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流行語・若者言葉こそ、日本語史の中心である...標準語運動と方言ー柳田國男を読む_10(「方言覚書」「国語史新語篇」「標準語と方言」「国語の将来」「小さき者の声」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

①『柳田國男全集21』ちくま文庫(1990)
②『柳田國男全集22』ちくま文庫(1990)

序論

 「りょ」「エモい」「イキる」「とりま」「わかりみが深い」...日々転々とする現代の新語ないし若者言葉。

若者言葉を聞き、眉を顰める年輩者とて、その昔に「マブダチ」や「バイビー」、「ナウい」「ケバい」と時代の流行語に挟まれていたわけでして、ビジネスや改まった場も例外なく、尊敬語や定型句などを見れば、有為転変としていることは容易に感じ取ることができます。

これを「日本語の危機」だとオオカミ少年ばりに囃し立てるのも、もはや様式美だと我々は感嘆してしまいますが、生きている限り永続する、この終わりなき国語教育という名の魔物...実に厄介な魔物、絶対に友達にしたくな(ry
ともかく、この魔物に何かしら有効な対処を施したいと考えるのが人の性でしょう。

このようにふと立ち返った時に、我が国の国語がどのように変遷していったのか、実に気になるものです。

明治近代に始まって、標準語運動の最前線であった学校制度がこの国語に最大の影響力を及ぼしていることは論を俟ちませんが、別に言語は学校に始まるものではなく、その前にも祖先は言語を使い、生きていた訳です。

そこで今日の標準語ないし学校制度の国語教科書等に影響を与え、また、国語史の習性を具に観察したのが、日本民俗学の父、(低学歴境界人に毎度紹介されるちょっと不憫な)柳田國男であります。

「古典に立ち返れ!」「黙って教科書暗誦」「社会人マナー講座」といった固陋で安売り感の否めない一過性の対処法ではなく、言語を連綿と繋ぐ祖先が生き生きとどう紡いだか、また主題にある新語や若者言葉について、柳田氏の論文から所見を窺い、その真の対処法とやらを読者諸賢の皆様と共に考えたいと思います。

では本編へいきましょう。

本論

新語(若者言葉)と方言

...当初自分は人生の新語需要というものを、幾分か単純に見過ぎていた。...何か新らしい好みを掲げようとする以外に、人が時あって変化そのものにも興味をもち、単なる形の長短や音の組合せ、ないしは聯想のおかしさなどに心を惹かれて、かようにまで気軽にいろいろの新語を、受け入れようとしていたことは知らなかったのである。これが当世に入って一段とその勢いを長じ、あるいは才分ある者のわざ競べとなり、もしくは軽薄でしかも遅鈍なる者の、盲従とも口真似ともなったのは自然で、悲しむべき今日の乱雑状態にも、言わば培わるる本の種はあったのである。この流弊と闘うの途は、第一次にはこれまでの行掛りを知ることである。

① 297-298頁

 戦前から戦後まで長き渡って、日本語における新語の働きを探求していた柳田氏でありますので、細かい問題点に変化はあったとは思いますが、基本的な問題意識は上記でうまく纏められているように思えます。

我が国の言語史にあたって、記録文書のみに依拠せずに民俗事象をも用いて究明したい民俗学者にとっては、やはり、方言は欠かすことができません。ですので、この論文では方言という絶好の史料を基に、国語史の変遷を説いていくとそういうスタイルになっています。まぁー古典信奉者への批判が止まらない柳田氏にとってはなおさらのことでしょう(小声

「古い言葉は田舎にあり」
かつての荻生徂徠や本居宣長が述べていたことですが、柳田氏もこれは、当研究に欠くべからざる啓発であると称賛しており、彼の言う方言周圏論の論拠の一つともなる基本的な考え方となります。

とにもかくにも、田舎の言葉、すなわち方言はこれを読み解く一つの鍵だということが窺えます。

少し仔細に立ち入ると、『国語史新語篇』では方言の定義について、柳田氏は結構な紙数を割いて述べております。何やら今日の学者間で色々と論争があるそうですが、平たく言うと、訛りや文法を除いた、いわば標準語と相違する単語のみを狭義の方言として定義しています(不本意ながら)。方言区画論者の東条操とは対局をなすスタンスです。

当時の民俗学の限界だと喚くのが学者しぐさなのかもしれませんが、民俗学黎明期にあって、採集と併せてこのような全体動向の分析を行う訳なので、今日の科学的手法と同じように限局せざるを得ないのは当然っちゃー当然です。
まぁー、何かと柳田氏の文句一つつけるのが、学者論文での挨拶みたいなもんですから、限界クラスタ以外はあんま気にしなくていいと思います(白目

東京語=標準語は誤り?

 方言と対比させる中で、標準語を東京語と呼ぶ嫌いがありますが、東京語とて、標準語運動の影響をまんま受けていたことはあまり周知されていないように思われます。
例えば、「棄てる」のステルは、元は上方、すなわち京都付近の口言葉であり、関東付近だとウッチャルという語が広く使われていたとのこと。

この東京語の歴史を考えてみるのに...ことに近年は自分達の群の中で、新らしい物言いを考え出して、急激に流行させるという特技を持った人が多かったかと思われる。たとえば仮名垣魯文から饗庭篁村までという期間に、彼らが生粋の江戸言葉と信じて写生していたものの中にも、もう春水・三馬等のまるで使わなかったろうと思う単語・句形が、幾つとなく拾い出される。市民はまた本にでも出ているといよいよ安心して、目前のものを永代のもののように心得...競うて毎日のように振り回していたのだが、それがやがては早く古び...今日試みに篁村の一つの小説を取って読ませてみたら、若い東京人には呑み込めぬ会話が多く、三十年を出でずして注釈書な必要になることと思う。...だいたいに動詞と形容詞にはこうして俄かに起り...それを比較的数多く記憶して使う人が昔風と呼ばれるが、実はちっとも昔風なことはなく、言わば時おくれの新らしがりに過ぎぬのである。

① 523頁

とりわけ、東京人はその新語ないし流行が顕著であり、もう近世からもそんな感じだったことが窺えます。

若者言葉の流行は昔からあった?

 前節では中央ないし東京語の新陳代謝が激しいことが説かれていましたけれども、古語を温存する田舎の方は安泰だったのか...ではなぜ、方言は区々なのか...

要するに方言の今日あるを致したのは、統一なき成長の結果であった。都府のいわゆる文人墨客が、おのればかり擬古文の城砦に立て籠らず、せめては無住法師等の半分くらいの親切をもって、周囲の市人に話しかけようとしてくれたなら、こういう小区域の勝手次第の変化は起こらなかったことと思う。...境遇のしからしむるところ、日本では村でもおいおいに独立して、気の利いた新語を発明する術を覚え、ことに少年青年のごとき経験の狭い者が、仲間ばかりの小さな一致に基づいて、自在に物の名や文句を選択していたために、今に至るまで一方には古いものを匡正せられつつも、傍らに新しい発言の成長して、さらに分析しがたい混雑を増加せざるを得なったのである。

① 117-118頁

ことに少年青年の新語生成能力は、擬態語を中心にして、多くの方言に残されていることから、その高さを窺うことができます。また、例えば、神仏をアトと呼ぶ羽後・筑後の小児語や神をアトサンと呼ぶ伊勢の小児語は、いずれも神の古語アトサマの名残を色濃く反映しており、古語温存に一役買っていたことが分かります。

現在の若者言葉における古語温存の存否はここでは問いませんが、大人の世界とは違った世界で新語を生成し、地方・中央の常用語として輸出していたのは今も昔も変わらないようです。
ただ、交通網が繁くなると何とも複雑となり、柳田氏からすれば、それが一種の弊害となっていると指摘したいのでしょう。

現代の尊敬語の氾濫

...敬語は中世以後やや不必要に用途が拡張せられ、また幾分か安売りに過ぎている。頻繁なる使用によって言葉のきき目が鈍り、次から次と新しい単語がさし替えられ、従って地方ごとの変化が格別に区々になって、ためにかえって交通の累いをなしている。現在は我人その不便不安を散ぜんがために、言わず語らずのうちにできるだけ、その種類と段階とを省略せんとする傾向を示している。...新たにどこにもないような言い方まで、こしらえて押し付けるというに至っては、果して権能の濫用でないかどうかを危ぶまざるを得ないのである。

② 147-148頁

 柳田國男のケ・ハレ論は、多く論文で散見することができますが、上記はまさにそれに該当しそうですね。
日常(褻)と非日常(晴)の混同が近世より激しくなっており、この尊敬語一つとってもその変遷の影響をもろに受けていることが分かります。

昔の村落では、晴れの場など数ではそんなに多くなく、晴れの言葉なるものも僅かで済んでいました。武士階級で使番など応接する者が、武芸のごとく高度な芸当を求められる他はそのけじめがはっきりしていたとのこと。
それが、現在の国語教育でもカバーしきれず、とりわけ田舎者は不当に真価を低く見られることから無口になってしまうと警鐘を鳴らしています。

柳田氏はこの敬語を比較敬語と分類していますが、この尊敬語の類は、特に日本語を学び難くしている原因であるそう。

一語増えるたびに欣喜雀躍するマナー講師以外にはやはり弊害として捉える必要がありそうですね()

(余談)方言周圏論に関する整理

 柳田國男氏の方言周圏論は言語地理学の影響を受けていることは当論文に直接記載されていなくとも、その文脈から大いに看取できます。辺境残存もまた、言語地理学の知恵でありますし、学界で批判を加えられつつも、原則として方言周圏論は受け入れられている傾向にあります。
胡椒や玉蜀黍、馬鈴薯、甘薯といった分かりやすい輸入物については上記に反した単語となりますが、柳田氏もこれについてはいくつかの論文で考察を加えていたことはメモしておきたいですね。

...古い単語の残ろうとする力、いわゆる訛語の存立を許さるる限度というものを考える必要がある。地方の言語の遠く懸け離れた一致については、今までの人は単に特別の交通もしくは移住を推測していただけであったが...別にこれ以外になお一つの原因の、いたって大切なるものが心付かれずにあったのである。仏蘭西の近頃の方言学者たちは、これを le principe de la continuite des aires(方言領域連続の法則)と呼んでいる。一つの言葉、物言いには大か小か、元は必ず一続きの使用区域があったのである。それが中切れて遠くに飛んでいるということは、主としてその中間に新しい次の語が現われて、今まであったものをやめさせた結果と見てよいのである。稀にはもちろん人が携えて運んだ場合もあろうが、それは物にもよりまた場合にもよることで、国で古くから知られていたはずの言葉が、互いに関係なく一致しているときは、そう言う説明は成り立たなくなるのである。

② 401-402頁

近代以前の水運ないし日本海側の水上交通も度々取り上げていますし、そういうことは織り込み済みで、方言周圏論を説いているということはまず念頭に置いて良いかもしれません。

結論

 メモした数的に、すぐ書き終わるかな〜と思っていたら、結構な文字数になっておりましたね(涙目

これでも方言事例とかを省いたので、相当スッキリするのではと思念しておりましたが、やはり低学歴だけに圧倒的に記憶量が足りませぬ。こんなんでは最新OSにも置いていかれるゾと...

閑話休題。このようでは、横文字が流行るのも無理もないみたいなことを柳田氏がぼやいていたように記憶しておりますが、とにかくに、彼が言わんとしたいことは、腹にあることをめい一杯言語化するために真の国語教育を確立せねばならないとのことでした。

方言でも例えば、中央にない事象をそれこそ地方の新進気鋭の子供たちが新語生成し、豊かな語彙力を担保していたのに、あれやこれやと十把一絡げにし、十分な分析をしないまま、方言匡正ないし標準語運動に走ったことを責め立てておりました。
それが実に狭量な語彙に留め、「啞」となる者を増加させているという文脈に行き着く訳です。

何かとこの方言匡正のイメージが一人歩きし、標準語運動に参画した一点をもって全否定に走る見識者も随分と見かけたものですが、柳田國男はじめ多くの民俗学者が参画している中で、その論旨を十分に把握出来ている人は果たして何人いるのか、私はこの点がどーしても疑問符として残ります。

最後に、その若者言葉とて近世より氾濫の感は拭えませんが、それでも学校制度以前から国語史の中心におったことはよく分かったと思います。
文献学とはまた違って、聞き学問が主ではありますが、やはり日常で欠かすことのできない後者のことですので、何かと眉を顰めるのではなく、耳を澄まして、腹の底からコミュニケーションが取れるといいですね...とコミュ障が文面で述べております(白目

さて今日はここまで。次回は、んー、それこそ文字数の少ない余話みたいな感じでいきたいですね。ではでは。

備忘録

  • 東日本の海岸沿いのヤンツウ、ドウシンボウ、モスケといった今日でいう盗人は、ヌスミといった忌み言葉には該当せずに使用されるケースが確認されたと。新語需要増加に伴う弊害?

  • 死ぬを忌み言葉とする傾向は全国に強くそのための方言も多い。三河ではイシヲイタダク、飛騨ではシバカブル、能登ではハッソクワラカツグ、周防ではモバヲコニカクなど。

  • 愛と憐れみの分化。上総では愛子をムゴと呼び、可愛いをムゴイという。東北では可愛いをメゴイ、可哀想をムゴイとよぶ。九州では愛するをムゾガルと呼ぶため、僅かな変化をもって意味分けする。鹿児島のムジョゲナや大分のムゾーナギイなど。

  • 意外にも赤とんぼの名称が北と南で古語保存が行われていたとのこと。岩手ではアキズ、アケズ、沖縄ではアケス、小浜島ではアケズ、与那国ではアキダンなど。 

・七歳神話の元ネタ?

七歳になるまでは子供は神さまだといっている地方があります。これは必ずしも俗界の塵に汚れぬからという詩人風の讃歎からではなかったのです。亡霊に対する畏怖最も強く、あらゆる方法をもって死人の再現を防ごうとするような未開人でも、子供の霊だけにはなんらの戒慎をも必要とせず、むしろ再びすみやかに生まれ直して来ることを願いました。これとよく似た考えが精神生活の他の部面にもあったとみえまして、日本でも神祭に伴う古来の儀式にも、童児でなければ勤められぬいろいろの任務がありました。

② 362頁

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