歌舞伎とガロと聖徳太子で培ったもの。 振付・演出家 菅沼伊万里インタビュー vol.1
あるジャズライブの会場で、ギリシャ彫刻のようなふくらはぎを持つ女性に出会った。聞けば、振付・演出家だという。宝塚歌劇団や早乙女太一の舞台振付も手がける彼女は、「バンビ」の愛称で知られるThe Bambiest(ザ・バンビエスト)主宰の菅沼伊万里(Imari Suganuma)。ダンスの名門である日本大学芸術学部洋舞科卒業後、ロンドンのCentral Saint Martins(セントラル・セント・マーティンズ)でグラフィックデザインを学んだという、一風変わった経歴の持ち主だ。
後日、私は原宿のヘアサロン、boy Tokyo(ボーイ トウキョウ)を会場に行われた「バンビ」の公演を拝見した。コンテンポラリーダンスにありがちな、独特の不可解さがまるでない。それでいて鋭くセクシーで、世界に対して一歩も引かない強い信念も感じた。今回はそんな「菅沼伊万里」というクリエイターを形成した、意外なエレメンツについて話を聞いた。
>ダンスを始められたきっかけは?
「私がまだ1歳になっていない頃、CMが流れるたびに踊っていたんですって。それで『この子は音楽家か、ダンスの道に行くかも』って(母が)思ったらしくて。それで4歳の時、クラシックとモダン(のダンス教室)に連れて行かれて『どっちが気に入った?』って言われて、その時に選んだのがモダンだった。クラシックは全員同じタイツとレオタードで、(髪は)引っ詰めのお団子で、なんか怖かったんです。みんなクローンみたいで。子供ながらに『ここの空気はヤベー』と(笑)
モダンの方は、先生がピアノ弾いて『力強いポーズ!』『氷の彫刻!』とか言うとみんなが勝手にポーズして。そうすると先生が『タラタラタラタラ〜♩ 太陽が高く昇ってきて、ああ、氷の彫刻が溶けちゃいそう』とか言うと、みんながいい感じに溶けるんです(笑)だから見ていて、なんか楽しそう!って」
>日本大学芸術学部の洋舞科は、難関コースですね。
「(ダンスを)ずっとやっていたのは12歳までだから、日芸に現役で入るのは、自分のスキル的に『受かるか受からないか分からない』っていう感じでした。たぶん(合格倍率は)十何倍くらいだったと思う。二次試験の稽古場の大きさが決まっているので、何十人、何百人が受けようとも、30人しか一次を通らないんです。
実技では『丸、三角、四角』って言うテーマを出されて、5分間だけ与えてられて、その中のどれかを選んで踊りを構築しなきゃいけなかった。で、私、チョイスを間違えて、みんなが選びがちな『丸』を選んじゃったんですよ。『三角』を選んだのは2〜3人で、『四角』は一人だったからそっちを選べばよかったのに。でも、半分くらいクラシック出身の人がいたから床を使わないんだろうと思って、床で寝っ転がってやるようなものを作った。
結局それで受かるのが10人なんですよ。めちゃめちゃ狭き門」
>ダンスのセンスやテクニック以外に求められたものは?
「一番大変なのは面接。当時は面接前にアンケートがあって、それに自分の人生を全部書かなきゃならなかったんです。『好きな本は?』『好きなダンサーは?』とか質問がいっぱいあって、それを見て先生たちが『この子は本当に振付家になろうとしているのかどうか』を吟味するんですよ。
私は当時、あんまりコンテンポラリーダンスの振付家を知らなくて『好きな振付家は?』っていう項目に『スーパー歌舞伎の市川猿之助』と書いたんです。『歌舞伎は日本のものだし一見関係ないように思えるけど、そういうところからインスパイアされて西洋舞踊ができたらいいなって思ってるし、そこに線引きする必要性は分からない』みたいなことを言ったら『面白い!』って先生が盛り上がっちゃって『変な子、来た!』みたいな(笑)」
>合格の決め手になったのは何だったんでしょう?
「面接で『なんで大阪の中高に行ってたの?』って聞かれたんです。私が行っていた学校、四天王寺(中学校・高等学校)っていう進学校なんですけど、聖徳太子が建てたお寺の中にある学校なんですよ。教室に入ったら窓から五重塔が見えるんです。
私は8歳の時に、『寿命が80歳だとしたら、自分は知らないうちにもう1/10を過ごしてしまった』っていう衝撃を食らったんですよ。ふと気づいたんです、人はやがて死ぬんだということに。ちょっとそれに気づくのが早すぎて自己処理出来なくて『わー!』ってなっちゃって。
そしたら父親が、ひろさちやの般若心経っていう本を買ってきて(笑)まあ、子供でも分かるような本なんですけど、それを読んだら般若心経の中にすべてが入っている。『空(無)である』『そして宇宙である』っていうことなんですけど。聖徳太子も幼い時に『死』について悟ってしまって苦悩したことに、当時すごく共感して。
それで『生と死の哲学に気づいちゃって、聖徳太子のお膝元に行けば何か分かるかもしれないと思って』言ったら先生が突然『…そう!』って言い出して。『コンテンポラリーダンスっていうのはね、己の中に哲学がない限り、作品は作れないのよ。軸がない子が入っても、結局いい作品は作れない。だから自分なりの哲学を探求しているっていうのはあっぱれよ!』って」
>非常にユニークなルートでダンスに行きついたんですね!
「私は中高から、そうやってよその土地に住んで、しかも寮に住んでいたので、先輩からファッションとか音楽とか色々教えてもらって、早熟だったと思います。UKロックもそうだし、フリッパーズギターとかも。談話室には山ほどのVHSと漫画があって、それこそホラー漫画からガロまで(笑)高野文子さんやつげ義春さんが大好きでした。自分でも4歳からずっと描いてたので。
大阪に行ってなかったら、日芸にも行ってなかったと思うし、もしかしたらお嬢様学校に行って普通の奥様になってたかも(笑)大阪で人生狂ったって思ってます」
>四天王寺の学校でもダンスをされていたんですか?
「たまたまその学校に『創作ダンス』の授業があって、年に1回、クラス対抗の創作ダンス大会があったんです。めちゃめちゃ熱いバトル。で、中1の時にグループを束ねて作品を作ったのが最初なんですけど、何回か優勝して。中高一貫なので、それを5回も6回もやっていると年ごとに自分のクオリティも上がっていくじゃないですか。だからちゃんと本格的に勉強したいと思って。
大学でそういうのをやっているところを探したら日芸は、いわゆるピナ・バウシュとか(ウィリアム・)フォーサイスみたいな感じに、舞台の総合演出や振付をするための勉強をするところだからベストだなーと思って」
"ヤなことそっとミュート"
菅沼伊万里振付による新曲も披露される予定。
7月7日(日)12:30〜開演 3周年イベント YSM3 FINAL&NINE VOL.3@赤坂BLITZ