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ゴジラ-1.0のラストに抱いた強烈な違和感(ネタバレ考察)

私はあらゆる戦争に反対の立場なのだが、だからこそ帰還兵・敷島はラストで死ぬべきだったと確信する。それはなぜか。

『ゴジラ-1.0』という作品の特徴として、政府や軍の対峙ではなく、市井の人々が厄災に対峙する点にある。この構造はまさしく「セカイ系」となっている。つまり、社会という人と人との見えない助け合いが消失したセカイにおける、新自由主義下における個人のサバイバルという構造である。政府は何もしてくれない、だから自分で何とかするしかないという結末はまさしく資本主義に魂が包摂された状態であり、新自由主義に心まで蝕まれた末路と言って差し支えないだろう。(※余談だが、シン・ゴジラは「セカイ系」の系譜の源流とも言える庵野氏が監督であったが、そのセカイを自ら克服し、社会を再構築する物語のようで素晴らしかったように思う。)

そして何より、特攻隊の元隊員が最後に命を捧げずにゴジラを倒す描写に強烈な違和感を抱いた。当然、特攻は人命軽視の史上最悪の作戦である。その人命軽視だった戦前・戦中日本と決別して、戦後日本を築くというある種の希望をラストに描いたのだろう。しかし現実には特攻のような人命軽視のセカイが戦後も続いているではないか。自殺、過労死、虐待死。私たちは、見えない人との助け合い(=市民社会)を拒み続ける、社会なきセカイを当たり前のものとして生きている。目に見える知っている仲間とだけ助け合う新自由主義的なセカイである。

本作は「命を賭して戦うことを求められてしまった時代」から「市民が主体的になって生を追求する時代」の変化を描くというコンセプトらしいが、どちらも誤りである。現在も残念ながら政府に「命を賭して戦うことを求められ」るし、「市民は主体的になって」利己的に「生を追求」せざるをえない悲劇を描かなければならなかった。描くべきは「人間対ゴジラ」ではなく、やはり「人間対政府」だったのである。厄災の本質的な正体たる戦争(反戦・反核映画としてのゴジラ)は、まさしく無能な「政府」が引き起こすのであり、私たち市民は無能な政府を抜きにしてゴジラと「戦う」のではなく、無能な「政府」を機能させてゴジラと対峙しなければならない。

私たちは、見えない助け合いのないセカイの中で個々人が生き残りをかけて死んでいく現実に今もいる。戦前から「人命軽視」の構造は脈々と現代まで続いている。そう言う意味で、ひとりでゴジラに立ち向かう彼のような精神そのものを我々の心から葬り去るべきだったのだ。だからこそ、あの帰還兵・敷島は安易に生かすのではなく、そこで死に、戦後なのに何も変わらない「特攻」させる現実を描くべきだったのかもしれない。

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