそくさと退いたとのこと。

「鬼は内」でよく聞く鬼は天邪鬼だからという理屈は昔からあったようで、この訪ね来る者が福をもたらすという役割も鬼はしっかりと担っていたことがよく理解できます。

宝物の蓑笠で身を覆う鬼

 では、狂言にあったもう一つのヒント、鬼が蓑笠を纏い、それを宝物としていたことについて、少し掘り下げてみたいと思います。

折口氏は、そもそも蓑笠で体を隠すのは、太古からの鬼の資格だと考え、日本紀を引用しつつ、しばしば巨人として恐れられた素戔嗚尊も、天から降った際に青草を結束ねて以て蓑笠としていたことを指摘しています。

それより以来、世に蓑笠を著、以て他人の屋の内に入ることを諱む、又束草を負ひて以て他人の家の内に入ることを諱む、此を犯すことある者をば、必ず解除を債す、此れ太古の遺れる法なり。(日本紀)

③ 149-150頁

蓑笠を覆い訪ね来る者というのは、小正月頃の地方行事になっている有名なナマハゲや東北のナゴミタクリ、西日本にもみえるホトホト、カセドリといったもので、今日でもその例を窺うことができます。

ナマハゲなんかは五鬼の伝説が言い伝えられているようですし、真偽はともかくとして、蓑笠を覆う者がしばしば鬼と目されつつも、それを迎え入れる風習が古くからあったようですね。

豆まきについて

豆は何のために撒くのか。鬼を打つためであると解釈してゐる。或はさうかも知れぬが、外にも解釋出來るのである。まう少し正しさうな解釋が出來れば、その方に從ふのがいゝ訣である。豆は、宮廷などでも、小豆を以て手を洗ふ水の代りに、古くから用ゐられた。此は、洗ふといふよりは、小豆に穢れを移すことになるのだ。節分の豆は、小豆を用ゐなくなつてゐるが、其で身を撫でゝ、舊冬の穢れを持つて行かせようとした意義が、更に移動して鬼の食物、鬼打ち豆といふ考へを生じたのではないか。

③ 145頁

 いわゆる追儺の儀式から読み解いたのでしょうが、これはなかなかの慧眼ですね。戦勝記念かなんかで小豆を貰って物思いに耽っていた柳田氏がここまで考えていたかは謎ですが←、小豆を日本人が神聖視していたというのは民俗学で屡々指摘されていることです。つまりは何か特別な力が宿っていると。その派生で今日の鬼払いの豆ができたか?古代中国の風習でも節分の豆は確認できるが、こちらは炒豆を井戸に撒くもので、輸入されたかも知れぬが、豆しか似ていないと折口氏は指摘しています。

昔は節分になると、厄落としといって、穢れたものを捨てる風習があったそうです。元はといえば、節分は旧暦でいう大晦日にあたる行事です。つまりは年越しにあたって、穢れを大いに祓うといった観念が一層強かったことは容易に想像がつきます。だから、穢れを落とすのにも磨きがかかっていたのでしょう。

結論

 我々が日頃から使う「鬼」にも、実は、深い風習の文化が関係していたようです。

こうなると、巷で騒がれる若者言葉や時代の流れに動揺する節分といった話題は、何だか霞んで見えてきますし、今日まで様々な魔改造を施されつつも、尚根強く生き長らえている秘訣を垣間見ることが出来たのでは私だけではないはず...

民俗学学徒なら、察しがつくように、折口氏は、ここから来訪神ないしまれびとといった彼独特の観念論に持っていくわけですが、ここで彼の好き嫌いが別れていくのかもしれません。彼の鬼解釈に批判が入るのも主にここからなのか...

まぁ、ともかく外伝なので、軽くメモして早く終わらせようと思っていましたが、備忘録含め6,000字超ってお前...。要領悪いって周りから言われるだろ?...はい、仰る通りです。

柳田國男を読むシリーズもあと2,3回ほどで終わると思いますんで、外伝はうーむ。正直、折口氏にしても、嫌いではないのですが、あまり記憶に残っていないというか、そこまでメモ欲が湧かないもので、まぁ、気が向いたら、更新いたします。こんな不甲斐ない低学歴の記事を読んでくださる読者諸賢の皆さんには、ほんと頭が上がりませんね。はい...一生下げてろ(小声

ということで今回はここまで。ではでは。ホトホトならぬヘトヘト。


・備忘録

鬼に関連する話は、所謂山人をまとめた「山の人生」などに、広大なテーマの下、僅かながらに収録されている。また、その論文が収録されている全集の中には、柳田國男論で、最も争点の一つとして挙げられる漂泊民・被差別部落民に関する論文が掲載されているのである。

私としては、周りからあれこれ言われる柳田國男に先入観があったので(というか植え付けられた?)、こうした問題をそれも明治・大正期から実に鋭く論究していたことに意外性を感じた。

小野宮始祖伝説等の由来伝説が豊富な木地屋や職人・神主的性質を帯びていたイタカ・サンカらは、足利期からその必要性に迫られ、城下へ集住し...仔細にそれを述べる柳田は、後にこれに触れなくなった柳田と異なった印象を受けるという指摘も多い。しかし、一部の専門家が指摘するように、彼の民俗学の出発点に密接に関係していたことは容易に読み取れ、低学歴ながら、柳田はたえずこの問題を念頭に置いていたのではないかと愚考してならない。今、パッと思い浮かべてみてもいくつかその例証を挙げてみることができる。

(神職の起こりについて)...これほどにも弘く全国の各府県に、散らばりかつ栄えている門党というものも異数である。...現にまた祭祀と縁のない職業にあるものも多いけれども、その幸福なる原因として想像し得べきものは一つしかない。すなわち移住が彼等の家の数を増加させ、優秀なる信仰がまたその移住を可能にしたとより、他には考えてみようもないのである。...どこにそういう供給源があるかは別問題として、とにかくに同じ目的をもって移住漂泊している宗教業者の数は、現在もなお相応に多いのである。彼等はまだ定住の地を得ないために、すでに土着した人々からは差別視せられている。そうして両者の地位は世とともに懸隔している。以前はそうでもなかったということに心付くこと、これが沿革を明らかにする一つの秘訣であると私は考えている。

『柳田國男全集 13』 ちくま文庫(1990) 385頁

...人が顔つなぎには必ず酒食を共にし、ことに通婚の場合には徹底的に、夫婦も双方の一族も、ぜひとも同じ器から飲みかつ食うことを条件としているのも、本来はモライの行為であって...乞食のモライは言わばその専門の職であり、従って後々新たなる動機が附加したのだけれども、その中にすらも臨時の必要によって、方式としてこれを行う者が絶えなかったのである。...モラウはとにかく全部が卑劣下賤の行為でもなかった。

『柳田國男全集 17』 ちくま文庫(1990) 302頁

我々の提出する疑問は、決して好事一遍の閑題目ではらない。マタギ山立の群はすでに数を減じ、また生業の基礎に離れてもはや特異の存在を保てなくなった。...彼等を祖先とする者の血は、里に入り町に入り農民の中をくぐり、今日のいわゆる大衆の間に混入してしまった。以前我々が山立の気風として、または山臥行者の長処短処として、あれほど注視しまた批判した正直・潔癖・剛気・片意地・執着・負けずぎらい・復讐心その他、相手に忌み嫌われ畏れ憚られ、文芸には許多の伝奇を供し、凡人生涯にはさまざまの波瀾を惹起した幾つともない特色は、今やことごとく解銷して虚無に帰したのであろうか...これを突き止めようにも何の方法もないというのなら是非がないが、いやしくもこれを明らかにする希望がすこしでもありとすれば、我々はそれを試みなければならぬ。そうして少なくとも国人をして現状を意識せしめなければならぬ。

② 453頁

...この日我々が弾崎の燈台の入口で、すれちがった四人づれなどは、その三人までが襟に会社の名を染め抜いた袢纏を着て、職工のような風采をしていたが、それを赤玉の人たちは一見して、すぐに気が付いてホイトだと囁いた。
...どうしてホイトだということが判るのかと訊いてみると、これには明瞭に答えることができなかった。しかし少なくともひとつの特徴は浅葱色の風呂敷を筒に縫って、その中ほどを綴じて袋にしたのを、携えているから知れると言った。...関東東海では一種の漂泊者、我々がサンカと呼びまた箕直しなどという人々が、スマブクロというものを持っていることはよく聞く話である。

『柳田國男全集 2』 ちくま文庫(1989) 260頁

神主・神職の起こり、婚礼儀式にも見られる乞食の沿革、同書に納められる昭和期の論文の末文...他にもそれらしい記述があったと記憶しているが、流石に一から披くのは、開拓されし今日の文明社会に末端ながらに携わる者として、限度を超える。

しかし、彼の主たる論旨とされるものにも、このような筆致を随所に書き綴るということは、彼の出発点であるという一部の専門家の指摘や彼等漂泊民らと辞書的な常民との相互作用性という視点とも符合すると解せられる。

ついでに、今回取り上げた折口信夫氏の論稿においてもその系譜のつながりは強く感じる。

...とにかく恐しい者が、澤山乗り込んで来たのである。家の中へ鬼が這入つて来て、女子どもを追い掛けまはし...怠け者を懲らしめた。異人にも、怖いものから小さいものに到るまでの、千種萬別の違ひがある。...村の若い者でなく、村に所属してゐる部落の者、或は隔離して住んでゐる者がやるやうになつて来る。それも一箇村でなく、數箇村に對してやるやうになって、次第に職業化して来た。これが祝言職の起りである。彼等は初春に多くやつて来たが、それらを乞士(ホカヒビト)と言った。

③ 151頁

このある種の漂泊民やはたまた山人らの「祝言職」ないし神主的性質については、柳田國男氏が再三指摘していることだ。折口信夫氏も何度も論じているところを併せて見ると、民俗学の巨匠二人にあって、とても問題の外に置いていたとも思えず、むしろ、民俗学研究に流れる底流のようにも窺える。

学者しぐさのそれかは存ぜぬが、柳田國男を引用する際の「柳田は〇〇にあまり触れず」「柳田は〇〇していない」...という挨拶文擬きが一人歩きする余り、貴重な被差別部落への論究を見逃してしまうのは大変勿体無いと思う。学問的に言えば、その後退性への批判は然るべきだと思うが、その逆張りなるものがかえって彼の神格性を助長してしまうと懸念するのは、ひとえに低学歴に拠るものなのか...まぁいいや()

しかし、部落民についても当初は異人種説を採っていたようであるが、後には修正している。ちなみに山人は先住民説とする記述がいくつか確認できた。記録がてらに。

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