一寸先は闇、闇から見えたもの
写真で見た自分に落胆しがち、くるねです。
自分との対峙は苦しいものだ。
このnoteを書いたときの自分はとても追い込まれていたらしく、次の日に仕事を休むほどに転げ落ちてしまった。
この通り、どん底だ。久しぶりの涙だった。
そんなに落ち込んでいたわたしも、翌日には比較的復活した。
これは休職して得た賜物だった。
休職、退職するのも悪いだけじゃないのよ。
休むときってなんであんなに罪悪感があるんでしょうね
適応障害と診断される前までの、社畜まっしぐらのわたしは仕事を休むなんてこと、そうそう許されることではないと思っていた。
休むことで迷惑をかけるひと、患者さんや利用者さんはもちろん、休むことを謝ってくれるスタッフや事務の方々など多方面にわたる。
急に休むことで迷惑をかけるのが大層イヤだった。実際これは今でも変わっていない。他の人へふりかかる仕事があるくらいなら自分が苦労したほうがいいと思っている。
(ここはもう少し変わってくれるとありがたいのだが…)
だから一日の休みでより病んでしまう。
それを重ねるごとに適応障害へと繋がった部分もある。悪循環だった。
そのような経験ないだろうか?
仕事を休み、辞めたことで変わったこと
昨日の話に戻ろう。
夜からの涙を越えた朝、やはり仕事にはいけなかった。身体のあちこちがなぜだか痛く、動けない。
仕事を休む連絡をして、いつもなら心がざわざわしたまま、気が休めないのが常だった。
でも今回はなぜだろう、仕事から気持ちが離れてぐっすり眠ってしっかり休めた。
その、“なぜ”をよく考えてみよう。
あの日、本当に仕事に行って迷惑をかけなかっただろうか?
─いいや、迷惑をかけていただろう。
あの日、仕事に行っていたらすぐに仕事を辞める選択をしていたのではないだろうか?
─それもそうかもしれない。
あの日、行っていたらなんてどうだかわからない。
でも、あのときの自分の辛さを自分で認められたこと、認めた上で仕事を休むことを選べたこと。
その時の自分にそれができたのが大きかったのだ。
仕事を辞め、休むことで少しは自分の度量を理解したらしい。得た魚は大きかった。
今回は仕事を辞めずに済みそうだ。
(いまのところは)
仕事を辞めたり休んだりすることは、そう簡単なことではなかった。しかしこれから先の人生を少し楽に過ごすいいきっかけになったらしい。
こうやって回復しても、きっとすぐそばには闇がある。転げ落ちるのも簡単だ。
でも、その都度また考える。それだけ。
みんなえらい。
では、またね。
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