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永遠の未完成こそ完成された創造

宮沢賢治が生前に出版した本は、詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の二冊のみで、それは裏山の池に小石を投げ込んだ程度のことだった。しかし賢治の死後、ノートに書き込まれていた未完の作品や作品の断片が、永遠の未完成こそ完成された創造だというばかりに本になって、読書社会に投じられていった。それはいまも連綿とつづいて、今日もまた新しく編集された賢治の本が登場した。

賢治は読み継がれていくだけではなかった。彼の作品に立ち向かっていく創造者が一人また一人とあらわれていくのだ。子供たちは夢の創造に、先生は教材に、映像作家は映画に、作曲家は交響曲に、画家は絵本に、劇作家は演劇にとあらゆる領域の人々がそれぞれのやり方で、賢治が投じた詩やストーリーや思想を彼らの生のなかに縫い込んでいく。賢治の作品はけっして滅びることはない。時代とともに成長していく。賢治もまた三百年生きてその思想を結実させるという創造者だった。

読書社会はベストセラー作家を産み出していく。何十冊もの本を書き、それらの本は何十万部と売れ、ときには百万部を越えたりするから、彼らが生涯にわたって社会に投じた本の総数は何千万部にもなる。多大な影響を社会に与えていたのだ。しかし彼らが没すると、それらの本はたちまちごみ同然になって捨てられる。もはやだれも彼らの本は読まない。一年もすれば彼らの名前、彼らの存在さえ消え去っている。

それは画家たちの世界も同様だった。制作する一点一点が高額の値で売れていく華やかな流行作家も、官僚的出世階段の頂点に立った画家も、没すると同時に加速度的に捨てられていく。これはいったいどういうことなのだろうか。まるで掌を返したかのような捨てられ方だ。彼らの生地では、郷土が生みだした大作家や大画家たちをたたえる文学館や美術館を建てる。しかし建設して二、三年たつともう閑古鳥が鳴き、赤字が累積されるばかりで、その運営に苦慮している文学館や美術館が、日本中に点在している。

ゴッホや賢治と対比させるかのように、ベストセラー作家や勲章作家たちの顛末を記述していくのは、三百年生きるという思想を持つことの厳しい掟といったものを描くためである。ゴッホや賢治がそのことを鮮烈に告げている。彼らは徹底的に孤独であった。彼らの作品は売れなかった。彼らは世に受け入れられなかった。貧困と絶望の中で倒れたといったたぐいの孤独ではない。

彼らは背負いきれぬばかりの荷を背負って歩いていた。その荷とは人類の苦悩、世界の苦悩といったもので、彼らの創造とはその苦悩を解放する国をつくることにあったのである。それはなにやら天空にまたたく星をつかみにいくようなものだが、しかし彼らは描きつづける、書きつづける。目指す星にちかづくどころか、むしろそれらの星はいよいよはるか彼方でまたたいている。それでも描きつづけなければならない。

いったいゴッホはだれに向って絵を描いていったのか。いったい賢治はだれにむかって詩や物語を紡いでいたのか。彼と同じ苦悩をもって歩いている人々にである。彼と同じ戦いの血を流す人にである。彼らこそ彼の創造を理解してくれる人々だった。彼らこそ彼の創造に新生の生命を注ぎ込んでくる人々だった。三百年生きるという思想を体現することはかくも厳しい掟の上に育っていくものなのだ。

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