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【孤灯芭#45】"映えない"人生を生きる

I don't do drugs. I'm drugs.
私はドラッグをやらない。私がドラッグだ。

ダリ

今の時代の正解は、正しいとかかっこいいとか可愛いよりも絶対的な基準がある。それは"映える"かどうかということ。この言葉や概念が浸透して久しいが、改めてこの意味について考えたい。

映えるとはイコール、多くの人の共感を得られるということである。それがたとえ自らの"承認欲求を満たしているのだ"ということを分かっていても尚、人々は増幅して共感を求めてしまう。パッと見ただけで感動したり、引き込まれるものに市場価値があるのが現代である。サビから始まる曲然り、見た目重視のスイーツ然り。つまりそこには中身がない。それは現象も人間も同じだ。みんなが求めるものになろうとすること、まさしく資本主義社会において売れる"商品"となろうとする人間そのものである。

本当の人間や経験の価値は"映え"では測りえない。むしろ写真にSNSに上げることがない日常こそ価値がある。みんなに共感される日々など、糞の役にも立たない。その時の自分は悦に浸っていても、次の悦までの"麻薬"に過ぎない。

"麻薬"を誰かから買うのか、自ら生み出すのかーー人生の意味はここで決まる。人からもらった麻薬とは言えないシロモノを自らの手で"麻薬"にするべきだ。そして、究極は自分で"麻薬"を生み出すべきだ。文学、音楽、芸術として。何より目の前の"映えない"人生を愛せ。

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