KYO🌳センセイの遺書【中学社会】

子どもと一緒に「よりよい社会」を考えて変えていく、中学校の社会のセンセイです👨‍🏫 小説…

KYO🌳センセイの遺書【中学社会】

子どもと一緒に「よりよい社会」を考えて変えていく、中学校の社会のセンセイです👨‍🏫 小説を書いて出版し、センセイを"辞める"までの記録。まさに『センセイの遺書』ほぼ日で記事を更新中😃 社会科/教育/子育て/読書/小説/純文学/エッセイ

最近の記事

世の中の真実を知るには

真実を知るために、さまざまな学問がある。全ての学問の本質は、真実に到達することだろう。社会科学も自然科学も人文科学も、同じことだ。 私は三十になるくらいまで本屋ではもっぱら実用書•学術書コーナーを練り歩き、哲学書やら歴史書を買い漁っていた。小説や文学などは所詮「虚構」と卑下していた。 しかし、近年は小説や文学しか読んでいない。主に明治•大正期の作品や作家であり、主に純文学を好んで買っている。最近の作品や大衆文学では読み応えがなく、途中で読めなくなってしまう。楽しい、面白い

    • 私にしか分からない価値

      引っ越しのときに、不要になったものを処分する。ソファやらカーペットやら、カバンやら。捨てるのはもったいないので、リサイクルショップで査定してもらおう。すると、思いのほか安い値段になる。諦めて売るものもあれば、そんなに安いならば売らずに引っ越し先まで持って行って使おうとなるものもある。 私たちが普段目にしている価格は「交換価値」を示している。「良いものだから高い」のではなく、「高いから良いものに違いない」という思い込みにつながる。しかし、本当はそうではない。 お店の人がこの

      • なくなれ、受験

        受験はクソだ。受験で人の何が分かるのか。まだ十五年しか生きていない子どもたちを、名前のない子どもたちにして、数値化して、上から順番に並べて選別してゆく。非情だ。 そもそも高校が学力や偏差値ごとに階層のようになっていることに、多くの大人たちはなぜ何の疑問も持たないのだろう。ヨーロッパの一部では非人間的な受験制度は廃され、抽選制になっている。学力による差別を前提としなければ高等教育とは実現できないのだろうか。なぜ小中学校のように学力にかかわらず、みんなで共に学び合う空間を保証し

        • ゴジラ-1.0のラストに抱いた強烈な違和感(ネタバレ考察)

          私はあらゆる戦争に反対の立場なのだが、だからこそ帰還兵・敷島はラストで死ぬべきだったと確信する。それはなぜか。 『ゴジラ-1.0』という作品の特徴として、政府や軍の対峙ではなく、市井の人々が厄災に対峙する点にある。この構造はまさしく「セカイ系」となっている。つまり、社会という人と人との見えない助け合いが消失したセカイにおける、新自由主義下における個人のサバイバルという構造である。政府は何もしてくれない、だから自分で何とかするしかないという結末はまさしく資本主義に魂が包摂され

          君に届かない

          がらんとした教室ーーつくづく閑散とした教室、入試に向けて自宅学習の名の元に学校に来ない人の多い事実を前に、自分のやってきたことや、やりたいことが本当に正しいのかと問われているような気がした。これで正しいと思っていたことは、間違いかもしれないと思えてくる。やはり先生、教師という存在は、君たち生徒がいなければ成り立たない。いくらいつも偉そうにあれやこれやと言っていても、君たちがいなければ何も教えることができない、一緒に考えたり、悩んだりすることができない、ただの人になってしまう。

          「政治には金がかかる」のではなく

          政治資金パーティって何だろうか。詰まるところ金持ちや企業からワイロをもらってたってことだ。一応ルール上、名前を公開しておこうというだけで、やっていることはワイロ政治だ。 その「公開したワイロ」を秘密にせずにしておこうって決めたのに、今回してなかったから問題になっている。 しかし、そもそも公開してもしなくても、やっていることは金にモノ言わせて「利益うちらの会社に回して」ってこと。ワイロなんて公開してもしなくてもやるべきじゃないに決まっている。 金のない庶民の利益は後の後に

          「政治には金がかかる」のではなく

          美術館に行こう

          結婚して子どもが生まれ、美術館にパタリと行かなくなった。美術館に行って何を見ればよいのか分からぬまま、初めて行ったのが30歳の春だった * 近代絵画というものに触れたくて京都岡崎にある近代美術館に向かった。しかし開催されていたのは「河井寛次郎」という当時は知らない陶芸展だった。陶芸か…と、がっかりしながらチケットを買って入ったことを覚えている。 しかし、その寛次郎の陶芸展が非常に面白かった。初期の作品から晩期にかけて、どのように変化させていったかがよく分かる展示となって

          なぜ学校は役に立たないことを教えるか

          学校はなぜ役に立たない学習をさせるのだろうか。いつか使うではなく、ほぼ一生使わないことをなぜ学ぶのだろうか。 学校の勉強が全ての基礎になるとか、こんなことも分からなくて将来何が分かるのかなど、それっぽいことは聞いたことがあるかもしれない。しかし事実はそうではない。 * 本質的に言えば、役に立たないからこそ意味があるのだ。すぐに使える、すぐに役に立つことなどこの世に数多あるが、そんなものはすぐに使えなくなる。人類が「役に立たない」が、歴史的に普遍的に学んできたことこそが、

          なぜ学校は役に立たないことを教えるか

          生きる意味はない

          生きる意味とは何か。「胸を震わす恋の情熱、それが生きる意味だ。相手無しでは生きられないと思えるほどの経験がなければ、人生には意味が無い。」と言う人がいる。映画「ジョーブラックをよろしく」で、死神に取り憑かれた男は、そのように生きる意味を語るのだ。その男は最期に愛の本質について、次のように語る。 死を前に語った男の言葉は重い。利己的な恋ではなく、利他的で無償であるべき愛の本質を見事に捉えた言葉だろう。しかし人生に恋だの愛だの、なくたっていい。 ニーチェが言ったように「神は死

          インスタントラーメンはラーメンではない

          インスタントラーメンはラーメンではない。インスタントコーヒーもコーヒーではない。の、ようなものである。 instantなもの、即座に即興でできるものは本物に似せているが、本質的では無いものが多い。 SNSはまさにinstantだ。Instagramはinstant telegramの略であり、その場ですぐ発信できる電報のようなものという意味合いだ。xだってnoteだって同じだろう。結局はその場しのぎの仮の姿に過ぎない。 『13歳からの具体と抽象』という本にもあったが、人

          インスタントラーメンはラーメンではない

          辞めてはまた始め

          やはり書くことを辞めたくない。 フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』でもあったように、書くことは癒しになるはずだ。 自分は誰からも必要とされていない気がしても、自分にしか書けないものを書くことで、自己の内面と向き合う何かの表現を通して、何より自分自身が自分を必要としていることに気づく。 「緑の光」に囚われず。書き留めることにしよう。 また辞めてもいいし。

          【書評#17】個人主義/火垂るの墓

          「火垂るの墓」はジブリ作品のなかでもトラウマ映画としてよく知られている。太平洋戦争のなかで小さな兄妹が必死に生きようと藻掻き、そして残酷にも死んでいく。「やっぱり戦争はいけない」という気持ちになる。しかしこの作品の映画監督である高畑勲はその「反戦」というメッセージ性を以下のように否定する。 私たちはその為政者に再び騙されて、ああなりなくないから、他国に攻められる前に攻めなければならないと思うのではないではないか。あの映画に描かれた「当たり前」は、今から見れば「異常」である。

          【書評#17】個人主義/火垂るの墓

          【書評#16】死を想え/志賀直哉『城の崎にて』

          城崎にて『城の崎にて』の豆本を買う。温泉宿の受付前にそっと置かれていた。早朝の温泉宿、城崎にて『城の崎にて』を読む。なんと贅沢な時間であったことか。蜂と鼠と井守。それぞれの3匹の死から生を考える私小説であった。 せわしく働く蜂と、静かに死んでいる蜂。日々のせわしく忙しく働くことへの嫌悪。「死に対する親しみ」を抱いてしまう私たち。しかし、死は本当に静かなものなのだろうか。鼠が人間から石を投げられて恐怖のなかで生きようと藻掻く。私たちもいざそうなれば死から逃れようとするし、死は

          【書評#16】死を想え/志賀直哉『城の崎にて』

          【孤灯芭#45】"映えない"人生を生きる

          今の時代の正解は、正しいとかかっこいいとか可愛いよりも絶対的な基準がある。それは"映える"かどうかということ。この言葉や概念が浸透して久しいが、改めてこの意味について考えたい。 映えるとはイコール、多くの人の共感を得られるということである。それがたとえ自らの"承認欲求を満たしているのだ"ということを分かっていても尚、人々は増幅して共感を求めてしまう。パッと見ただけで感動したり、引き込まれるものに市場価値があるのが現代である。サビから始まる曲然り、見た目重視のスイーツ然り。つ

          【孤灯芭#45】"映えない"人生を生きる

          【孤灯芭#44】旅先の朝

          朝早く起きて、温泉巡りに向かう。徒歩5分の露天風呂に行こうとしたが、妻との電話でそこが開いていないことを知る。そして、この温泉郷に来たら行っておくべきと誰が言ったか知らないが、そうらしいところがあるらしく、徒歩10分ほどかけて行くことにした。からんからんという下駄の音が川のせせらぎに流されてゆく。 その風呂は目の前に滝があって、迫力があった。自然の中をくり抜いてつくった風呂のようであった。露天風呂は無限に入れる。かつて独身時代は朝から夕方まで、近くにあるスーパー銭湯の露天風

          【書評#15】当事者性の嘘/市川沙央『ハンチバック』

          障害者は健常者ではない人ーーではない。健常な人間など存在しないし、老いて人はいつか障害者になる。障害とは、"社会参画の著しい困難な状態"であって、人間そのものを表す言葉ではない。 さらに言えば、"社会参画の著しい困難"さえもそれかその当人にとっては"当たり前"なのである。目が見えない人が目が見えるようになりたいとは限らない。車椅子のクララも、立つ必要がなかったかもしれない。つまり「健常者成人男性モデル」で作られた社会が、障害のある人を障害のあるままでいさせないという構造があ

          【書評#15】当事者性の嘘/市川沙央『ハンチバック』